(13) まじない師の朝
長い夢を見ていた。
目覚めたとき、最低限の家具と荷物しかない自分の部屋を懐かしく感じたくらいだ。たった一晩眠っただけなのに、もう何年も経った気さえする。
街の朝は騒がしい。彼はベッドに横たわったまま、窓の外から聞こえる喧騒に耳を澄ませた。シーツに広がる髪は深いオリーブ色で、薄く開かれた瞳もそれと同じ色をしている。しなやかに伸びた肢体は、育ち盛りの若木を思わせた。身体は青年そのものだったが、気だるげな表情の奥底にはまだ少年らしい幼さも残っている。
彼は壁にかかっている時計を眺め、そろそろ起きる時間だと思い知らされた。のろのろとベッドから這い出して、朝食を胃に押し込む。数日前に買ったパンはすでに端のほうが硬くなっていて、果物も熟しすぎていた。とても彼の体には足りない量だが、今日は「副食」があるので、これで充分だった。
それから、壁にかけられていた白い衣を身につけると、古びたアパートの階段を下りた。息が白い。手すりは氷でできているように冷えていた。
隣のパン屋からは、焼きたてのパンの香りが客を引き寄せている。ふと店内を見ると、店を切り盛りしている中年の女性と目が合った。が、一瞬で過ぎ去る。風がふいて、彼の長い髪を乱暴にからかっていった。白い手でなでつけるようにして、足を速めた。
* * *
ラカッシュの街で一番賑やかな市場を越えると、大きな建物が並ぶ通りに出る。富豪たちが競い合うように軒を連ねて住んでいるのだった。その中の一つに、レンガ造りのがっしりとした屋敷がある。
玄関前の階段を上がり、彼は身長よりもずっと高い扉をあけた。
「おはようございます」
出迎えたのは、中年を少し過ぎたくらいの女性だった。彼と同じ白く長い衣装をまとっている。
「遅かったわね、ヨルバさん。ポーカスさんがお待ちです」
屋敷の中はストーヴがあるので暖かかった。一瞬、間があいた。自分のことを言われているのだと気がつかなかったからだ。
夢の中で、ヨルバはヨルバではなかった。ここに来るまでに、夢の内容はいつものようにほとんど忘れかけていたが、ヨルバというまじない師ではなかったことは確かだ。
ヨルバは、女性に一言詫びると足早に奥の部屋へと向かった。
屋敷は十数の部屋があり、ちょっとした城のようだった。事実、ここでは十数人のサバシスと交渉人たちが共に寝泊りをしている。内部は豪奢な造りで、吹き抜けになっている玄関には古めかしいシャンデリアが吊るされていた。全員が入れる食堂と、ふかふかのベッドが備え付けられている個室もある。
屋敷は、街におけるサバシスと交渉人の実質的な本部機能を兼ね備えていた。
四年前、初めてここを訪れたときは驚いて何も言えなかった。屋敷は内外全てにおいて、美という意識が染み込んでいた。ここに比べたら、ミシェバトの小屋などそれこそ犬小屋に過ぎない。
ヨルバがポーカスの部屋の扉をあけると、入れ違いにヘミンキが出てきた。ヨルバと目があうと、嬉しそうに「おはよう」と微笑みかけた。
「ポーカスさん、じゃあ、考えておいてくださいね」
ヘミンキは、そういうと自分の仕事(彼は交渉人だ)に戻って行った。
ポーカスは常に額に皺をよせ、気難しい顔をしている中年の男だったが、ここ数年でさらに皺の数は増えていた。
「先日言ったように、今日の依頼は街の南に住んでいる工場主だ」
「一緒に行くのは?」
ポーカスは、ヨルバが最も聞きたくない名前をあっさりと告げた。この養父は知ってか知らずか、よく二人を組にする。
変えてくれ、と頼みたいところだが、交渉人の長には逆らえない。というより、サバシスで一番若いヨルバが逆らえる相手など、存在すらしていないのだが。
玄関を出ると、ちらちらと雪が降っていた。冬ももう終わりなのに、今日はやけに冷える。階段には一人の人物が座り込んでいた。
赤みがかった栗色の髪を背中に垂らしている。首には毛糸の襟巻を巻いていた。
「カジャ様、今日は南の工場主のところに行きます」
「魂喰いはどっちが?」
「……僕です」
「またお前かよ。ひいきだ」
カジャはぶつくさ文句を言いながら、先頭を歩いた。ポーカスさんのお達しです。そう言い訳しながらも、ヨルバはこれから味わう蜜の味を想像しないではいられなかった。