(12) パン屋の朝
薄い朝日が、ラカッシュの街を包み込む。
もうすぐ春だが、明け方はまだまだ冷える。手を刺す水の冷たさにダナは身震いした。彼女の手は太く、女性にしてはたくましかった。
「パン屋はいつでも早起きしなきゃならないところが欠点だわ」
あくびをしながら工房に戻ると、さっそく今日売るためのパンをこねはじめた。以前は二人でやっていた作業を、一人でこなすのは大変だ。
「それも、今日でおしまいね」
ダナは嬉しそうにつぶやいた。
彼女は、二つの悩みを最近抱えていた。一つは、半年前に夫が亡くなって、パン屋を一人で切り盛りするのが負担になってきたこと。しかし、これはすでに解決の見通しがたっている。
もう一つは、隣のアパートに数週間前から気味の悪い人が住み着いたことだ。髪をだらしなく伸ばし、異国から辿り着いたような不思議な格好をしている。
サバスの民と呼ばれている人だった。
ラカッシュの街の西に広がる森の奥深くで、ひっそりと暮らしているそうだ。彼らについてはあまり詳しくない。ダナが小さいころから、彼らのことは好ましくない話題だったし、彼ら自身も街の人とは距離を置いているようだった。
サバスの民の何人かは街に住んでいるらしい。月に何度か、街で買い物をする者もいるらしい。ラカッシュの街は大きい。中央に位置する市場で、何度か彼らのことを見かけたという話を聞いた。ダナにとっては、単なるうわさ話の域を出なかった。
しかし、自分の家の隣となれば話は別だ。
すでに、新しい住人を気味悪がった数人がよそへ引っ越しした。
何度か、このパン屋にも来たことがある。その時の驚きようといったら。ダナは、焼き立てのパンが載ったトレイを盛大に落とし、店内にいた客もみんな身動きがとれなくなった。彼はダナが床にばらまいたパンの一つを拾うと、それを欲しいと言った。青年の声だった。長い前髪から、ちらりとオリーブ色の目がのぞいた。彼が去った後、客は不安そうに顔を見合わせた。
その日から、明らかに客足が減ったことは言うまでもない。
「まったく、まじないだか何だか知らないけど、大切なお客さんを奪うのだけはやめてほしいねえ」
「ダナさん、おはよう。何だか浮かない顔をしてるね」
近所に住む知り合いが、冷気と共に店内に入ってきた。彼はいつも、規則正しくこの時間に同じパンを買いにやってくる。その後に工場で働き、夕方になると再びここを訪れる。
「そんなことないよ。心配しないで」
ダナは、焼き立てのパンを店内に並べながら、いたって元気な様子で答えた。香ばしい匂いが狭い店内に広がる。
「あれだろ、そこのアパートに引っ越してきたっていうサバスのやつらのことで、悩んでるんだね」
「あんたには、隠し事はできないわね」
ダナは苦笑した。男はトレイにいくつかのパンを載せながら、真剣な表情で、
「やつらが何でこんなに嫌われているか、ダナさん知ってるかい?」
ダナは首を振った。
「やつらは、人殺しなんだ」
「そんなぶっそうな話、どこで聞きかじってきたのさ」
「工場には色んな人が集まってくるんだ」
さらに追及しようとしたその時、カランという鐘が鳴り、新しいお客さんが入ってきた。やつには気をつけなよと言い残して男は去って行った。
「あら、おはようございます。セレーナさん」
彼女もお得意さんの一人で、一つ通りを越えたところにある仕立て屋の夫人だった。店はあまり儲かってはいないようだったが、彼女なりに楽しんでいるようだった。以前は明るくて華のある女性だったのだが、つい数日前に娘を亡くしてからは、別人のようになってしまった。
「大丈夫?」
今日の彼女はここ数日で一番ひどかった。赤毛の髪は鳥の巣のようになり、目は朝まで眠らずに泣きとおしたように腫れている。ダナには娘がいなかったが、彼女がどれだけ辛い状況にあるかは、胸にせまるものがあった。
「……あの子のことは残念でしたね。今日、これから新しい売り子が来るんだけどね、その子もきっと悲しむわ。何度か遊んだことがあるから」
セレーナは、ダナの話を聞いているのか聞いていないのか、壊れた機械のように何度かうなずいた。
磨かれた硝子窓の外に何気なく目をやると、通りを例の人物が通過していくところだった。肩から足元までを一続きの白いローブのようなもので覆い隠している。彼が歩くたび、金色の模様が踊った。息は白く、ちらりと見える手先も血の気がなかった。
冷たい風にあおられて、彼の顔が一瞬あらわになった。
あんな話を聞いた後だったので、彼がどこに行くのか気になるところだったが、泣きだしたセレーナをなぐさめているうちに、彼はいなくなっていた。




