(10) 街へ
村人たちに囲まれて、少年は緊張した。
見上げる人々は、みな簡素な服を着ていたが、彼だけは白くて長い衣をまとっていた。あちこちに飾られたカンテラやランプから橙色の光が夜を照らしている。彼の衣には刺繍の模様が丁寧に施されており、魚の鱗のようにきらりと流れた。
集まった人の中には、兄のシラクサや養父の娘のコニも来ていた。嬉しさで二人とも顔が赤くなっている。
探したが、老婆の姿はなかった。
壇下に立つポーカスが何やら祝辞のような言葉を述べたが、緊張したヨルバにはどこか遠いところで話されているように聞こえた。ポーカスは厳しい表情で、ヨルバに何やら促した。
ヨルバの手には小型のナイフが握りしめられていた。首筋に冷たい感触があたる。深く息を吐いて、一気に髪を切りとった。黒い絵本をひらいてから、一年と少しずっと伸ばし続けてきた髪だ。先輩のカジャなどに比べると、だいぶ短いがそれでもまじない師にとって大切な髪を献上する行為には変わりない。それに、普通なら数年かかる見習いをヨルバはわずか一年で終えた。誇ってもいいはずだ。
ナイフで髪を切るのは思ったよりも難しく、何度も刃を入れるうちに襟足は無残なことになった。首筋に夜風が吹いた。それはすでに昔の感覚になっていた。
自分でも何を言ったのか覚えていないが、とにかくこれからは頑張ります、のようなありきたりの文章を何とか述べた。小さいころ、祝福されなかった子、として村人から避けられていたことが夢だったように思える。ヨルバを見上げる顔はみな、尊敬と畏怖が入り混じった表情をしていた。
聖堂の広場で誓いを終えた後、ヨルバはポーカスについて聖堂に入った。ここから先の儀式の続きは、村人たちには秘密にされている。
夜の聖堂には初めて入る。ポーカスの持つカンテラ以外の光はないので、真っ暗だった。ステンドグラスを通して外の光がわずかに漏れているだけだ。
聖堂の一番奥の部屋は常に鍵がかかっている。開けられるのは交渉人の長だけだ。ぎいっという軋んだ音と共に、その扉は開いた。
「緊張していたようだな」
部屋の隅に置かれていた灯りに火をともしながら、ポーカスは珍しく表情を和らげた。この養父は、しわを深く刻んだ面を常につけているのだ。
「さて、ではもう一つ、誓いのために捧げてもらうものがある。ヨルバ、お前の本当の名前だ」
顔さえ覚えていない母からもらった、唯一の贈り物。秘密の名前。ヨルバが口を開いた瞬間、ポーカスが手で遮った。
「いいか、よく考えるんだ。もし、お前が私にそれを伝えれば、もう後戻りはできないよ。私がヨルバの本当の名前を知った瞬間から、お前は正式なサバシスになるんだ」
「僕は、サバシスになることを望んでいます」
ヨルバは養父をじっと見上げた。
「サバシスは村を支える者たちだ。みなからは尊敬されているが、何も楽しいことばかりではない。村のことを一番に考えなければならないのだ。たとえ、それがお前の利益や希望からかけ離れていても、だ。もし、村を裏切るようなことをすれば、容赦なくまじないをかける。お前の本当の名前と、お前の髪をつかった強力なまじないをだ」
ヨルバは気圧されることなく頷いた。
「……わかった、お前の名前を教えなさい」
そして、母から継いだ名前を口にした。兄のシラクサにも、ミシェバトにも決して教えたことのない、母とヨルバだけの秘密を打ち明けた。ヨルバの名前は、群青色の夜を漂う鳥が、月を乞う美しさと孤独をうたった詩の一節だった。
ポーカスはそれを紙に書き記すと、部屋の中央にある小さな引き出しのたくさんついた棚の一つに、さきほど切った髪と共に入れた。上から札を貼って封印する。見ると、札のついた引き出しがいくつも並んでいた。みな、本当の名前と髪を捧げたのだ。
「もう、後悔しても遅いぞ。お前は今日から正式なサバシスだ」
ポーカスの表情はいつも通り老木のように固かったが、初めて認められたような気がした。
その後、ポーカスはヨルバに街への行き方を教えてくれた。
* * *
ご神木は一年前とちっとも変らない。それどころか、ヨルバがこの場所に初めて訪れたときからずっと時がとまったように思われた。
洞の中に入り、教わったとおりに呪印を修正する。これで、数分間は結界が弱まる。その間に、街へと抜けるのだ。
「お待ち」
不意に呼び止められてヨルバは慌てて振りむいた。真っ暗な森の中に、老婆が亡霊のように立っていた。
「ミシェバトさん……、来てくれたんですか」
「あんた、やっぱり街へ行くんだね」
「はい」
「もう、サバシスになっちまったんだから、何を言っても無駄だね。せいぜい、街でも頑張んな」
「ありがとうございます。それと、昔、ひどいことを言ってごめんなさい」
「私が祝福されないから、祝福されたサバシスのことをひがんでいる、ってやつかい?」
老婆は意地悪そうに笑った。ヨルバは黙って頷いた。あれからペコーラの一件が起こったせいで、ついにきちんと謝れなかったことをひそかに気にしていたのだ。
「いいよ。私は、もうこんなばばあだから村の人間が何を言おうともちっとも気にしないで生きていけるけど、あんたはそうじゃないんだ」
ヨルバは、不意に老婆は小さく縮んでしまったような錯覚を覚えた。それでも、何を言っていいのかわからなかったので、ひかえめに「じゃあ、いってきます」とだけ呟いた。
真っ黒い地面に大きな一歩を踏み出す。
ちょうど一年前、カジャとペコーラが通った道だ。その二つの背中とカジャが手にしたカンテラの灯りをよく覚えている。
老婆は、その背中が消えるまで見送った。深い闇を見通すように、じっと見つめた。
「長い間、考えても考えても、ついにわからなかったねえ」
寂しげに呟いた。
やがて、ヨルバの気配は完全になくなり、森にはミシェバト一人になった。
一人になった。
前回(9)また会えますように、でカジャの外見描写(髪を切ったこと)を追記しました。