見捨てられた基地と三千匹の魔猫、あるいは僕の業務日誌
キロプリ基地はすでに見捨てられていた。そこには三千匹の魔猫と僕がいた。僕は魔猫の世話をしていた。あるいは魔猫は僕の世話をしていた。つまり〈僕たち〉と言って良い間柄で、持ちつ持たれつだったわけだ。とはいえ、そんなことを思っているのは僕だけかもしれない。魔猫は言葉を話さなかった。僕は言葉を話した。話したと言っても、近頃は言葉を用いるのは僕だけで、会話と呼べるものは生活の中になかった。ときおり補給物資が来るときも話をすることはほとんどなかった。この業務日誌に書き込むことだけが、僕のもっぱらの言葉を使った活動である。
業務日誌の記入は第三方面部隊書割小隊書記官の僕の仕事だ。
僕には何もない。孤独ですることもなく、ただ見捨てられたキロプリ基地があり、三千匹の魔猫がいた。それだけ。
猫といっても魔猫は猫とは言えない。
どちらかといえば、小さな熊のようでもあったし、大きなダンゴムシのようでもあった。猫と触れ合ったことがない僕に魔猫を正確に猫とは違うと言うことはできない。気の良いやつらではある。まず奴らはおとなしい。何を食べているのかはよくわからない。黒々とした毛を震わせて、隅の方に固まっている。どこかしらでなにかしらを食べているのは違いないにしても、彼らは僕のような生き物とはちがい、なんといっても魔猫なのであるから、魔力とか、そういった、僕などには思いもよらないものによってその生――魔猫にとって生がなんであるのかといったことはそれは当然魔犬や魔熊といったものらについてと同様に専門家による厳密な調査が必要なのはいうまでもないだろう――を保っているのかもしれない。そんなおりに専門家が尋ねてきた。年老いたいかにも学者然とした人物であった。豊かな髭をたくわえ厚手のコートを着ていた。耳のついた暖かそうな帽子を被っていた。キロプリ地方の草原をおそう凍てつく風は有名だ。
僕は久しぶりの来訪者にすっかり興奮してしまった。しかし、あまりにも久しぶりのことであったために、声が詰まってしまいまったく出てこなかった。おかげで僕は彼の話を一方的に聞くだけで、尋ねたいことは山ほどあったというのにまるで聴くことができなかった。
男はトグサと名乗った。トグサは各地を旅しながら魔生物の調査をしているのだという。彼は僕と同様に部隊に所属しているのだといった。僕は自分も同じであることを伝えることはできなかったけど、僕の服装は部隊のものであったからトグサはすぐに気がついたのだ。とはいえ、トグサは部隊の服を着ていなかったのだから、トグサは僕が部隊の人間であることに気づいたために、僕を懐柔しようと嘘を付いたという可能性もないではなかった。だいたい僕は部隊のことなどロクに知りはしなかった。僕のような引きこもりに毛の生えたような、どこに出しても恥ずかしい人間を雇わなければいけないほど部隊は疲弊していたのだし、だからこその現状であるとさえ言えないではない。この点において、僕はゆくゆくは本隊に対して部隊員の雇い入れに当たってはその選考の厳選化を要求したいと考えている。とにかく、トグサは魔猫達について七日ほど調べて回った。
魔猫たちは基地内のいたるところにいた。トグサは持参した札を一匹一匹につけていたが、すぐに足りなくなってしまった。十枚もなかったのではないか。代わりにトグサは数を数えはじめた。そして七日たつころ、その数がおおよそ三千匹であることを僕に教えてくれたのだった。たしかに魔猫はいたるところにいたのだし、それまで僕は「無数」という言葉を使っていた。数えようと思うような数ではなかった。基地の影になるところにはどこにでもいた。寒さからなのかわずかばかりに黒々とした毛を震わせていた。勢いのある動きをすることはほとんどない。日の動きに合わせてじりじりと居場所をかえる。ときおり、小さな鳴き声をあげる。ごくごく小さなその声はやつらのもっとも猫らしい部分であるかもしれない。魔猫はそんなだから、数えようと思えば数えることもできそうだった。ただ、先にもいったけど、とてもじゃないがそんな気にならないくらいにはたくさんいた。トグサがそれを成し遂げたのはやはり彼が学者として優秀であったからだと言えるだろう。ただ、ときどき考える。あの野郎はいい加減なことばかり言っていたのではないか。単なる詐欺師だったのではないかと。だいたい旅をしながら調査しているというのは何とも怪しい。彼は僕を見かけると最初、声を詰まらせたのだ。
彼は四〇年に渡り魔生物の調査をしているのだという。自分の部隊にはもはやトグサしかいないといっていた。四〇年も各地をめぐりただただ魔生物の調査をつづける。調査結果はオオアリクイクイドリに結びつけて本隊へと送るのだという。もうすっかり本隊がどこにいるのかは知らないという。ときどき人里に住まう魔生物を調査することはあれども部隊員に会うことはめったにないのだとか。そんなことが信じられるだろうか。僕はもう長い間基地を出ていない――なにせここには僕しかいないのだし――から部隊がどうなっているのかはわかりようがない。わかりようがないといって適当なことを言っていないとどうしていえようか。僕はそれ以来、来訪者には必ず部隊名を報告させることを基地の規則に書き加えることにした。原則として書記官にそのような権限はないのはもちろんだが、僕一人しかいないのだし、規則をどれほど入念に調べてみても、部隊員が一人になってしまった場合については何も書かれていない。ダメとも書かれていないのだから良いだろう。何が正解であったかは誰かしら上官がやってくればわかることなのだ。僕はといえば、いっぱしに書記官などと名乗ってはいるものの、実のところ読み書きだってどの程度できているのか定かではない。かつては、毎晩上官に記録を提出していたわけだけど、ほとんど全てを書きなさなければならず、遅い時間まで作業に追われ、日が経つ毎に一日一日と僕の記録は実際の日付とはずれていったのだ。だんだんずれが大きくなるにつれて、僕は記録の日付に生きているのか、あるいは実際の日付に生きているのか、さっぱりわからなくなってしまったころ、ふと気がつくと誰もいなくなっていたというわけだ。だからして、いったいどうして僕がこのような状況になってしまったのかも、正直なところよくわからない。そういえば、その頃、魔猫はどうしていたのだったか。まったく定かではない。気づいたら、いて、気づいたら、ものすごくたくさんいた。
気の良いやつらではあるから、僕がやつらについて何も知っていなかったところで、彼らは何も言わない。だいたいほとんど動かないのだ。それでもときおり僕があやまってしっぽや前足を踏んでしまったときなどは、大きな声をあげ、そいつはどこかへ駆けていったしまう。「ごめんよ」などとしわがれた声を出すわけだけど、どれがそいつなのかは見分けがつかないから、うまく謝ることもできない。何の気なしに触ってみるぶんにはやつらはなにもしない。ビロードのような手触りだ。肉が厚いような感じがする。特に寒い日など、試しにやつらに囲われて寝てみると、暖かくてとても気持ちが良い。キロプリの草原の香りがする。やつらは僕がそんなことをしてもぜんぜん反応もしない。目だけが黄色く光っている。なにしろ、やつら薄暗がりにばかりいるからとにかく見づらい。毛も黒い。いや、本当は黒くなどなく、もう少し濃紺なのではないかと思ったこともあるが、はっきりしない。キロプリ基地はあまり天気の変化が少ない。雨もあまり降らない。いつも晴天で星がきれいだ。それでもほんのたまに嵐が来ることがある。そんなとき、奴らは珍しく活発になる。嵐が近づくと遠めにもわかるくらい毛が逆立ち揺れている。いつもはそれぞれ気ままに好きなところにいるのに一ヶ所に集まる。集まっては同じように毛を逆立てる。毛も揺れる。まるで一匹の巨大な魔猫ようになる。そして、それはそれは大きな声で鳴くのだ。はじめてきいたとき、僕は世界が終わるのではないかと思ったほどだ。魔猫が世界を終わらせるのか、それとも世界を終わらせる嵐の到来を魔猫が告げているのかはわからない。でもそんな気がして、まあ、それはそれでいいのではないか、とどこか頭の片隅では思いながらも居室の窓から魔猫を眺めることは続けつつ、近くの家具にしがみついて、足は震えてさえいた。今まであった様々な人たちも不安でいるだろうか、などと考えた。とはいえ、友だちなんてほとんどいないし、両親もとうに死んでいる。妹がいるが、結婚して遠い街に行ってしまった。別れた恋人はどうしただろうか、と思った。
僕がこの基地にたどり着いたのは別れた恋人が原因だ。もちろん、それは事実ではない。元恋人が僕に何かをしたわけじゃない。きっかけ、と言った方が正確だろう。元恋人という存在がきっかけとなり――そう、彼女が恋人であったならきっかけにはならなかっただろう元恋人になったことによりきっかけとなったのだ――僕は入隊する運びとなったのだ。まあ、などと言ってみても別にたいした話じゃない。ただたんに、僕は振られ、ショックで仕事がまったく手に付かなくなってしまったばかりかクビになり、アパートに引きこもっているうちに貯金も底をつきかけたとき、一念発起して、というか病的な衝動により、家の中のものをすべて捨ててしまい、困った挙げ句すがるように入隊を志願したのだった。その頃は、すでに、僕だけでなく、世の中自体もロクでもない方向に進んでいたためか、猫の手もかりたいという状態だった部隊は僕を歓迎してくれたのだった。それでも状況は悪くなる一方で、人はすべていなくなってしまい今となってはすべて猫の手――もとい魔猫の手――になってしまったわけだ。
嵐が来ると、魔猫たちは、その巨大な躯体、それこそ奴らはもともと三千匹の魔猫ではなく巨大な一匹の魔猫だったのではないかと思わせる身体をばらばらにさせた。一瞬で、飛び散るように別れる姿は奇妙な美しさを感じさせた。それまでまったくどこにあるのかわからなかった奴らの無数の目が、ぱっと無数の――いや六千の――ぎらりと光り、飛び散るのに合わせてばらばらになる。花火だ、と思った。ちょうど迫り来る嵐の雷鳴が響いた。
嵐の晩には元恋人のことを思い出した。魔猫の咆哮がそのように僕を条件づけたのだろう。いったい今ごろは何をしているのだろうか。僕のことなど、もうすっかり忘れているのかもしれない。いやきっとそうだろう。そんなふうに考えると、胸がキュッとする。毎日決まり切ったことをくり返す生活の中ではそれもまた苦いなりにちょっとした刺激として快いものなのかもしれない。僕は彼女のことを考えている。考えている生活がある。次第次第に、いやひょっとしたら最初の最初からそうだったのかもしれないけれど、日々の基地内の見回り業務のとき、食料品が補完された倉庫内を整理するとき、魔猫を眺めたり触れたりするとき、簡易食料を暖めているとき、窓の外をぼんやりと眺めながら食事をとるとき、基地内に設けられたささやかな菜園で水をまいたり雑草を抜いたりするとき、夜居室のベッドに横たわり眠くない眼をとじるとき、今ごろ彼女はどうしているのだろうかと考える。あの頃と変わらぬ日々を過ごしているのだろうか。彼女は忙しく仕事をしていた。僕は当時詐欺まがいの営業所で事務仕事をしていたけれど、彼女は行政に携わり子供たちが遊ぶ広場の設計をしていた。付き合っていたころ、区域内の広場の調査を行う彼女に同行したことがあった。夏の暑い日で、そうキロプリ地方とはまったくちがって湿度が高く気温の高い地域だった、僕たちはそれぞれに日傘をさして、顔が真っ白になるまで日焼け止めを塗って、区域内にいくつもある広場をめぐったのだった。途中でアイスを買って、広場のうちのひとつのベンチに腰掛けアイスを食べたのだ。寒さの厳しいキロプリ地方ではもちろんアイスなんて手に入らないのに、あの日のことを考えると食べたくて仕方がなくなってしまう。彼女はいつも種類に悩んでは二個買って、けっきょく一つしか食べずに僕が二つ食べていた。眠らないまま、ぼんやりと昔のことばかり考えていると、ますます眠れなくなってしまい、居室から外に出ると、居室以外の明かりがすべて消えている基地内には静謐な暗闇があり、星が奇麗だった。魔猫たちは夜間には日中よりも、ゆるやかに、隅ばかりでなく、いたるところに伸び伸びとしている。夜にはすべてが暗がりだからなのだろう。僕はすっかりいたたまれない気持ちになっていて、何匹か固まっている魔猫に近寄ると、腕を広げて奴らを抱きかかえるように膝を地面につけた。奴らは僕のことなんて眼中にないのか、わずかに身を震わせるだけで、特に抵抗はしなかった。
魔猫たちは僕が何をしたって抵抗しないみたいだ。これでは僕ばかりが魔猫に助けられているみたいだけれど、僕だって魔猫にしてやることがなくはない。僕はときおり、暇なときに奴らにギターを弾いてやった。別に僕はギターが弾けるわけじゃない。ただ、一曲だけ、遠い国で奴隷として身を売られた祖先と来るべき解放についての、僕にはまるで縁のないその曲の、イントロのところだけをどうしてかつま弾くことができた。その曲を弾いてやると、やつらは普段とは異なってリズムで身を震わせるようだった。いや、きっとそうなのだろう。楽しんでいるのだろう。もちろん本当のところはわからない。それでも突然、襲いかかってきたり妙な声をあげたり、そんなことはなかったから、少なくとも嫌な気持ちにはなっていなかったのだと思う。
トグサからは時々電話がかかってきた。
基地内にはひとつだけ電話があった。鳴ることはなかった。トグサが電話をかけてくるまでは。最初、僕はあまりにびっくりして叫んでしまった。そのせいで魔猫が小さく鳴いた。僕の近くにいた魔猫が小さく鳴いて、その隣が鳴いて、その隣の隣も、隣の隣の隣の、きっと三千匹がほんのわずかりずれながら、電話の音よりも長く、一度ずつ、小さくないた。はい、もしもし。と言ったつもりがやっぱりどうしてか上手く言葉はでず、ガサガサの壊れたアヒルのおもちゃみたいな声というより音しかでなかった。だからトグサと会話することはできなかった。それでもどうにかその奇妙な音で相づちを打つことだけはできて、トグサにとってはそれで十分なのか、彼は色々なことを話した。新しく調査した魔生物のこと、北の国境地帯のうち捨てられた基地のこと、食事のこと、干上がった川のこと、最近信じられている神のこと。僕にも聞きたいことが山のようにあった。それなのに、上手く話すことができないせいで、何も知ることができない。苛立たしい気持ちになりもしたけれど、だんだんとトグサの電話を楽しみに感じるようになった。ただただ、嬉しそうにさまざまなことを語るトグサの声を聞くことが待ち遠しくさえ感じるようになった。
電話のベルを聞き逃さないようになるべく電話のある事務室で過ごすようになった。トグサが電話をしてくる時間はまちまちだった。朝のこともあれば夜のこともあった。基地の見回りもさっさとすませ、寝るときも事務室にベッドのマットレスだけを持ち込んで寝ることにした。事務室には平原を見晴らせる窓があり、夜マットレスに寝ころびながら星空を眺め、次はいつ電話が来るのだろうか、と考えながら眠りについた。
それにしても、ただ聞くだけでなく、実際に話ができたらどれほど良いだろうか。人と言葉を交わす。なに、たいしたことでなくていい。ちょっと気軽な挨拶でさえいい。きっとたのしいだろう。星の瞬きも、魔猫たちのかすかな震えも、そのような挨拶みたいなんじゃないかとさえ思えた。
だから僕は練習することにした。トグサから電話が来たとき、ちゃんと話せるよう、日頃から訓練しておくことが大事なのだと気づいたのだ。魔猫たちを練習相手に、僕は毎日会話の練習をし始めた。
「こんにちは」
「キロプリ基地は今日も強い風が吹いています」
はじめのうちはやはりなんだか声がガサガサとして、うまく話せている感じがしなかった。頭で思い描いている言葉がまったくちゃんと発せられていないように感じた。魔猫たちはぴくりともしないし。始めのうち、やつらは僕がしゃがみこんで言葉を発すると、少しだけ耳をゆさぶったりしたものの、数日もしないうちにいつものようにただただその黒々とした毛を震わせるばかりであった。でも、これも何かの挨拶なのかもしれない、と思うようにした。何かはわからないけど、ちょっと離れたところで見かけた、顔だけ知っている人が遠慮がちにあげた手のような。
「他の街の様子はどんな感じですか」
「最近映画を見ましたか」
「好きな音楽はなんですか」
「僕はギターを習ってみたいと思っています」
ゆっくりとだが上達しているような気もした。魔猫はわかりやすい反応を示さないから、成果はわからない。それでも凍えていた舌がだんだんと滑らかになり、声を発するといがいがした喉の異変も起こらなくなりはじめた。
「ひとりで旅をするのはたいへんじゃないですか」
「足が痛くなったりしませんか」
「キロプリ基地に一人でいるのは退屈です」
「誰かが僕のことを想っていてくれるといいのですが」
トグサとの電話を思い浮かべているうちに、だんだんと元恋人との電話を思い出すようになった。思えば、僕と元恋人は実際に会って過ごす時間よりも電話を越しに話をしていたことのほうがはるかに多かった。彼女はよく遅い時間まで仕事をしていた。仕事の帰り道に彼女は電話をかけてきたものだ。たいてい、疲れた、から始まった。僕は、お疲れさま、と返事をした。いつもそう。疲れた。お疲れさま。
「帰り道にアイスを買って帰ろうかな」
「いいじゃん。俺はレモンのやつが好き」
「ああ、レモンね。輪切りのレモンが入ってるやついいよね。あー、それ食べたくなってきた」
「なんか俺も食べたくなってきたな」
「いいじゃん、買いにいきなよ」
「でも、夕飯食べちゃったしな」
「えー、デザートじゃん。てか、夕飯、何食べたの」
「んー、野菜炒め」
「いいね野菜炒め。美味しかった?」
「うん、おいしかった」
「そういえば、こないだすごいおいしい野菜炒めのお店見つけたら今度いこよう」
「おお! いいね。行きたい」
そういえば、野菜炒めのお店は結局行かないままだった。
考えると無性に食べたくなってしまう。キロプリ基地では定期的に運ばれてくるレトルトの食事しか食べられないので、あまり食べ物のことは考えないようにしているけれど、どうしたって思い出してしまうものがある。僕はどちらかといえば、食に関心がないほうだったからあまり気にならなかったけれど、まだ僕以外の部隊員がいたことろ、多くの人たちが述べる部隊生活の愚痴はたいてい食についてだった。魔猫たちは僕に似てあまり食に関心がないようだった。もちろん何を食べているのかはわからない。ときおり気分転換に屋外で食事をするとき、そうするとたいていは魔猫の近くで食べることになるわけだけど、やつらは微動だにしなかった。彼女は食べることが大好きだった。それほど食に興味になかった僕が食べることに楽しみを覚えるようになったのは彼女のおかげだ。連れ立って遊びにいくときは、たいてい何かを食べにいくのだった。わざわざ遠くのほうまで電車に乗ってでかけたりもした。お互い車は持っていなかったからたいていは電車だったけど、たまには車を借りたりもした。店先で売られた持ち帰りの軽食から地方ごとの郷土料理、異国の人が経営する食堂にも行った。それでも基地に来てみると元の通り、あまり食に関心のない僕になった。食べるのが好きな僕は、彼女と知りあってから変化した僕で、そのことをとても好ましく思っていたというのに、彼女を失ってしまったように食べるのが好きな僕も失われてしまったのかもしれない。そう考えてみると、不思議な気持ちになる。もともと僕は人と関わることが苦手で、会話もロクにできなかった。なに、基地に長い間ひとりでいたから話せなくなったわけじゃなくて、元からそうだったのだ。だから友だちもいなかった。そのせいで、妙な詐欺まがいの営業所に流れ着いてしまったのだったと思う。そんななかで、彼女と知りあって幾年も付き合っているうちに、すっかりそのことを忘れてしまっていた。彼女と一緒にいるとき、僕はなんだか一人前のようだったし、誰とも分け隔てなく接することもできた。だから楽しく過ごせた。それは単に彼女と過ごす時間が素晴らしかったというだけでなくて、彼女から与えられた僕のことを僕自身が好きでいたのだと思う。そう、その当時の僕は彼女から与えられた僕、なんというか彼女から見た僕だったのだろう。だから彼女という視点を失ってしまったいま、僕は茫洋たる一人称に引き込まざるを得なくなってしまったというわけだ。
「今日は天気がいいね」
「天気がいい日は食事を外出とると、味気ない弁当も多少は美味しくかんじるよ」
魔猫を練習台にした会話は続けている。
魔猫たちはあいかわらずだ。それでも、話し続けるうち、近くで過ごす時間が長くなるにつれ、どことなくそれぞれに固有の特徴があるようにあるように思えてきた。それは文字を見続けるうちにその形が見知らぬものに思えてくることと同じなのかもしれない。それでも毛の色味。耳の形。目の光り具合。小さな鳴き声の音色。それぞれに微かな特徴があるように思えてきた。物見塔の真下に、前日と全く同じように居座るそいつが前日は違うやつだとわかるようになった。もちろん、本当に違うやつなのかはわからない。聞いたって教えてなんてくれないわけだし。
ところで、トグサはといえば、僕が会話の練習を始めてからすっかり電話をよこさなくなってしまった。だんだんと僕も会話が上達しはじめた気がして、早く試してみたくて、うずうずしていたというのに、しだいしだいに期待は遠のき、以前のようにきっちりと見回りをするようになり、マットレスも元の居室へと戻した。いったい何があったのだろうか。なにか不慮の事故がトグサを襲ったのかもしれないと思うと、心配になる。あるいは単に僕と電話をすることに飽きてしまっただけかもしれない。誰か別に、奇妙な相づちを打つやつではなく、きちんと会話ができる話し相手を見つけたのかもしれない。そう思うと、身を案ずることが、なんだか口惜しいことのように思えた。しかし、毎日のふとした時間に、足を痛め誰もいない路傍で蹲るトグサの姿が浮かんだりして、ひどくやきもきした。僕はこんなにも彼のことを思っているのに、彼は僕のことを微塵も考えていないのはひどいことのように思えた。そうなのだ。僕は屋外で魔猫に埋もれながら星空を眺めていた。寒い夜でも信じられないくらい魔猫は暖かい。この星の瞬きが挨拶なのだとして、必死に挨拶を返したいと願い、瞬きに目を凝らし続ける僕のことを、星々がみとめることがないことは、なんて寂しいことだろう。奇妙なことだけど、魔猫たちからは気にかけられてなどいないことが、まったく気にならなかった。僕も気になどかけていないからかもしれない。こんな暖かくしてもらっておいてどうして僕は魔猫を気にかけないのだろう。なんにしろ、僕たちは持ちつ持たれつなんかじゃないし、決して〈僕たち〉なんかじゃないのだろう。少なくとも今は。
何日かして、物資が届いた。いつものように男がバンを運転してやってくる。男はたいてい僕の知らない間にやってきて、荷物を置いて去って行く。たいてい男が去った後、いったいどのくらい経ったのかわからないのだけど、ポツンと基地の外に置かれた物資に気がつく。僕もこれまでは物資がいつ届こうがたいした問題ではなかったから気にかけていなかった。キロプリ基地の近くに物資を盗むようなやつなんていないからだ。しかし考えが変わった。物資が届くにはおおよその期間を計算し、物資が届きそうな日に基地の前で立哨することにした。すると予想通り遠くからバンがやってくる。車の運転席から降りた男は一瞬驚いたような目をした。それでも僕などいないかのようにバンの荷台から荷物を降ろしはじめた。僕はしばらくその様子を眺めていた。やがて、荷物がすべて降ろし終わろうかというとき、おもむろに僕は男に近づいた。
「こんにちは。寒いですね」と僕は言った。
男はやはり少し驚いた顔をした後、間を空けて、ガサガサとなにやら聴き取れない音を発した。




