『ようこそ、Cafe RABBIT HOLEへ』〜遅れたお茶会〜
「はぁ⋯⋯」
思わず大きなため息が出た。目の前の現実から目をそらす様に視線を上げると、窓の外は先程までよりも、一層夜の濃さが増している気がする。
「悪いけれど、これ今日中に頼めるかな」
単調な入力作業に若干の眠気を感じ始めていた午後3時。その時点で紗奈の今日の計画は、あっさりと崩れ去った。
「楽しみにしていたのに⋯⋯」
ひと息入れようと少し伸びをした時、デスク横に置かれたスマートフォンが視界に入った。
昨夜、お気に入りのスイーツショップのアカウントをチェックしていた時に見つけた新作スイーツの告知。
定時で退社して、急げば閉店時間には間に合う。運が良ければ、まだ残っているかもしれない。
「なんでこんな日に限って⋯⋯」
元々、そこまで先の事を考えていた訳では無い。ただ周りに合わせながら、進学して地元で就職。そのうち良い人が見つかったら結婚。子供は2人くらいで騒がしくても幸せな日々を過ごした後は、編み物でもしながら、日なたぼっこをしてのんびり暮らす⋯⋯。
「そんな枯れた事、今から言っていてどうするの」
友達にはそう言って笑われた事もあったけれど、自分にはそれくらいがちょうど良い。
派手な夢を見るよりは、手頃な幸せを少しずつ集めていけたら⋯⋯。
可も無く不可も無く、この春大学を卒業した紗奈は、少し離れた街で、事務職に就いた。
地元ではそこそこ名もしれた企業に就職した事で両親は喜んでくれたが、その実態は、少数精鋭といえば聞こえは良いが、内情は急な案件が飛び込んでくれば、てんやわんやで多少の無理もある。
そんな毎日の中で、スイーツは紗奈にとって、疲れを癒やしてくれる、ささやかな自分へのご褒美だった。
「うちってブラックなのかな」
「どこでも大抵そんなものよ」
週末、仲のよかった友達にこぼすと、程度はあれど同じ様な愚痴。
「これが現実って事ね」
年1回は長期休暇をとって、海外にも行きたい等と話していた彼女だけれど、結局GWは近場に出かけたくらいで、後は好きな映画などをサブスクで観ながら過ごしていたらしい。
「現実か⋯⋯」
あらためて目の前のモニターに映り込んだ自分の顔を見つめる。
どうせ人前にはあまり出ないしと、ほぼ必要最低限に抑えているメイクが、かえってその疲れた顔を正直に映し出している気がして、更に気持ちを沈み込ませる。
「もしかして、これが5月病なのかな⋯⋯」
思わずそんな自分の顔に語りかけてみても返事が返ってくる訳は無く、かすかなノイズとカーソルだけが次の指示を待って、無機質に点滅を繰り返しているだけだった。
「はあ⋯⋯」
ほとんど人気の無くなった事務所を後にした頃には、すっかり日は暮れていた。
昼間は初夏というより、既に夏が来たと思うほどの暑さも、この時間帯には少し肌寒く、疲労感と物悲しさを感じさせる。
「おなかすいたな⋯⋯」
スイーツを買って帰るつもりでランチも控え目にしていた分、余計に空腹感と情けなさに苛まれながら歩いていた時だった。
「ぷぷっ」
「?」
どこか気の抜けた鳴き声が聞こえた気がする。
思わず立ち止まって周りを見渡した時、少し先の交差点を渡っていく少女の後ろ姿が目に入った。
淡い水色のエプロンドレスらしい後ろ姿、月の光でひときわ目立つブロンドのロングストレートヘア。
手に持っているのは、お目当てだったスイーツショップの紙袋。
「いいな⋯⋯」
その姿は雑踏に紛れてすぐに消えていった。
「コンビニでも寄ろうか⋯⋯」
せめてもの埋め合わせに何かデザートを買って帰ろう。そう思いながら、近くの店舗を探そうとした時、1軒の小さな店が目に止まった。
『Cafe RABBIT HOLE』
流行りのチェーン店とは対照的に、どこか懐かしさを感じる古ぼけた佇まい。
カフェというよりは、喫茶店と言った方がしっくりくるその店の窓からは、おかえりなさいと語りかけてくる様な柔らかな明かりがもれている。
「カフェならスイーツあるかな」
思いきってノブに手をかけると、まるで紗奈を待っていたかの様に優しくドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
ドアベルのカランという音と、若い女性の声。
コーヒーメーカーと幾つかのコーヒー豆の缶が置かれたカウンターの向こうで微笑むその姿は、思っていたよりも若く見える。
今どき珍しいクラシックなハウスメイドスタイルと、濡れた様に艷やかな黒髪のミディアムボブ。
見た感じは大学生位にも見えるけれど、この時間にカウンターに1人で立っているという事は、オーナーなのだろうか。
「カウンターにします? それともテーブルで?」
女性の素性について考えている姿を、どこに座って良いのか迷っていると思われたのか、再び声をかけられた。
「あっ」
「ちょうど誰も居なかったし、良かったらカウンターでお喋りしませんか?」
そう言われて、初対面でいきなりとは思ったものの、何故か誘われる様に紗奈はカウンターに腰掛けた。
「お仕事帰りですか?」
「少し残業が長引いちゃって⋯⋯」
「それはお疲れ様でしたね」
何気ないそのひと言で思わず救われた気持ちになる。
「ありがとうございます。今日は少し色々あって」
「だったら少し気持ちの休まる飲み物がいいかな」
そう言われて、まだ注文をしていない事に気付いた紗奈はメニュー表を探した。
「あの、何か温かい飲み物と少しつまめる感じのおすすめってありますか」
出会ったばかりなのに、何故か不思議な安心感のままにそう尋ねてみる。
「そうね⋯⋯私はセイロン系が好きなんだけど、コーヒーの方がお好き?」
「いえ、紅茶で大丈夫です」
「それじゃあ用意するので、少々お待ちください」
そう言ってポットの準備を始める姿を横目に、あらためて店内を見渡してみた。
カウンターの奥にはアンティーク調のカップやティーセットが並べられた飾り棚。
後は数台のテーブル席と、その奥にゆったりとくつろげそうな大きめのソファと本棚。
家具にはそこまで興味はないけれど、少し重みを感じさせる調度類が、なんとなく落ち着きと暖かみを与えてくれる。
「お待たせしました。家具に興味あるの?」
「余り詳しくはないけど、なんだか落ち着きますね」
あらためてカウンターに視線を戻すと、カップと共に小さなティーポットが用意されていた。
「熱いから気をつけてね」
言われるがままにカップに注ぐと、少し酸味のある香りと共に、花の香りが立ちのぼる。
「ローズアプリコットティーよ。リラックスやリフレッシュ効果があるの。後は少しだけ美容効果もね」
少しいたずらっぽく笑いながら勧められたティーカップに口をつけると、軽い口当たりの後、甘酸っぱさとふんわりとしたローズの風味が拡がり、喉を滑り落ちていった。
「落ち着きます⋯⋯」
「よかった。そうだ、後は夕食前なら⋯⋯」
そう言って彼女はカウンターの裏手にあったドアの向こうに姿を消した。
「ちょっと!あんた達!」
「ぷーい!!」「あ~っ!!」
さっきまでの優しそうな声と打って変わった大声、更には謎の鳴き声と違う女性の声。
「絵夢、そんなに怒ると、お客様びっくりしちゃうよ」
「誤魔化そうたって駄目よ!」
「ゆりあ、おもてなしの準備していただけだし」
「じゃあ、なんでここにあったフィナンシェ無くなってるのよ!」
「それはこの子が」
「ぷぷー」
「あなたの口元にも付いてるわよ!」
一体奥で何が起こっているのだろう。後、妙に気の抜けた鳴き声は、ここに入る前に聞いた声に似ている様な気がする。
「あの⋯⋯」
思わず奥に向かって声をかけると、はっと息を飲む様子の後、気まずげに扉が開き、さっきの女性ともう1人、女性が姿を現した。
「あなたは⋯⋯」
ロングストレートの金髪にフリルのついた水色のエプロンドレス。さっき交差点を渡っていった少女だ。
「ごめんなさい。ちょっと騒がしかったかしら」
「絵夢、ダメだよ。お客様に迷惑かけちゃ」
黒髪の絵夢と呼ばれた女性の顔が引きつる。
「あのね、ゆりあ」
さっきまでのやり取りが再び繰り返される気がして紗奈は思わず声をかけた。
「可愛いお嬢さんですね。親戚なんですか?」
「お嬢さんじゃないよ。ゆりあだよ」
そう言って、ゆりあと名乗った少女は、自分もカウンターの椅子に腰かけた。
「絵夢、ゆりあも食べる」
「えっと、そうだ!」
少し考え込んだ後、絵夢さんは手早くバゲットを薄くスライスして軽く炙り始めた。
「あれっ、ゆりあの分は?」
軽く鼻歌を歌いながら、手もとを動かしていく絵夢さん。
「ねえ、聞いてる?」
しばらくするとバターを入れたのか、香ばしい香りが立ちのぼり始めた。
「ゆりあ、フレンチトーストも好きだよ」
「後は仕上げに⋯⋯」
軽やかな包丁の音の後、もう1度フライパンを動かし始めると、爽やかな柑橘系の香りが拡がる。
「お待たせしました」
やがて紗奈の前にコトリと置かれた皿の上には、薄く狐色に焼き上げられたラスクが2枚。
「レモンシュガーラスクよ。夕食前だから軽めにね」
手に取ると、焼きたての温もりと、爽やかなレモンの香りが食欲を刺激する。
「おいしい⋯⋯」
「そう、よかった」
「ねぇ、ゆりあの分⋯⋯」
「冷めちゃったからおかわりはいかが?」
再び注がれたローズアプリコットティーに口をつけると、レモンピールの風味と合わさったアプリコットの甘酸っぱさが、今日1日の疲れを全て、洗い流してくれる様だった。
「ねぇ、ゆりあの話聞いてる?」
「聞いているだけよ」
目の前で繰り広げられる、まるでコントの様なやり取りに、思わず吹き出しそうになる。
「お2人とも仲が良いですね」
「くされ縁なので」「絵夢が冷たいだけだよ」
息があっているのか、いないのか、余りにも真顔で同時に返ってきたその答えに、紗奈はとうとう笑いをこらえきれなくなってしまった。
「うん、笑ってる方が可愛いよ」
「えっ!?」
何気ないゆりあのひと言。そういえば、最後に笑っていたのは何時だっただろう。
就活を終えて、記念旅行に行った時? 新生活が始まったばかりの最初の休日? そういえば、初任給の時は少し期待外れだったけれどお祝いしたっけ⋯⋯。
「どうしたの?絵夢の料理でおなか痛くなっちゃった?」
「ちょっと、ゆりあ?」
「お2人ともありがとうございます」
「そんな、お礼を言われる程の事は⋯⋯」
「あんたは本当に何もしていないでしょうが!」
何処までも噛み合っているのか、いないのかわからない2人のやり取り。
けれども、そのやりとりが今の紗奈には心地良い。
まるで、ずっと前からの親友とお茶会を楽しんでいる様に思えた。
「ぷぷぷーい」
「えっ?」
どれくらい時間が経っていたのだろう、不意に謎の鳴き声が聞こえた様な気がして、紗奈は辺りを見回した。
「ここのお店、ペットも居るんですか?」
「居ないわよ。もしかして、あちらの時計かしら」
絵夢の指さした方を見ると、奥の本棚の横に大きな柱時計が置かれているのに気がついた。
「時報は壊れていて、鳴らないはずなんだけどね」
「そうなんですか⋯⋯」
話を聞きながら再び時計の方を見た時、その影で小さな白い物が飛び跳ねた様な気がした。
「えっ」
「あら、そういえばもうこんな時間」
その声であらためて時間を確認すると、いつもの帰宅時間はとっくに過ぎている。
「いけない、帰らなくちゃ」
「ごめんなさいね。引き止めちゃったかしら」
「いえ、こちらこそ。おかげ様でなんだかすっきりしました」
「ならよかった。疲れた時はいつでもいらっしゃい」
「ゆりあがいつでも癒やしてあげるね」
「あんたはいやしいだけでしょっ」
再びコントが始まりそうな中、チェックを済ませ立ち上がる。
いつの間にか、今日の午後の憂鬱は完全に消え去っていた。
「ごちそうさまでした。そういえば、お休みとかはいつですか?」
「来たい時は多分開いているから大丈夫よ」
「えっ?」
よくわからないままに席を立とうとすると、いつの間にか姿を消していたゆりあが、小さな紙袋を手にして戻ってきた。
「お土産だよ」
「お土産?」
あらためて確認すると、今日のお目当てだったスイーツショップのロゴが目に入る。
「これって⋯⋯」
「わからなくてもわかっている人は、いるからね」
「どうしてそれを⋯⋯」
「おやすみなさいだよ」
紗奈の疑問をかき消す様に扉を開けて送り出されると、柔らかな初夏の風が紗奈の頬を撫でる様に優しく吹き抜けていった。
後ろからは「ちょっと、私の分の⋯⋯」という絵夢の声が微かに聞こえた気がする。
「また来てみよう」
今度は何か代わりの差し入れを用意した方が良いのかな。そんな事を考えながら歩く紗奈の足取りは、知らず知らずに弾みながら、家への道程を辿っていた。




