第4話 目覚める闇
時は少し遡る。
かつて神に選ばれ――そして神に見放された者の名を、この世界で知る者はもういない。
ここは遠く遠く離れた禁忌の地。滅びの古都。
石の街は灰に還り、塔は崩れ、半壊した城だけが、氷のように凍りついたまま時を止めていた。
そして――。
それが、目を開けた。
瞼がわずかに震える。
その音が、まるで“世界の裂け目”を広げるようだった。
黒い光が滲み、天と地の境をゆっくりと溶かしていく。
ここは……どこだ……?
私は……何を……?
誰を……憎んでいた……?
問いはやがて、記憶へと変わる。
焼け落ちた都。
泣き叫ぶ子。
腕の中で、冷たくなっていく愛しい者。
――灰。灰。灰。
全てが灰になった。
祈っても、泣いても、赦されなかった。
そして、思い出す。
身を引き裂くほどの、憎悪と、憤怒と、悲哀を。
ああ……そうだ。
私は――魔王、リリス・ヴァル=エクリプス。
私を殺したのは、光だ。
聖と呼ばれた者どもだ。
ならば――この世界ごと、焼き尽くしてくれる。
玉座を囲う結界が、ピシリと鳴った。
幾重にも張り巡らされた聖の鎖。
それは神話の時代、聖女と八英雄が命を賭して残した聖なる大封印――
世界で最も強固な“祈りの檻”だった。
だが――千年という時は、あまりにも長すぎた。
ひび割れた水晶のように、結界は軋み、
光は腐り、祈りは穢れていく。
漏れ出した聖のマナは蒼白い煙となり、天へと昇る。
その中心で、リリスが静かに笑った。
荘厳な黒のドレスを纏うその姿は、まるで神がこの世に彫り残した彫刻のようだ。
雪よりも透きとおる肌は光を拒みながらも、淡く輝きを返す。
紅玉のような双眸は深淵の光。
黒曜石の髪は夜そのもの――触れれば砕ける夢のように流れ、
わずかな風にも応えるように揺れながら、漆黒の波紋を描いた。
背中に八枚の黒翼が花開く。
それは翼ではなく、呪詛の具現。
一振りで星を砕くほどのマナを宿す、闇の王の象徴だった。
「……ああ、この憎しみ。まだ温かい。まだ、燃えている」
その声は怒号でも嘆きでもなく、どこか慈しむような調べだった。
「神よ、見ているか。貴様の創った世界を、私は焼く。光を血に変え、祈りを悲鳴に変えてやる」
結界が唸りを上げ、空間が軋む。
そして、黒い光がほとばしった。
それは――“種”だった。
闇の種。
悪の種。
魂を焦がすほどの憎悪が凝縮した、呪いの欠片。
リリスは狂おしく笑った。
「世界に、種を撒こう。私の憎しみを分けてやる。それが愛、これが救い」
フフフ……アハハハハハハハ!!
狂気の笑いが雷鳴を呼び、廃墟を揺らす。
黒翼がはためくたび、大地が軋み、古の塔が崩れ落ちた。
結界の亀裂からこぼれた“種”は風に乗り、
千里の果て――北の空へと舞っていく。
滅びよ、人間ども。
泣け、叫べ。
お前たちの祈りごと、全て焼き尽くしてくれる。
その声は世界に響く、厄災の音。
黒翼の主は玉座に身を沈め、微笑んだまま目を閉じる。
そして闇は静かに蠢き、やがて世界のどこかに芽吹く――
それこそが、すべての始まりだった。




