sideリリ(後編)
「――久しぶりだね、リリ」
その声音が、すべてを決定づけた。
疑いが言葉になるより先に、身体が勝手に後退する。
まるで、触れれば壊れてしまう何かから距離を置くように。
目の前の男を“そうだ”と認めてしまう前に、身体の奥が必死に踏みとどまっていた。
胸の奥がきしむ。
痛みか拒絶か判別できない重さが沈んでいく。
ただ、この一歩の先で何かが戻れなくなる。
身体だけが、それを理解していた。
男と私の間に落ちた沈黙を、別の足音が破った。
連れてきた屈強な賊が、エルドへ近寄る。
「エルド、こいつで間違いねぇよな?」
エルドは私から視線を離さないまま、かすかに頷いた。
「うん、間違いないよ。ありがとうライアン。これで実験が進むよ」
その言葉を受けて、ライアン――あの屈強な男が、無表情のまま顎だけをわずかに引いた。
返事はない。
私をここまで担いできたときと同じ、感情を読ませない冷たさ。
エルドの口調は軽いのに、“実験”という一語だけが耳の奥に重く沈む。
場の空気とあまりにも噛み合わない冷たさが、ぞわりと背中を這った。
エルドはしゃがみ込み、私の腕へ視線を落とす。
縄で擦れた部分が赤く腫れているのに気づいたらしい。
「痛かっただろう?……今治すね」
指先が触れた瞬間、反射で身体が跳ねた。
逃げようとしたが、縛られた腕も、足も、自由になる余地はどこにもない。
エルドの指先から淡い光が漏れ、肌を撫でるように広がっていく。
傷口がゆっくり塞がり、じんわりとした熱が皮膚の奥に染み込んだ。
その指が、ある一点に触れたところでふと止まった。
「……これは」
光の色が変わる。
先ほどまでの温かさがすっと引き、代わりに深部を覗き込むような冷えた感触が広がった。
「闇魔法の痕跡……誰が君にこんなものを?」
声は静かなのに、底にある温度がわずかに落ちていく。
返事などできるはずもなく、息をひそめるしかない。
エルドは目を細め、息を吐く。
「これから邪魔になる。今、解いておこう」
彼の手が私に触れた瞬間、奥に凝り固まっていた“黒い塊”が熱を持って浮き上がる。
ソーマに植え付けられたものだと、身体が覚えている。
それは痛くも苦しくもないのに、解かれていくたびに胸の奥の何かがちぎれていくようだった。
やがて、霧が晴れるみたいにそれが消える。
「よし。これで大丈夫かな」
エルドが立ち上がる。
その言葉の意味を飲み込む前に、ライアンに腕を掴まれた。
「連れて行ってくれ」
抵抗する余裕もなく、私は洞窟の奥へと引きずられていく。
湿った空気が肌に張りつき、わずかに金属の匂いが漂っていた。
奥まった場所に、鉄格子で囲われた檻があった。
その壁際――暗がりの中に、巨大な影が横たわっている。
最初は岩かと思った。
でも、呼吸に合わせて微かに膨らむ。
黒い殻のようなものに覆われ、輪郭が異様に硬い。
「……なに、これ」
前に食事のときに聞いたやけど傷の魔物の話が、遅れて頭の中で繋がった。
目の前にいるのは、それだ。
そう直感した。
洞窟は狭い。天井も低い。
あれが本気で暴れたら、私なんて一瞬で潰れるだろう。
ライアンが檻の鍵へ手を伸ばす。
鉄が擦れる乾いた音。
扉が開いた瞬間、空気が一段冷えた。
「起きろ、獣」
黒装獣の耳がぴくりと動き、ゆっくりと頭が上がる。
瞳は光を嫌うみたいに細まり、次に――私を見た。
息が止まる。
身体が勝手に固まる。
でも、それ以上黒装獣は動かない。
目は開いているのに焦点が合っていない。
こちらを見ているようで、何も見ていない。
意識だけが無理やり引き上げられて、身体はまだ指示待ちのまま止まっているみたいだ。
エルドが、ため息をひとつ交えて言う。
「――立て。そして出ろ」
その一言が落ちた瞬間、黒装獣の身体が軋むように起き上がった。
抵抗の前触れはない。
意思を挟む余地もない。
命令が入った途端、ただ静かに動いた。
重い息が漏れ、巨体が檻の中で方向を変える。
ライアンが扉を開けると、黒装獣は身を縮めるように外へ出た。
エルドは黒装獣へ向け、淡々と告げる。
「外周を見張れ。侵入者を見つけたら知らせろ。――ただし、リリだけは例外だ。見つけたら最優先で確保して連れ戻せ。誰かと合流していたなら引き剥がせ。邪魔をするなら殺していい」
次の瞬間、黒装獣は洞窟の入口へ向かった。
あの巨体が動いているのに、足音が異様に薄い。
――そして、檻が空く。
「……入れ」
ライアンに背中を押され、私はよろけたまま檻の中へ転がり込んだ。
土の硬さが背に刺さり、息が詰まる。
扉が閉まり、鍵が回る。
外へ出た黒装獣の気配は、もう山の闇へ溶けていく。
「僕は作業を続けるから、ライアンが見張っておいて」
見張りは山だけじゃない。
洞窟からの逃げ道そのものが塞がれる。
誰にも見つからずに一人で逃げるのは、多分無理だ。
でも誰かと一緒なら、私は連れ戻される。
そして、一緒にいた相手は殺される。
その確信だけが、胸の奥に沈んだ。
そのとき、後ろからライアンの声が上がる。
「エルド、今日やっちまうって話じゃなかったか?」
「その予定だったけどね……」
エルドは軽く肩をすくめた。
「――闇魔法がかけられていたんだ」
「なに?」
闇魔法。
その単語だけで、胸の奥がざらつく。
――ソーマの影が、まだ残っている。
「このまま儀式を行って、僕の術式が“上書き”されたら困るだろう? だから明日にするよ。器の調整も必要みたいだしね」
言い終えても、エルドの口調は軽いままだった。
その軽さが、逆に怖い。
それ以上は何も言わずに、ライアンは引き下がった。
返事もしない。
ただ一度だけ顎を引いて、命令を受け取った合図を見せる。
そして近くの椅子へどすんと腰を落とす。
腕を組んだまま動かない。
でも、視線だけが、檻の中の私から外さない。
エルドは「よろしく」とだけ言って、そのまま背を向ける。
足音が洞窟の奥へ消えていくにつれて、空気が少しずつ薄くなる。
残ったのは、座り込んだライアンの重さと、逃げ場のない鉄格子だけ。
灯しの揺らぎだけが、檻を照らし続けた。
光が揺れるたび、影が伸びて縮んで、私の呼吸まで落ち着かなくなる。
少なくとも――儀式と呼ばれるものが行われるまでは、殺されない。
膝を抱えたまま、息をひとつ吐く。
指が無意識に手首をなぞった。
……痛くない。
縄で擦れていた皮膚は、きれいに塞がっている。
アイツは本当に私を治してくれたらしい。
そのとき、胸に新たな違和感が沈む。
(……どうして?なんで同じ獣人なのに、魔法を……?)
獣人族が使えないはずの魔法。
私も試したことはあるが、魔法の片鱗すら見えなかった。
でも今見たのは、見せかけでもなく、本物だった治癒。
どれも、常識とは噛み合わないものばかりだった。
その答えが分かるとき――。
自分の立っている場所は、もう戻れない場所になっている気がした。




