sideリリ(前編)
長くなったので二話に分けてます。
息がうまく吸えない。
背中に回された腕は、縄が食い込むくらい固く縛られている。
魔法使いの男が何かを唱えた途端、白い煙が一気に広がった。
視界が奪われ、咳き込みそうになる。
そのほんの一瞬の隙に、身体が持ち上げられる。
気づいた時には、もう肩に担がれていた。
男の肩に押しつけられる腹、上下が曖昧になる逆さまに近い視界。
揺れるたびに臓腑がずれるような不快な痛みが走り、吐き気をこらえるので精一杯だった。
「――リリッ!」
誰かが私の名前を呼んだ。
喉の奥が反射的に跳ねる。
――ソーマ。
窓から今にも飛び出しそうな姿が視界の端に映る。
黒い瞳。
胸の奥に刻み込まれた“恐怖”が、それだけで目を刺す。
あの日。
ソーマに”殺されると信じ込まされた”記憶が、まだ身体に残っている。
理解ではなく、反射で足がすくむ類の恐怖。
それでも――
(――助けに、来てくれた)
そう思ってしまった。
心が、現実の上に勝手に別の物語を重ねる。
屈強な男の肩から見下ろす形で、ソーマがこちらに手を伸ばす。
荒々しいほどに真っすぐな動き。
腕を突き出す勢いには、一片の迷いもない。
ただ「助けたい」という意志だけが、ためらいを押し流して前へ出ている。
ここまでしてくれるのに。
どうして、あの黒い瞳を見るだけで身体が固まるのか。
口を塞ぐ手に力がこもる。
息苦しさが増す。
(やめて、こっちを見ないで……)
男が低く呪文を唱えた。
足元の空気が変わり、地面が沈むような圧が伝わる。
次の瞬間、男の筋肉が膨れ上がったように重みが増し、肩にかかる力が一段と強くなる。
視界がぐらりと揺れた。
そして次の瞬間には、景色が一気に遠ざかっていた。
身体がふわりと浮き、乱暴に抱え直される。
窓枠を越える感覚。
冷たい外気が肌を刺し、頬を撫でていく。
(ソーマ……)
振り返りたい。
でも、怖くて振り返れない。
もし目が合ってしまったら、あの日と同じ恐怖が蘇ってしまうのが分かっているから。
それでも、意識のどこかで期待している。
もう一度、あの手が伸びてくるんじゃないかと。
伸ばしてしまったら、どうなるんだろう。
怖くて、でも、助けてほしくて。
喉の奥が焼けるように痛いのに声は出せない。
口を塞ぐ布の圧と残滓が混ざり合い、思考が濁るのを感じる。
やがて、揺れの質が変わった。
土の感触から根の多い地面へ。
街石の硬さはもう足裏にない。
――森に入ったのだと遅れて気づく。
木々の影が長く伸びる。
夕暮れの光が枝の隙間から削られ、視界は徐々に暗くなっていく。
怖い。
けれど、それがソーマのせいなのか、連れ去られている状況そのものへの恐怖なのか、自分でも分からない。
ただわかるのは、これから先が天国ではないという事だけだった。
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どこかが痛い――その感覚が、最初に戻ってきた。
縄で縛られた腕が擦れ、じんと痺れるような痛みが脈打つ。
肩に担がれたまま揺さぶられるたび、骨の奥まで鈍い衝撃が響いた。
最初はただ耐えるだけで済んでいた痛みが、同じ動きを何度も繰り返すうちにじわじわと蓄積し、今では刺すような鋭さに変わっていた。
そして、不意に支えが消えた。
男の肩から乱暴に落とされ、背中が固い地面に叩きつけられる。
「っ……!」
肺の中の空気が一瞬で押し出される。
背に触れたのは冷たい岩。
鼻をつくのは湿った土と、薄く残る血のにおい。
薄暗いランタンが弱々しい光を投げている。
橙色の揺らぎが岩肌を照らし、その向こうはすぐ闇に沈んでいた。
光の届かない閉じた空間――洞窟だと察するのに、時間はいらなかった。
「――おい! 連れてきたぞ!」
「ちょっと待ってー! 今行くからー!」
遠くから返事の声。
ここには、まだ他にも誰かいる。
胸の奥が冷える。
孤児院の温かい空気を思い出してしまったせいで、余計に寒い。
さっきまでは、すぐ近くにいた。
届きそうな距離に、確かにいた。
でも、結果として今ここにいるのは自分ひとりだ。
縄を擦る。
手首が焼けるように痛む。
その痛みが、逆に意識をはっきりさせた。
薄闇の奥から、足音がひとつ。
ゆっくりと、まっすぐこちらに向かってくる。
一定のリズムで刻まれる足音に、胸の奥がざわついた。
やがて足音の主が光の中へ姿を現す。
伸びる影。黒い外套。獣人特有の耳。
深くフードを被っているせいで、顔はよく見えない。
年齢も分からない。
ただ、その佇まいだけが妙に落ち着いていて、場違いなほど“余裕”をまとっていた。
男は近づくほどに歩調を弱め、目の前で静かに立ち止まった。
リリに落とされた視線は、刺すでもなく、値踏みするでもない。
ただ何かの答えを探すような、妙に落ち着いた目だった。
ゆっくりと、じっとこちらを見つめてくる。
そして互いの目が合う。
「……え」
そこにあったのは金色の瞳。
ランタンの光を受けて揺れるその色が、胸の奥をひどく揺らす。
その瞬間、さっきまで支配していた“黒い恐怖”が、別の形に変質した。
理由も言葉も浮かばないまま、ただ心臓だけが強く跳ねる。
男はそれを観察するように見つめたあと、静かにフードへ手を掛けた。
そして迷いなく外す。
露わになった顔を見た瞬間、呼吸が詰まる。
金色の瞳。
私の面影をわずかに残す輪郭。
それが揃った途端、胸の奥で何かが小さく弾けた。
呼吸が浅くなり、指先がひどく冷える。
意識とは関係なく、脳裏のどこかが一つの名前を輪郭づける。
ライオネルの淡々とした説明が、まるでそこだけ鮮明な記憶のように浮かび上がった。
男は微笑み、私に向けて呼びかける。
「――久しぶりだね、リリ」




