影響
部屋は静かすぎた。
下手な話題が、リリの精神をまた削る気がしたから。
窓を半分だけ閉めて布をかける。
灯りは一点、揺れない。
リリをベッドの端に座らせると、背を壁につけたまま視線だけが床の節を追った。
尻尾は力の抜けた縄みたいに沈んで、たまに先だけがぴくりと跳ねる。
耳は周囲の音を拾って動くのに、顔の表情は遅れてくる。
「ここ、痛い?」
レティシアの声にリリは首を横に一度。
反応はあるが言葉は短い。
「水、飲める?」
ほんの少し頷く。
カップを渡すが、両手で包むのに口はつけない。
温度を確かめるみたいに、湯気だけ吸った。
「それで、何があったの?」
「俺もわからない。ただ、ソ――」
ソーマの行方を聞こうとしていた。
そう言いかけた最初の音で、リリの肩が石のように固まった。
爪がシーツを噛み、目が一瞬で過去へ落ちる。
「――あの馬鹿の行方を聞こうとしただけだ」
レティシアはソーマがいないことに気づいて驚いたが、今はそれどころではない。
目の前の少女は、今にも壊れそうなのだから。
所詮はただの名前。
そのはずなのに、リリをまるで呪いのように不快な闇へと誘う。
リリが手の甲をかく。
よく見ると、薄いひっかき傷。
自分でやったのだろう。
深くはないが多少の出血。
傷に気がついたレティシアが急いで布を巻く。
その間も指先は落ち着きなく、同じ布の端を折っては開く。
形が変わるたび、呼吸が少し整う。
彼女の中で焦燥感が少しは拭えるのかもしれない。
かろうじて均衡を保っている。
けれど、いつ崩れるかはわからない。
俺にできるのは、ただ崩れないよう祈ることだけだった。
あれからわかったが、リリは敬虔なセリア教の信徒らしい。
長い眠りから目を覚ますと、掌を重ねて静かに祈りを捧げる。
レティシアがその場にいるときは、彼女も同じように祈りを始める。
そして一、二分ほどで、その祈りを終える。
いつもなら、そのあとに朝食の準備などをしていたのだろう。
だが今日は、布団を掛け直すと、再び夢の中へ沈んでいった。
今のリリの眠りは、きわめて浅い。
瞼が閉じても、耳は起きている。
廊下の靴音にぴくり、皿の触れ合う音にぴくり。
獣人の耳の良さが、ここでは仇になっていた。
ただ、その日だけは違った。
音に反応しても、すぐには眠りに戻らなかった。
何かを感じ取ったように、身を起こしかけ――
「どうした、リリ――」
「失礼する」
ドアが軋み、冷たい空気が流れ込んだ。
その一瞬、リリの耳がぴくりと動く。
眠りと覚醒の狭間で、彼女は小さく息を呑んだ。
聞きなれない男の声に俺もドアの方を見る。
金の髪、蒼色の瞳。
額から覗く獅子の耳。
すぐにわかった。
この人が、リリに養子を持ち掛けたライオネルだと。
扉の後ろから、遅れてレティシアが顔を出す。
リリが眠って俺が見ている間に、彼女がライオネルを呼びに行ったのだろう。
ライオネルは俺の隣へと移動し、腰を下ろす。
そして俺の存在など気にも留めず、静かに話し始めた。
「リリ。具合はどうだ」
返事はない。
リリは目を開けてはいる。だが焦点は合っていない。
見ているのはライオネルではなく、どこか別の場所。
「痛むところはあるか。治癒師は呼んである。足りないようなら増やす」
それでも反応はなかった。
まばたきすら遅い。
ライオネルの声は驚くほど落ち着いていた。
責めもしないし、急かしもしない。
ただ確認だけを重ねる。
こういう場面に慣れている声だった。
だが、今のリリには届かない。
沈黙が落ちる。
リリの耳だけが、かすかに動く。
それが限界のように見えた。
ライオネルが小さく息を吐く。
諦め、というより判断の間合いに近い溜息だった。
「……リリ。前に話した件だが」
「ああ」と、俺は心の中で思う。
あの話か、と。
「やはり、私と一緒に来るべきだ」
ライオネルは淡々と続ける。
「今のリリは、恐らく呪いにかけられている。ここにいては、いつ何をされるか分からん」
どうやら、ライオネルは今の状況を『リリを狙った賊が呪いをかけた』と考えているようだ。
レティシアも状況を理解できていない以上、当然の話だ。
部屋の空気がほんのわずか動く。
息を呑む音さえない。
ただ、リリのまつ毛が一度だけ震えたのが見えた。
「――行く」
リリが言った。
掠れた声だった。
喉をほとんど使っていない、壊れかけの音。
それでもはっきりしていた。
ライオネルの言葉が途切れる。
部屋の空気がわずかに震えた気がした。
レティシアが「えっ」と息を呑むのが聞こえた。
俺も同じ気持ちだった。
つい昨日まで、あの提案に対してリリは首を横に振っていたのを俺も知っている。
直接見ていたレティシアには、この変わり様は理解が追い付かないだろう。
「ここには、もう、いたくないから」
リリは布団の上で指を握りしめた。
包帯越しに、手の甲の傷がうっすら赤く滲む。
視線は落としたまま。
けれど、その声だけは、確かに決意の形をしていた。
ライオネルはその言葉を遮らず、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと息を吸う。
「……わかった。無理には聞かん。すぐに手続きを進めよう」
ここにソーマがいない事から、ライオネルも何か察したのだろう。
だが、それよりも今はこの結末を優先した。
彼女の心が変わらないうちに。
レティシアが何か言いかけて、やめた。
リリの目が、それを拒むように細く閉じられていたからだ。
その沈黙の中で、ライオネルは一度だけリリを見た。
目の奥の何かを確かめるように。
そして小さく頷くと、立ち上がる。
「なるべく早く準備を整え、迎えを寄越す。……準備していなさい」
ドアが閉まると、冷たい空気だけが残った。
リリはそのまま視線を落としたまま動かない。
泣いているわけでも、怯えているわけでもなかった。
ただ、何かを捨てた人間の目だった。
俺は、何も言えなかった。
“行く”というたった一言に、どれだけの痛みが詰まっているのか。
それは、俺も知っているから。
だから言葉にはしない。
俺は静かに立ち上がり、部屋を出る。
扉を閉めると、外の空気が胸に刺さるほど冷たかった。
フードを深く被り、誰の目にも触れないように外へ歩き出した。




