最悪の解決策
扉を開けた瞬間、リリの手が袖を掴む。
力は強くないが、引っ張られると同時に俺はそのまま廊下へと引き込まれた。
そこには、薄い寝巻にランタンを抱え、裾にしがみついたまま俯いているリリがいた。
袖を掴んだまま、リリは無言で俺を引いて廊下を歩み始める。
俺は抵抗せず、ただ流されるように身を任せた。
向かう方向はリリの部屋とも違う。
一体どこに向かうのか。
いや、そもそも何故連れられているのか。
「……どうした、リリ?」
無言の移動に耐えかねて目的を問う。
するとリリは俺の方へ向き直り、引っ張っていた裾を両手で掴んだ。
裾を掴んだ手は、少しばかし震えているように見える。
そして細い声で答えた。
「一緒に、外でお話しない……?」
「レティシアさんは?」
「食堂で読み聞かせしてると思う」
「ああ、今日か」
レティシアは偶に、子供たちに読み聞かせをする日がある。
基本的には冒険譚や童話などが主で子供たちから人気が高く、楽しみの一つとして幼い年齢の子にほど待ち遠しくされている。
ライオネルが帰ってからはレティシアがリリの傍にいてくれていたが、流石に子供たちの楽しみをなくすことはできなかったらしい。
いつ戻るかわからないレティシアを待つのは、今のリリには厳しかったようだ。
「……わかった。でも、外はもう暗いし、少しだけだぞ」
「――うん!」
レティシアにばかり負担を強いるのも申し訳ない。
そう思い了承すると、リリは少し嬉しそうに俺の裾を引っ張って目的の場所まで足を進めた。
連れられて着いたのは、いつも訓練で使う裏庭だった。
今日は月のお陰かいつもよりは明るく、目が暗闇に慣れるのにもそう時間はかからなかった。
辺りを見回しても当然誰もいないが、珍しく笑い声も聞こえない。
いつもなら誰かの笑い声くらい届くのだが、今日に限ってはしんとしていた。
「……結構静かだな。いつもならここからでも騒がしい声が聞こえるのに」
「……今、読み聞かせてるの、人気な本だから……たぶん、みんな……行ったんじゃ、ないかな……」
リリに言われてふとここに来るまでの道のりを思い出す。
部屋から裏庭までの経路には子供部屋も通るのだが、確かに物音ひとつしなかった。
移動中に鉢合わせなかったことも含めると、ほとんど全員が読み聞かせを聞いているのだろう。
まぁそれは俺としても好都合。
俺は裏庭の段差に腰を下ろす。
リリも俺との間に持ってきたランタンを置いて、隣に腰を下ろした。
ランタンの淡い灯が俺たちををかすかに照らしてくれる。
だいぶ落ち着いたような顔にはなっていたが、いつものリリとは明らかに違う暗い顔。
そんな感情が見て取れた。
「今日は、お互い随分疲れたな」
「そう、だね」
今日の出来事への労いの言葉から話を始める。
「リリがレティシアさんに案内を頼んだ時はどうなるかと思ったけど、随分頑張ってたな」
これは俺の本心だ。
怖いと言っていた貴族相手に、会話をして案内も問題なくできていた。
今は養子という話から恐怖が蒸し返されてしまっているが、俺はその時の彼女の努力は素直に称えたかった。
「……あれは、ソーマがいてくれたからだよ」
ぽつりと地面に向かって小さく言葉を吐く。
「そんなことはない。リリが努力したからだ」
実際、リリは案内中に少しずつとは言え言葉の数は増えていた。
それは逃げずに立ち向かった故の結果であり、その実った努力は誇れるものだ。
俺はただ、それを実らせる為の支えになっただけ。
「そう、かな?」
「そうだ。だからもっと誇ってもいいんだぞ?」
「……ありがとう」
リリは少し戸惑いながらも照れくさそうにする。
その顔には、ランタンに照らされて淡い笑みが見えた。
それには、いつものリリが面影にあって。
ほんの少し前までよく見ていたものが、ずいぶん昔のように懐かしく思える。
レティシアのお陰か、精神的な面でもだいぶ落ち着いたのがわかる。
――話を切り出すなら、今か。
「この調子なら、養子に行っても大丈夫だな」
「――え?」
リリが固まる。
彼女にとって辛い話なのは俺も分かっている。
だが、もう時間もないんだ。
「……何て、言った?」
言葉を受け入れられなかったのか、改めて俺に確認をする。
だが、それでも言葉は変わらない。
「養子に行って離れても大丈夫そうだなって言った」
辛い記憶を乗り越えて、リリは成長した。
確かに、自分が貴族であることや狙われていることは、急な話で驚いただろう。
だが、時間をおいて冷静になった今ならそれらを天秤にかけて話ができるはずだ。
そしてわかるはずだ。
選択肢など、ないに等しいと。
ふと、裾が引っ張られる感触がする。
裾の方に顔を上げると、リリが俺の裾を掴んでうつ向いたまま首を横に振り続けていた。
「……ムリ、ムリだよ……」
途切れ途切れの声で否定される。
顔は俯いていて見えないが、良い顔はしていないだろう。
「そんなことはない。リリなら、今日みたいに周りの力を借りながらも成長して――」
「――その周りに、ソーマはいるの?」
「……」
気まずさから視線を下へと逸らす。
俺のこの話は、養子として迎えられてからの話。
つまり、そのみんなに俺は含まれていない。
「俺なんかいなくても、リリなら大丈夫だ」
「……そんなこと、ない」
リリが細い声で否定する。
この切り口はダメだと悟り、別の切り口から話を始める。
「養子になれば、こんな差別の酷い国からおさらばできる。ライオネル様本人が生活する所なら、リリが国で差別されることはない。むしろ貴族としてもっと明るい将来が――」
「――いらない!そんなのいらないよ……」
リリの声が裏返り、涙にかすれて震える。
「みんなと笑って過ごせてる今が、私は幸せなんだよ……」
嗚咽交じりの声で俺に訴えかける。
「ソーマは、私からこんな小さな幸せを奪うの……?」
その声は必死にすがるようだった。
これ以上、奪わないでくれと。
実体験の伴ったリリの言葉は、言葉以上に重みを感じられる。
少し言葉に躓いたが、俺の考えは変わらない。
「――今、お前は命を狙われてんだぞ!死ぬかもしれないんだぞ!」
リリの熱に当てられたのだろうか。
言葉を選ばずリリにぶつける。
「それでも!離れるのは、嫌ッ!」
少し荒げた言葉にも、意思のある否定が返される。
「私が一人にならないようにするって!約束してくれたじゃん!約束したもん……」
「だから!これからはライオネル様たちが――」
「――私は!ソーマが隣にいてほしいんだよ!」
言葉と共にリリの顔が赤くなり、恥ずかしそうに俺から目を背ける。
同時にわかった。わかってしまった。
――リリがここにとどまりたいと思うのは、俺のせいなのだと。
「俺が隣にいてほしいから、行きたくないのか?」
「……うん」
「そっか……」
リリは今の俺への感情を依存ではない別の感情へと錯覚している。
俺は頭を抱えながら、ため息を吐く。
――そんなことだったのか。
貴族への恐れから俺へと依存していた。
それはわかっていた。
だがいつの間にか、俺という存在が、リリがここに留まる“理由”そのものになっていた。
俺が温情でリリへ与えていた癒しは、鎖としてリリをここに縛り付けていたのだ。
なら、答えは単純だ。
――俺が、その鎖をリリ自身に壊させればいい。
俺という鎖を、触れる事すら叶わないほどの凶器へと変えて。
俺は、リリに向けて晒されたままの左手を掲げる。
刻まれた“刻印”を、まるで見せつけるように。
「リリ、これのこと詳しく知ってるか?」
「……わからない」
この孤児院で、影持ちについて詳細を知っているのはレティシアとカイルくらいだろう。
俺という影持ちが来てから、その話は避けるようにしていると前にレティシアが言っていた。
「これはな、お前ら獣人の耳や尻尾と同じ、嫌われ者の証だ」
「……ソーマ?」
今まで、孤児院で誰かを傷つける発言はしてこなかった。
誰も嫌いじゃなかったし、する必要もなかったから。
だが、今する必要が出てきた。
リリの中で、俺を距離を置く存在として認識させる必要が。
「これのせいで普通の人間として生活できなくてな。こんな獣臭いとこで過ごす羽目になった」
リリは言葉の理解が追い付かないのか、瞳に絶望の影を浮かべたまま動けずにいる。
俺は立ち上がり、リリに背を向けて一歩距離を取る。
そして静かに振り返り、言葉をぶつけた。
「――お前みたいな獣人といると、汚くて嫌だったんだ」
「……え?」
俺は小さく笑みを浮かべる。
対照的にリリの顔からは笑みが消え、肩が小さく震えていた。
そうだ、思い出せ。
リリの恐怖は貴族だけじゃない。
獣人であれば誰もが味わった“人間”からの迫害。
俺への心を壊すなら、こっちでも十分だ。
「耳だの尻尾だの、気持ち悪いと思ったことは一度もないとでも思ったか? あんなの、人間の真似事すらできてない証拠だろ」
リリの瞳から色が抜け落ちていく。
俺の言葉が突き刺さるたびに、彼女の中の何かが音を立てて崩れていくのがわかる。
「……っ、やめ……」
「俺はただ、同情してやってただけだ。お前が哀れだから、一緒にいただけだ」
その瞬間、リリは顔を歪めて少し後ずさる。
俺は吐き捨てるように言葉を続けた。
リリの中の俺を壊す、トドメの一撃。
「――勘違いするなよ獣風情が。お前なんか、大嫌いだ」
パチン、と。何かが弾けたような音がした。
次の瞬間、俺の頬に痛みが走る。
「……っ、う……あ、あぁぁぁ……!」
リリは立ち上がり、震える拳を握りしめたまま、俺を見上げていた。
殴ったのは一度きり。
けれど、抑えていた感情はそこで限界を超えたのだろう。
リリはその場に崩れ落ち、膝を抱えるようにうずくまりながら嗚咽まじりに泣き声を漏らした。
俺は殴られた頬に手を当てたまま、振り返ることなく夜空を見上げる。
顔を見れば、きっと後悔が押し寄せる。
だから、俺には澄み渡る夜空しか見られなかった。
「……少し、眠っていてくれ」
そう呟いて右手をリリの顔に向けた瞬間、リリの体がぐらりと傾ぐ。
意識が落ちていくリリを抱きとめ、その額へ左手をかざす。
「――許してくれ。いや、こんなことしてそれは強欲か」
指先から、染み出すように“呪い”が流れ込んでいく。
リリの中の、俺に向けられた微かな黒が膨れ上がり、やがて他の色をすべて押し流し、塗り替える。
鈍い闇が、リリの記憶と心を静かに――確実に。
――闇魔法≪心蝕≫
闇魔法も刻印魔力も、使うのは初めてだ。
しかし恐怖は感じなかった。
あの日、ライオネルから話を聞いた日から――この方法は想定していた。
恐怖による思考の操作。
最悪な択だと理解したうえで悩んでいたが、主な被害が自分だとわかれば躊躇いも減る。
甘い夢の膜が、現実の棘を覆っていく。
やがてリリの体から力が抜け、うなされているような寝息だけが残る。
俺はその小さな体を床に横たえ、髪を一度だけ撫でて静かに手を離した。
「……悪いな」
これ以上は、リリが心を苦しめる未来しか思いつかなかった。
ならば、俺が嫌われてでも選択を奪うしかない。
振り返り、近くに落ちていた破れた木板の欠片を拾い上げる。
魔力を走らせると、焼きごてのように黒い文字が刻まれる。
書き終わったそれを地面に置き、俺はしばし見つめた。
伝わるかどうかはわからない。
だが、残さずにはいられなかった。
そして、誰の目にも映らぬように孤児院の闇に溶けていく。
夜風が頬を撫で、遠くで魔物の遠吠えが響いた気がする。
そうして、俺の姿は孤児院から消えた。




