血を引く者
「リリ――あの子は、私の家……エルザード家の者だ」
――血縁者?
その単語が頭の中で何度も反響する。
孤児院の片隅で笑っていた小さな少女が、貴族の血を継いでいる。
とんだシンデレラストーリーだ。
信じがたい現実に、思考が追いつかない。
「……どういうことなんですか」
ライオネルはしばし瞼を伏せ、過去をたぐるように静かに口を開いた。
「リリの、母親の件は知っているか?」
「……少しは」
少し前にリリから聞いた話が胸の奥で重く蘇る。
母と二人で暮らしていたこと。
貴族を名乗る男に連れて行かれそうになったこと。
そして――母が命を落としたこと。
似た光景などごまんと見てきたが、胸糞悪さは込み上げてくる。
「ならば、細かな説明は不要か」
ライオネルはわずかに息を整え、言葉を続けた。
「実はな、そのリリの母とは――私の妹なのだ」
その告白を前に、俺は言葉を失った。
ライオネルは静かに息を整え、視線を落とす。
「天真爛漫な妹でな、私もよく振り回されたものだ。婚約者を連れてきたときも、こんな妹で大丈夫なのかと聞き返してしまうほどでな。そんな妹を心から大切に思う、立派な男だったんだ。――私は、そう信じていた。そして二人は結ばれ、子も授かった。」
懐かしい景色を語るように、彼はふっと笑みをこぼした。
その笑顔は、まるで過去の温もりをすくい取るかのように柔らかい。
――だが、次の言葉を口にした瞬間、その微笑は跡形もなく消え失せた。
「だが、気づけばあいつは変わっていた。些細な欲か、誰かの甘言か……最初は分からぬほど小さな歪みだったのだろう。だがいつしか道を踏み外し、家を裏切り……そして、妹は生まれたばかりの子を連れて逃げ出していた。遅れて事を知った私には、もう何もできなかった」
重い声が続く。
「最近になって、その男――エルドが盗賊に堕ちたと判明した。そしてその奴らの拠点が、北の森にある、と」
胸の奥に冷たいものが走る。
そこは黒甲獣の縄張りと化している所だ。
確かに冒険者はだれも近づくことはないだろう。
黒甲獣の脅威を除けば、隠れ家としては申し分ない。
「事件を洗い直してわかったが、貴族と名乗った男とはエルドの事だった……執着する理由はわからないが、逃げた妹を他国にまで探す男だ。リリがここにいる事を知り、狙っている可能性がある。だからこそ、私は恐ろしい。妹の唯一の形見を、またしても奪われてしまうことが」
ライオネルの拳がわずかに震える。
「だから私は、リリを守りたいのだ」
彼の言葉には必死さが滲んでいた。
だが同時に、脳裏に浮かぶのは――怖がっていたリリの姿。
彼の必死な心を落ち着かせるように、言葉を選ぶ。
「あの子は、その件で貴族という存在そのものを恐れています。無理に連れていくのは、厳しいかと……」
本当ならば、無理矢理にでもライオネルに引き取ってもらうべきなのかもしれない。
だが、それで終わる話ではないことを俺は知ってしまった。
俺の言葉に、ライオネルは苦しげに瞼を閉じる。
しばしの沈黙の後、低い声が落ちた。
「……分かっている。今のリリを見て理解した、というべきか。貴族とは言え、この国で珍しい同族の私に対しても恐れがあった。無理に連れ出したとしても――」
拳を開き深く息を吐いたライオネルは、やがてこちらに視線を向け直した。
その眼差しには、貴族の威厳よりもひとりの家族としての切実さが浮かんでいた。
「……だからこそ、頼みたい。あの子を説得してほしい」
「説得……?」
「私が何を言っても、恐怖しか呼び起こせぬだろう。だが、君の言葉なら……あの子は耳を傾けるはずだ。あの子にとって、拠り所は君なのだから」
ライオネルの声音は震えていた。
それは血筋を継がせるための義務感ではなく、妹を失った者の悔恨と、残された子を守りたいという必死の想いに裏打ちされていた。
「……妹の唯一の形見を、もう二度と奪われたくない。あの子を、この手で守らせてほしい。どうか、力を貸してくれ」
ライオネルが頭を下げる。
「いや、待ってください。そもそも、リリが狙われていると決まった証拠は――」
「――証拠なら、あるんだ」
ライオネルは懐から一枚の羊皮紙を取り出す。
羊皮紙は汗でふやけ、角が幾度も折り返されていた。
そこには荒れた筆で「リリを探し出せ」と繰り返し記され、特徴も細かく書き込まれている。
「エルドの筆跡で間違いない。北の森に隠れる前の拠点から押収したものだ」
目を走らせた瞬間、背筋が氷のように冷えついた。
そこに記されていたのは――年齢、髪色、そして決定的な一文。
『リリを探し出せ』
息を呑む。すべてがあの子と結び付けられていたから。
「……妹の血縁を求めているのは明白だ。しかも名前まで記している以上、奴は存在を把握している。いや……既に狙いを定めていると見るべきだろう」
疑いようはない。
確かにリリを狙っている。
「だからこそ、時間がない。……頼む。あの子を守るために、君の言葉で説得してくれ。なんとしてでも、私の庇護下に置かなければ――また、大切なものを失ってしまう」
ライオネルの声は、部屋の空気を押し潰すように沈んだ。
返す言葉が見つからず、喉の奥で乾いた音だけが鳴る。
拳を握りしめたまま、俺は視線を落として沈黙した。
利を考えるのなら、養子になる選択肢は良い事だらけだ。
それこそ、孤児院に残る理由など一つも思いつかないほどに。
リリも理解しているはずだ。
だが、理屈と心は別物だ。
あの様子のリリが、恐怖を押し殺せる姿など想像もできない。
理解と選択の間には、深い溝が横たわっている。
その溝を埋める役割を――俺が担わされている。
「……できる限りはやってみます。ただ、期待はしないでください」
「勿論だ」
ライオネルはそれ以上を求めず、ただ深く頷いた。
もはや二人で語るべきことは尽きた。
俺は椅子を引き、扉へ向かう。
「二人を、呼んできます」
廊下の冷たい湿気が肌を刺す。
短く息を整え、二人の話声の聞こえる扉をノックする。
そしてレティシアとリリが俺と交代で部屋に入り、話を始めた。