貴族の来訪
あの夜から、数日が過ぎた日。
今朝の孤児院には、いつになく張りつめた空気が漂っていた。
子どもたちのざわめきも、食器の触れ合う音も、どこか落ち着きがない。
無理もない。
この孤児院に、貴族が訪れるのだから。
平民である俺たちにとって、本来なら縁のない存在。
そんな相手と顔を合わせるとなれば、緊張するなという方が無理な話だ。
子どもたちのざわめきは次第に小さくなり、誰もが息を潜めて耳を澄ませる。
すると遠くから、次第に規則正しい蹄の音が石畳を伝って響いた。
最初はかすかな振動にすぎなかったそれはじわじわと大きくなり、胸の鼓動と重なって響く。
やがて、石畳を踏みしめる蹄の響きが近づき黒塗りの馬車が孤児院の前に止まった。
人間の従者が扉を開け、一人の獣人が降り立つ。
金の髪、蒼色の瞳。
額から覗く獅子の耳。
厚い胸板と逞しい腕を備えた、筋肉質で威厳を湛えた男の獣人だった。
その身に纏うのは、華美な装飾で飾り立てるでもなく、粗末さとも無縁の装い。
深い紺の上衣に銀糸の縫い取りが控えめに走り、上質な布と確かな仕立てが気品を際立たせていた。
「お初にお目にかかります。ライオネル・エルザードと申します。本日、この孤児院の視察を仰せつかりました」
気配は鋭いが、声は澄んで穏やかだった。
その言葉はレティシアに向けられ、彼女は静かに一礼して応じる。
「ようこそおいでくださいました。……ぜひ、中をご覧ください」
そう言ってレティシアは、傍らに控えるリリへと目を向けた。
「リリ、あなたがご案内して差し上げて」
名を呼ばれた途端、リリの肩が小さく震える。
「わ、私が……?」
声は掠れ、視線は床に落ちたまま動かない。
レティシアは励ますように微笑んだ。
「ええ。あなたなら、この家のことをよく知っているでしょう?」
だが、リリの唇は震えるばかりで声は続かない。
そのとき、そっと裾を引かれる感触があった。
袖を引く手に目を落とすとリリが不安げにこちらを見ていた。
俺は短く息を吐き、頷く。
「……でしたら、私も一緒にご案内させていただきます」
リリの指先が袖を握り直す。
その小さな手にこめられた力が、言葉以上に必死さを伝えてきた。
俺は視線でレティシアに確認を取る。
ライオネルとリリを直接向き合わせようとする意図は理解できる。
目的がそれなのだから。
だが、今のリリには少し酷な話だろう?
彼女は小さくうなずくだけで、特に制止の気配は見せない。
ならば、と俺は息を整え言葉をつなぐ。
「こちらへどうぞ。施設をご案内します」
ライオネルは口を閉じたまま首を縦に振り肯定の意を示す。
こうして始まった視察は、食堂から中庭、寝室へと続いた。
食堂。
磨き込まれた机や棚の器を前に、リリが恐る恐る口を開く。
「……ここは、みんなで……順番に掃除してて。ごはんも……年上の子が……」
そこで言葉に詰まり視線をこちらに投げる。
これ以上は厳しいと悟り、俺が間を繋ぐ。
「はい。交代で掃除や調理をしていて、子どもたちもできる範囲で役割を分担しています」
リリは小さく息をつき、握った拳を胸の前でぎゅっと固めた。
ライオネルは静かに頷き、視線を優しく流す。
中庭。
土の匂いが漂い、畑の緑が風に揺れる。
リリは胸の前で手を組み、少しだけ強く声を張った。
「……ここでは、野菜を……育ててます。トマトは……わたしが……」
一瞬声が途切れたが、今度は自分から続きを絞り出す。
「……世話をしてて。ちゃんと実ると、うれしくて……」
俺は補うように言葉を添える。
「はい。畑の収穫で食卓の多くをまかなえているんです。特に最近はこちらの実が――」
ライオネルはその言葉に目を細め、畑をじっと見つめる。
リリの横顔は、ほんの少し自信を宿していたようにも見えた。
寝室。
子どもたちの作った玩具や書き物を見て、ライオネルが足を止める。
「よく、工夫されていますね。年齢ごとに役割などを決めているのですか?」
リリが小さく口を開く。
「……小さい子でも……できることを、分けて……」
途切れそうになりながらも、唇を噛んで続けた。
「……だから、みんな……一緒に暮らせてます」
俺が引き取る必要は、もうなかった。
ライオネルは柔らかな目でリリを見つめ、静かに頷いた。
リリはその視線を真正面から受け止め息を吐く。
小さな肩が、少しだけ軽くなったように見えた。
案内を終え、応接の部屋に戻ると、ひとときの安堵が広がった。
廊下の向こうからは子どもたちの小さな笑い声が漏れ聞こえ、緊張の糸が解けはじめた様子が伝わってくる。
リリはまだ落ち着かない面持ちで、俺の袖を指先でつまんでいた。
けれど――さきほどのやりとりで、少なくとも目の前の獣人は傲慢にふんぞり返るような貴族ではないと知れた。
言葉の端々に見え隠れしたのは、高圧ではなく誠実さ。
その真っ直ぐな眼差しに、思わずこちらの肩の力もわずかに抜けそうになるほどだ。
そこへ扉をノックする音と共に、レティシアが盆を手に現れる。
湯気を立てる茶器を卓に並べながら、にこやかに言った。
「長い案内でしたね。どうぞ、お掛けになってください」
ライオネルがゆったりと腰を下ろす。
貴族らしい品位を備えつつも威圧感はなく、その姿に部屋の空気が少し和らぐ。
俺とリリもその向かいに腰を下ろした。
茶を一口含んだところで、ライオネルが口を開く。
道中の労をねぎらう言葉に、こちらも短く応じる。
場を和ませる程度のやりとりに、わずかな笑みが交わり空気がいくらか和らぐ。
やがて言葉のやりとりが一段落し、短い沈黙が落ちた時――
改めて彼は真っ直ぐこちらを見据えた。
「……急で申し訳ないのですが、そこの少年と話をさせていただきたい。二人で、な」
その一言で、部屋の空気が変わる。
貴族相手の願いに拒否権などありはしない。
俺は受け入れるしかないと覚悟しつつ周囲へ視線を巡らせる。
疑問に思うそぶりもなく頷く従者たちとは違い、リリだけが不安げに袖を握った。
だが、そんな彼女とは対照的にレティシアはすぐに柔らかい微笑みを浮かべる。
「ええ、承知致しました。リリ、一緒に台所を手伝ってくれる?」
「……うん」
名残惜しそうに袖を離すリリ。
立ち上がるとき、ちらりと俺を振り返る視線が「大丈夫?」と問いかけているように感じて、俺は小さく頷き返した。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
そうして、できたのは俺とライオネルだけの空間。
なぜ自分が選ばれたのか、その理由は分からないままに。
部屋から離れていく足音が次第に遠くへと薄れて遂には聞こえなくなる。
その中でかすかに届く子どもたちの笑い声や食器の音は、この部屋の静けさを際立たせていた。
外では確かに日常が続いているのに、ここだけは異なる空気が流れている。
目の前に座る男と向き合うのは、俺ひとり。
なぜ自分が残されたのか――胸の奥でざわめきが広がっていく。
窓から差し込む光の中で、ライオネルはゆっくりとこちらに向き直る。
「まずは、案内をありがとう。とてもわかりやすかった」
「い、いえ……」
沈黙からの思いがけない真っ直ぐな礼の言葉に、戸惑いが生まれる。
どう返せばいいのか分からず視線を落とす。
ライオネルが言葉を続ける。
「……あの子が、君を拠り所にしていることがよく分かった。案内の間、言葉を繋いでくれたが――リリは、君が隣にいるからこそ、途中からは勇気を出して話をしてくれた。本当にありがとう」
あの子、とはリリのことだろう。
真正面から告げられ、胸の奥が熱くなる。
袖の感触を思い出しながら言葉を探したとき、ライオネルはふと視線を窓の外に移した。
「この孤児院も、良い所だな。子どもたちが互いを思いやり、支え合って暮らしているのがよく伝わってきた」
「……そう、見えましたか」
「ああ。私の国でも、あれほど自然に役割を分け合える共同体はそう多くない。大人の導きもあるだろうが……子どもたち自身の力を感じれた」
穏やかな言葉に、少し肩の力が抜ける。
どうやら、案内自体は成功とみて良さそうだ。
だが同時に、胸の奥で燻っていた疑問が再び顔を出す。
話を聞いた時からあった、一番の疑問。
多分、聞くなら今しかない。
相手の表情をうかがいながら、言葉を選ぶように紡ぐ。
「……ライオネル様。一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「……何だ?」
確かめるような声音だった。
まるで、本当に知っているのかを試すかのように。
胸の鼓動が耳に届くほどに響く。
それでも視線を逸らさず、問いを紡ぐ。
「――なぜ、ここまでして……リリを養子にするんですか?」
他国で養子を選ぶこと。
獣人差別の多いこの国に足を運ぶこと。
この視察自体、疑問は多い。
だが何より――『どうしてリリなのか』。
確かに、養子として見ればリリは申し分ない存在だろう。
だが、この国でなくとも子どもはいるはずだ。
差別の根強いこの国にまで来て迎えるほどの理由が、リリにあるとは思えない。
「……やはり、知っていたか」
ライオネルの表情がわずかに動く。
柔らかな微笑の奥から、隠されていた影がにじみ出る。
少しばかりの沈黙の後、静かな声が落ちる。
「これから言う事は、他言無用だ」
先程までのとは違う、低く落ち着いた声。
胸の奥が強く打ち、俺は無意識に息を詰める。
「結論から述べよう。リリ――あの子は、私の家……エルザード家の者だ」




