静かな誓い
色々あって遅れました。申し訳ないです……。
夕食後、レティシアに呼ばれて書斎に入る。
薄明かりの中、彼女は机越しに俺を見据えていた。
「どうしたんですか?」
「……貴族様の視察のことについて話をしようと思ったの。孤児院にとっても大事な場になるから、心構えはしておいた方がいいと思って」
その言葉に、俺は一瞬息を詰める。
――やはりその話か。
リリからも聞いていた。
ただの視察じゃない。
来訪の目的は、彼女を養子に迎えるかどうかを決めるため。
詳細を知ってしまった俺には、心構えの話は空々しく聞こえた。
レティシアの目を真っすぐ見据えて、核心を突く。
「視察っていうより、”リリのこと”ですよね」
俺が口にすると、レティシアの瞳がわずかに揺れた。
「……やっぱり、あの子から聞いたのね」
小さく息を吐き、彼女は視線を伏せる。
それからゆっくりと顔を上げ、俺を見据える。
「どこまで聞いたの?」
「……養子の話までは」
「そう……」
正直に話してしまってよいのかと少し思案したが、ありのままを伝える。
それからレティシアは考えるように視線を虚空へと移動させる。
少し間をおいて、考えがまとまったのかまた俺に視線を戻して話を始めた。
レティシアは真剣な顔でこちらを見据える。
「……なら、少しお願いしてもいいかしら?」
「お願い?」
「……リリはね、貴族という存在そのものに、嫌な思いを抱いているの」
「まあ、そうでしょうね」
リリの表情から、貴族に対して持つ良くない印象は察していた。
詳しい理由は不明だが、わからない話でもない。
直接何かをされていない俺でも、貴族への印象は良くないのだから。
この国で獣人がどう扱われるか、嫌というほど見てきたからわかる。
金持ちや権力者にとって、彼らは人ではなく――ただの飾りや、奴隷でしかない。
人間が気づかずに道端の蟻を踏むように、部屋の蠅を鬱陶しく感じて潰すように。
この国で見た貴族の獣人への扱いはそんなものばかりだった。
そんな現実ばかりを突きつけられてきて、貴族に良い印象を持てという方が無理な話だ。
――とは言え、獣人の貴族相手ならば話は変わる気もするが……。
「だから今度の視察が、どれほど優しい人たちのものだったとしても……あの子には信じられないのよ」
レティシアの言葉に、胸の奥が少しきしむ。
リリが笑顔の裏で抱えていたあの影は、それだとわかったから。
答えのない不安に囚われ、どうすればいいか分からず、ただ怯えている。
俺は何も返せない。
しばしの沈黙のあと、レティシアは柔らかく首を振った。
「でもね、今回いらっしゃるエルザード様は、他の方々とは違うの。セリア教会でも信仰深く知られ、身分に関わらず誠実に接してくださる方よ」
彼女の声には確信があった。
続けて言葉を重ねる。
「……けれど、今のリリは怖がるばかりで、それどころじゃない。考える余裕すらないの」
レティシアは机の上で両手を組み強く握りしめた。
「だからソーマ、あなたにお願いしたいの。せめて公平な目で、物事を見られるように支えてあげて。リリが、本当に自分の人生を判断できるようになるまで」
「……どうして、俺なんですか」
その言葉に思わず口を開く。
一瞬、レティシアは目を細めゆっくりと首を振った。
「視察の本当の理由を、あの子はあなたには話した。勿論、私は他言しないように注意したのよ?それでも話をしたっていうのは、あの子からの信頼の証なんじゃないかしら?」
胸の奥に重たい塊が沈んでいく。
リリのことは大事だし、放っておけないのは分かってる。
けれど、こんな自分にあいつの将来まで背負えるのか。
向いてないだろ、俺には。
ただでさえ人の重い話を正面から抱えられるほど器用じゃない。
――こっちは暗闇の中で、目の前の山を登るので精いっぱいの人生しか歩んできてないんだ。
それでも、リリが俺を信じたという事実だけは逃げ場を塞ぐように突きつけられていた。
夜更け。
寝台に横たわっても眠気は訪れなかった。
レティシアの言葉が頭の中で繰り返される。
――公平な目で、物事を見られるように支えてあげて。リリが、本当に自分の人生を判断できるようになるまで。
考えれば考えるほど、自分には荷が重いと突きつけられる。
答えの出ない思考が胸を塞ぎ、息苦しさだけが募る。
乾いた喉を潤そうと、寝台を抜け出して廊下に出る。
そこには話題の渦中にある人物の、小さな影が揺れていた。
リリだった。
窓からの月明かりに照らされ、両腕を抱きしめるようにして立っている。
「……眠れないのか?」
声をかけると、リリは少し肩をすくめて振り返った。
「ソーマこそ」
「まあな」
俺は壁に背を預けて座り込む。
リリも少し迷ってから隣に腰を下ろした。
しばし沈黙。
廊下を渡る夜風の音だけが響く。
「レティシアさんと話してるの、少し聞こえたよ。聞いたんでしょ?」
「……まぁ、少しな。壁一枚じゃ声が筒抜けだったか」
努めて軽く返すとリリは気まずそうに眉を寄せた。
けれどその表情はどこか安心しているようにも見えた。
「……正直、ちょっと怖いんだ」
リリは膝を抱き、視線を落としながら話し始める。
「怖い、か。どうしてそこまで怖がっているんだ?」
平民と貴族なんて、普通なら接点すらない。
それでもリリは、ただ嫌っている以上に“恐れている”ように見える。
その理由が、俺にはわからなかった。
「……昔の話なんだけど、聞いてくれる?」
「勿論」
自分から聞いておいて断る理由もない。
リリは薄く笑うと腕を強く抱きしめ、吐き出すように言葉を続けた。
「……私はね、物心ついた時からお母さんと二人で暮らしてたの。小さな家だったけど、畑を耕して、歌を歌って……貧乏ではあったけど、穏やかな毎日だったんだ」
声は震えていたが、その瞳はどこか遠い景色を見ていた。
「でも、ある日……貴族を名乗る人がやってきて、私を連れて行こうとしたの。今でも理由はわからない。でも、お母さんが必死に私をかばって……」
そこで言葉が途切れる。リリの指が袖をぎゅっと掴む。
「……お母さんは、殺された。私を庇って……目の前で」
月明かりが差し込む窓辺で、その小さな肩が震える。
少し顔を覗くと見えた瞳は、その日の絶望を思い出しているような。
そんな暗い瞳をしていた。
「その後のことは、あまり覚えてない。ただ――辛くて、苦しかったのだけは覚えてる。気づいた時には、知らない場所にいて……そして、レティシアさんに拾われて、ここに来た」
言葉を切ったリリは、しばし膝を抱いたまま沈黙する。
やがて、かすれた声が夜に溶けた。
「……だから、“貴族”って聞くだけで、あの日のことが全部よみがえって……怖くて、息が詰まるの……」
リリは腕を抱きしめ、絞り出すように続けた。
「……貴族と関わったら、また一人にされる気がして……嫌だ。嫌なの……あの日みたいで」
伏せた視線の先から、涙があとから零れ落ちる。
リリにとってその記憶がどれほど深い傷か、理解するには十分だった。
俺は何かを言いかけて――やめた。
軽い慰めじゃ届かない。そう感じたから。
養子になるのは嫌なのか。
今のリリにそれを問いても答えは出ないだろう。
リリのこの不安は、視察に来る貴族に実際に会わなければ解消されない。
俺の言葉でも、誰の励ましでも埋めきることはできない。
ただ時を待つしかない現実が、この空間に息苦しさを持たせる。
――だからこそ思う。
せめて今少しだけでも。
彼女が心から笑っていてほしいと。
――俺に最初に話しかけてくれた、あの時のように。
俺の見てきたリリは、明るく笑う姿が魅力的な少女なのだから。
「……なら、約束してやる」
やっと吐き出した声は、夜の静けさに吸い込まれるほど小さかった気がする。
けれど、その一言に込めた思いは、揺るぎようのないもので。
「お前がもし、誰かに攫われたとしても――俺が必ず助けてやる。たとえ死んでもだ。いや、死んだらお化けになって守ってやるよ――」
自分でも、似合わない冗談と誇張を含んだ言葉だとは思う。
でも、俺にできるのはそれくらいしかなかった。
「――大丈夫だ。絶対に、お前が一人になることはない」
言葉を切ってから、俺はリリの目を見て、ゆっくり続けた。
「……だから、リリは自分の目でちゃんと見て決めろ。来る貴族様がどんな奴か、未来を預けるに値するか。俺じゃなく、お前自身の判断で」
――過去は変えられない。でも、未来は変えられるから。
静かな誓いのあとに重ねたその言葉は、夜の冷たい空気よりも澄んで確かに響いた。
リリは俺たちとは違う。
俺たちはあの時、戻れない道だと知りながら、それでも進んだ。
義理を果たすため、親父に拾われた恩を返すために。
それを悔いてはいない。
だが――未練や後悔とも違うなにかはあった。
もし、あの時に別の選択肢を選んだなら。
もし、明るい世界を歩く未来を選んでいたら。
そんな“たられば”を、最後まで胸の奥に抱えていた。
だからこそ思う。
リリには、同じ後悔を背負ってほしくない。
その辛い過去を背負ったうえで、その目で見て、精一杯悩んで、その上で納得した道を進んでほしい。
その先にあるのがどんな道であっても、逃げ場のない過去への後悔よりはずっとましだから。
リリは一瞬、言葉を失ったように俺を見つめる。
その瞳が揺れて――次の瞬間、泣き笑いのような表情でふっと吹き出した。
「……なにそれ。怖いんだか、安心するんだか分かんないよ」
笑っているのに、瞳の端には光るものが滲んでいた。
強がりと安堵が入り混じるその顔に、俺の胸の奥もようやく少しだけ緩む。
こんな俺でも、誰かの不安を少しは軽くできたのだろうか――そんな思いが、胸を掠めた。
「でも……ありがと。会ったときに、自分でちゃんと考えてみる」
リリは小さく息を吸い、まっすぐ俺を見る。
月明かりに照らされた瞳は、震えながらも確かな強さを帯びていた。
「……今の約束、忘れないからね」
その一言は、俺にとっても誓いの杭のようで。
夜風に消えそうなほど小さな声だったが、確かに胸の奥に深く刻まれた。