黒い声と小さな手
――意識の底から浮かび上がったのは、低く湿った声のような“響き”だった。
『もっと……使え、俺を』
闇の中で、刻印が赤熱したように脈打つ。
その脈動は心臓の鼓動と同期し、血流を通じて全身を締め上げてくる。
まるで体の内側に別の生き物が巣食い、肉や骨を押し広げながら這い回っているかのようだった。
『……魔力と同じだ。経路を辿れ』
熱の塊が、直接脳裏に押し込まれる感覚。
『本来の魔力に、この力を重ねろ……そうすれば、桁違いの威力になる』
左手から駆け上がる熱と脈動は、重く粘つく異質な流れ。
魔力を感じるときにあった左手の魔力――それが”刻印魔力”なのだろう。
意識を向ければ、それは本来の魔力と同じ道筋を通り同じように操れそうだと直感する。
だがその流れは濃すぎて、体の奥に圧をかけるたび意識を引きずり込もうとする。
息が喉で潰れ視界は墨を流し込んだように暗く滲む。
耳鳴りが頭の奥で膨らみ刻印だけが熱と脈動を増していく――。
その瞬間、どこか遠くから水面を叩くような音が響き、肩を揺さぶる感触が現実へと割り込んだ。
「――おい! しっかりしろ!」
目を開けると、視界いっぱいにカイルの顔。
書架の影に引きずり込まれて座らされ、背中には冷たい石壁の感触があった。
額から冷や汗が伝い、呼吸はまだ浅い。
「……悪い、ちょっと、くらっとしてた」
「くらっと、じゃねえだろ。顔が死人みてぇに白いぞ」
カイルは苛立ちを隠さず、床に落ちた本を拾い上げる。
その視線が刻印のある左手に一瞬だけ落ち、わずかに眉をひそめた。
「……この本、何読んでたんだ?」
「……刻印の、こと」
吐き出した声は自分でも驚くほど掠れていた。
カイルの手が止まる。
数秒の沈黙のあと本を閉じて俺の膝の上に置いた。
「やめとけ。読むたびにそうなるなら、命削ってるのと同じだ」
反論しかけたが、刻印の奥でまだくすぶる熱がその言葉を押し止めた。
さっきの痛みを思えば確かにこのまま読み進めるのは愚かだ。
だが――同時に、あの闇魔法の構造は確かに俺の中に刻み込まれている。
「……強すぎる力ってのは、だいたい碌なもんじゃねえ」
カイルはそう言い乱れたフードを直す。
「ほら、今日はもう引き上げるぞ」
立ち上がろうとした瞬間、膝にわずかな力の抜けが残っていた。
カイルはため息をつき片腕を肩に回して支える。
本を戻して書架の間を抜け大図書館の静寂が遠ざかる。
外の光が視界に差し込み冷たい空気が火照った肌を撫でた。
手の奥では刻印がまだ微かに熱を放っていた。
それは痛みというよりどこか飢えを訴える鼓動のようで――
俺はその感覚を無理やり押し込み前を向いた。
カイルは俺を支えたまま図書館の門をくぐる。
外気はひんやりしているはずなのに、額にこびりついた汗はなかなか引かない。
「……もう大丈夫だ」
「……本当か? なら離すぞ」
肩に預けていた体をゆっくり離す。
カイルの腕から重みが抜けひやりとした空気が背に回る。
自分の足で一歩を踏み出すとまだ膝はわずかに揺れたが倒れるほどではない。
カイルは一瞬だけ眉を寄せたが何も言わず歩調を合わせる。
無言のまま体調を測るように俺を見据え――短く言い切った。
「しばらく冒険はなしだな」
「は? お前、飯代どうすんだよ。今の孤児院の飯なんて、大体俺らの金だぞ」
俺たちが持ち帰った肉や依頼の報酬は、遠慮されながらも孤児院の食事代として使われていた。
つまり、稼がなくなるということは食事の質が落ちるのと同義だ。
世話になった当初の、肉のほぼない汁と固いパン――あれが再び日常になる。
「んなもん俺が稼いでやんよ。まだ使い切ってもないだろ。それよりお前はのんびり直せ。図書館で気ぃ失う奴と冒険なんて、怖くてできねえよ」
一方的だが、否定の余地もない正論だった。
命のやり取りの最中に唐突に意識を失うかもしれない奴。
そんな相棒を抱えて戦うなど俺だってごめんだ。
こうなるとこいつは梃子でも動かない。
そういう奴だと、これまでの時間で嫌というほど知っている。
結局、言い返す言葉は見つからない。
無言のまま街路を歩く。
町の喧騒が近づき、昼前の陽光が石畳を白く照らしていた。
その時、向こうの通りから小柄な影がこちらへ駆けてくる。
「ソーマ! あ、カイルも!」
薄茶色のフードを深くかぶった少女――リリだ。
人目を避けるように顔の半分を影に隠しているが、駆け寄る勢いでフードの端がふわりと揺れ耳の先が一瞬のぞいた。
すぐに彼女は手で押さえて隠し、何事もなかったように笑顔を見せる。
「ちょうどよかった。これから夕飯の下ごしらえするんだけど手が足りなくてさ……」
「お、そいつはタイミングがいいな。ちょうどこいつが帰るとこだったぞ」
カイルがまるで決定事項のように俺の肩をぽんと叩く。
「おい、勝手に……」
抗議の声を遮るように、リリがぱっと笑顔を見せた。
「じゃあ決まり! 助かるよ、ソーマ!」
リリは嬉しそうに目を細め、耳まで隠すようにフードを引き直した。
その声に押されるようにこちらの抗議の言葉は喉で溶けて消える。
どうやら完全に逃げ場は塞がれたらしい……。
胸の奥で小さく諦めの息を漏らす。
視線を横にやるとカイルはもう知らん顔で視線を逸らしている。
「……まあ、肉を焦がすのは得意だぞ」
「そういう物騒な意味じゃないよ!」
肩をすくめて投げた軽口に、リリはすぐさま頬をふくらませる。
カイルは小さく笑い「お前、休んでろよ」とだけ言い残し、孤児院とは逆の方向へ歩いていった。
その背中を見送る暇もなく、リリが「じゃあ行こ!」と弾んだ声を上げ、俺の手首をつかむ。
温かく小さな手が、駆け足気味に容赦なく引っ張る。
まるで遊び場へ急ぐ子供のような勢いに、足が半歩遅れるたび腕がぐいぐいと引き寄せられる。
フードの影の奥、俺の位置からだけその耳先がちらりと覗く。
「ちょ!そんな急いでどこに――」
「市場! 今日の夕飯分、まだ買えてないから!」
人混みへ一直線に飛び込むリリの背中を追いながら、俺の“休日”初日は買い出しから始まった。