脅威の痕
街を出て半日ほど歩いた丘陵地帯。
乾いた草原と低木が点在し、遠くにはゆるやかな尾根が連なっている。
今回の依頼は、近郊農家で家畜を荒らす小型魔物の駆除だ。
ギルドによれば、この辺りからの依頼は珍しくなく、どれも低ランクの駆除ばかりだという。
今回も危険は少ないだろう――そう言って受付嬢はこの仕事を勧めてきた。
「昨日の話……どういうことなんだろうな」
カイルが視線を前に向けたまま口を開く。
昨日の話――レティシアから言われた貴族の視察の話だろう。
しかも、なぜかリリには特に気をつけろと念を押されていた。
その理由はわからないが、今の時点で答えを出せる話ではない。
「今考えても答えは出ない。一旦、依頼に集中しろ」
そう言って歩を進めると、ちょうど依頼主の農夫が羊の囲いの外から手を差し出した。
その指先には、夜露で濡れた草と、ところどころ茶色く変色した地面が広がっている。
「夜な夜な柵を抜けて来やがってな……肉どころか骨まで食われちまうんだ」
その声には苛立ちよりも、不気味なものに触れた時の警戒が滲んでいた。
羊たちは落ち着きなく鼻を鳴らし、柵の端に固まってこちらをうかがっている。
俺たちは柵沿いに歩いた。
草を踏みしめるたびに湿った音が返る。
地面には無数の蹄と、獣の爪が抉った跡が入り混じり、泥に黒い染みが滲んでいた。
それを辿るように、丘の裏手――低木が影を落とす場所へと足を進める。
「……見ろ」
カイルがしゃがみ込み、地面を指す。
そこには深く抉られた四足獣の爪痕。
前脚の幅は広く、爪先は鋭く土をえぐっている。
「……低ランクにしちゃ、でけぇよな」
カイルが眉をひそめた、その時――
ガサリ。
茂みの奥で枝がしなった。
次の瞬間、灰色の毛並みが弾けるように飛び出す。
牙が陽光を反射したように輝き、喉の奥から低い唸り声が響く。
「――避けろ!」
地面を裂くような足音とともに、魔物が一直線に突っ込んでくる。
その速さは低ランク依頼の想定をはるかに超えていた。
俺は反射的に足裏へ魔力を集め、踏み込みと同時に横へ跳ぶ。
頬を切る風圧。
すれ違いざま、獣の瞳が血に濡れたように光った。
カイルも俺の声に反応し、短剣を構えて魔物と対峙する。
「足を止める!」
俺は獣の進路に掌を向けた。
魔力を地面へ叩き込むと、乾いた土が一瞬で水を吸ったように黒く変色し、ぬかるみに変わる。
突っ込んできた獣の前脚が泥に沈み、勢いを殺される。
だが――完全には止まらない。
泥を跳ね上げながら、獣は上半身を捻り、鋭い爪を振るってきた。
「ッ――!」
カイルが身を沈めてかわす。
爪が頭上かすめ、深く被っていたフードの端を裂いた。
布地がぱらりと垂れ、隠していた耳の付け根に浅い切り傷が覗く。
だが速度は先ほどまでとは比べものにならない。
反撃の隙を逃さず、カイルは低い姿勢のまま踏み込んだ。
後脚の腱を断ち切るように短剣を払う。
魔物が悲鳴を上げ泥の中でもがく。
片脚を失ったその動きは、もう致命的に鈍い。
「今だ!」
俺は短剣を両手で握り、首筋めがけて振り下ろす。
肉を裂き、骨を砕く確かな手応え。
獣は泥の中で一度だけ痙攣し、そのまま力を抜いて崩れ落ちた。
息を荒げたままカイルがフードを直す。
だが裂け目から覗く耳の付け根に浅い切り傷が走っていた。
血が毛先に絡まり乾いた風に揺れている。
「傷を見せろ」
短く声をかけると、カイルは無言で顔を寄せてきた。
俺は右の掌に魔力を集めて傷口へと送る。
瞬間、刻印がそれを拒むように焼けつく衝撃が走る。
魔法の使用で熱を帯びていた刻印が更に灼けるように痛みを放った。
それでも歯を食いしばり光を傷口へと押し込む。
じわりと血が引き、裂けた皮膚が塞がっていく――が、その進みは遅い。
「……やっぱきついな、これ」
レティシアから教わった回復魔法。
使うたびに刻印は拒絶の意思を痛みとして叩きつけてくる。
彼女なら一瞬で塞ぐ傷も、俺だとこうして時間がかかる。
ただでさえ遅い回復が焼けつく感覚でさらに鈍る。
魔力の流れが削がれ力を強めれば刻印が暴れて苦痛を深く刻む。
治療を終えるころになってようやく刻印の熱が引き始めた。
カイルは耳の付け根を軽く触り「十分だ、助かった」とだけ言って立ち上がりフードを被りなおす。
端を整えたとき、覗いた耳にはもう傷跡らしいものはなかった。
わずかに安堵を感じながらも俺の視線は死体へと戻っていた。
「……これ、絶対低ランクじゃないだろ」
「だろうな。でも考えるのは後だ。もう一匹来られたら厄介だ」
俺は死体を膝で押さえ、脇腹の毛皮をめくった。
そこには――焼け焦げたような黒い裂傷。
森で見た、黒甲獣に裂かれた獣と同じ痕跡が刻まれていた。
「……こいつ、傷を負ってたのか」
カイルが低く呟く。
言われてみれば、突進も反撃も、速度は最初の一撃より鈍かった。
万全な状態であれば、今ごろ俺たちが地面に転がっていたかもしれない。
安堵がわずかに胸をなでる――だが、それ以上に、別の感情が喉を締め付けた。
こんな魔物でさえ、追い立てられる。
黒甲獣は、それほどの存在なのか。
「……森から、歩いて半日以上だぞ」
カイルの声にも、かすかな緊張が混じっていた。
丘を渡る風が血と泥の匂いを遠くへ攫っていく。
視線の先、森の影がわずかに揺れた気がした。
息を整え、魔物の死体を肩に担ぎ直して農場の柵が見える距離まで戻る。
依頼主の農夫がこちらに気づき、足早に駆け寄ってきた。
「おお……やったのか!」
死体を地面に下ろすと、農夫は目を見開き、眉間に深い皺を刻んだ。
その視線が一瞬、破れたカイルのフードへと向く。
裂け目から覗く耳の付け根を隠すよう、俺はさりげなく魔力を流し込んで影を濃くし、輪郭をぼかした。
農夫は気にせず話を進める。
「……まさか、こんな魔物が出てくるとはな。来たのが君たちでよかったよ」
「……この魔物、知ってるんですか?」
俺が問うと、農夫はさらに目を丸くした。
「これは灰牙狼ってやつだ。この辺りじゃめったにお目にかからん。普通は北の森に棲んでるはずなんだが……」
農夫は言いながら、わずかに声を落とした。
北の森――黒甲獣がいるとされる場所。
その名を出さずとも、俺の背筋に冷たいものが這い上がる。
農夫は怪訝そうに俺たちを見やり、鼻を鳴らした。
「……戦えても、魔物の知識がないってのは危なっかしいな」
カイルが肩をすくめる。
「悪いな、苦手分野なんだ」
農夫は呆れたように鼻を鳴らし、顎に手をやって続けた。
「……魔物の知識がないと命取りになるぞ。有料になるが国の大図書館に行ってみろ。古い魔物図鑑や冒険者の記録が山ほどある。知識を仕入れておくに越したことはねぇ」
確かに、今回の件も知識があればもっと楽に対応できたかもしれない。
ただ剣と魔法を振るうだけじゃ、この先は立ち行かない。
それに、この痕跡の原因である黒甲獣の手掛かりも見つかるかもしれない。
カイルと目を合わせる。
「……行くか?」
「ああ、決まりだ」
俺たちは灰牙狼の死体を担ぎ直し、土の匂いを含んだ風を受けながら、丘を下っていった。
現在は毎日投稿できていますが、今後は忙しさによって途切れることもあるかもしれません。
ご了承ください。
あと投稿時間ばらつくかもです。