夜の食卓
その夜の食卓には、久しぶりに肉の匂いが漂っていた。
リリが腕によりをかけて作った料理が並んでいる。
森で仕留めた鹿のような獣は、見事に様々な料理に姿を変えていた。
香草をまぶして焼いた肉、骨から取った出汁のスープ、細かく刻んで野菜と炒めた炒め物。
どれも湯気を立てて、食欲をそそる匂いを放っている。
「わあ……!」
「お肉だ、いっぱいのお肉!」
子どもたちの歓声が食堂に響く。
ここ最近、こんな声を聞いたのはいつぶりだろう。
小さな手が皿に伸び、目を輝かせながら肉を頬張る姿に、俺の胸の奥が少しだけ温かくなった。
「ソーマ、カイル、ありがとう」
リリが俺たちの横に座り、小さく頭を下げる。
その顔には、心からの安堵が浮かんでいた。
「たまたま、運が良かっただけだ」
俺はそう答えながら、スープを口に運ぶ。
出汁がよく出ていて、野菜の甘みと肉の旨味が絶妙に調和している。
リリの腕前は本物だった。
「でも、森で何かおかしなことはなかった?」
レティシアが箸を止め、心配そうに俺たちを見る。
俺たちの様子から何か察したのか、それとも何か別の情報を掴んでいるのか。
「……少し、な」
慎重に言葉を選ぶ。
子どもたちに不安を与えないよう、声を落とした。
「獣の数が少なかった。それに……」
俺は傷ついた獣のことを思い出す。
あの黒く焦げた傷跡。
明らかに普通の獣によるものではなかった。
「変な傷を負った獣がいた。魔物にやられたみたいな」
レティシアの表情が一瞬強張る。
「……そう。森は何があるかわからないから、二人とも気をつけてね」
それだけ言って、レティシアは再び食事に戻った。
だが、その動きはさっきよりもぎこちなかった気がする。
食事が進む中、俺の頭には朝の光景がちらつく。
奴隷たちの一行。
鞭で打たれた女の背中。
血の滲んだ地面。
――結局、俺たちは何もできなかった。
肉の味が、急に薄く感じられた。
「ねえ、ソーマ」
隣に座った小さな女の子――エルナが、俺の袖を引っ張る。
「どうした?」
「明日も、お肉食べられる?」
その無邪気な問いかけに、俺は言葉を詰まらせる。
この獣一匹分の肉も、せいぜい二、三日でなくなってしまうだろう。
そうなれば、また元の質素な食事に戻る。
「……わからない。でも、また頑張ってみる」
エルナは満足そうに頷き、また肉に向かって行った。
その後ろ姿を見ながら、俺は静かに拳を握る。
この子たちを守るためには、もっと強くならなければならない。
朝見た光景を、二度と見過ごすだけの存在でいたくない。
――ここで過ごすうちに、随分と情が湧いてしまったらしい。
肉の最後の一口を噛み締めながら、俺は静かに考えていた。
朝見た光景。森での異変。
様々な出来事が少しずつ絡み合い、何かに向かって動いている気がする。
夜風が窓を揺らし、遠くで森がざわめく音が聞こえた。
あの奥に潜む"何か"と、いずれ向き合う日が来るだろう。
まだ見ぬ脅威に備えなければならない。
食事を終えた子どもたちが、満足そうに席を立っていく。
今夜だけは、みんな本当に幸せそうだった。
リリが最後の皿を片付け終えると、レティシアが俺たちを手招きした。
「少し、話があるの。三人とも、こちらへ」
子どもたちが寝室へ向かうのを見送ってから、俺たちは別室に呼ばれた。
小さな書斎のような部屋で、レティシアは椅子に腰を下ろす。
「実は……近々、来客がある」
レティシアの声は、いつもより慎重だった。
「来客?」
カイルが首をかしげる。
「獣人の貴族の方よ。エルザード家……他国の、獣人の国の貴族様よ」
リリの顔が、わずかに強張った。
獣人の貴族――わざわざ差別の激しいこの国に来るとは珍しい。
「孤児院の視察、ということになっているけれど……」
レティシアの視線が、そっとリリに向く。
「詳しいことは、また後で話しましょう。ただ、礼儀作法や立ち振る舞いに気をつけて。特に、リリ」
「……わ、私?」
リリが戸惑ったように自分を指す。
「あなたは料理の腕もあるし、子どもたちの面倒もよく見てくれる。きっと、良い印象を持ってもらえるはず」
レティシアの言葉には、何か含みがあった。
だが、それ以上は語ろうとしない。
「いつ頃の予定ですか?」
俺が問うと、レティシアは少し考えるような仕草を見せた。
「一週間後。だから、それまでは……あまり遠出は控えてもらえる? 特に森の方は」
朝の奴隷の件といい、森の異変といい、確かに物騒な状況が続いている。
来客がある時に何かトラブルが起きれば、孤児院にとって良いことはないだろう。
「わかりました」
リリが小さく頷く。
その表情には、まだ困惑が残っていた。
「普段通りにしていれば大丈夫よ。それじゃあ、今日はもう休みましょう」
部屋を出る時、俺はレティシアと目を合わせた。
その瞳には、何か重要なことを隠している影があった。
廊下を歩きながら、カイルが小声で呟く。
「……なんか、ただの視察じゃなさそうだな」
「だろうな」
リリは黙ったまま、手をぎゅっと握りしめている。
獣人の貴族が、わざわざこの孤児院を訪れる理由。
そして、レティシアがリリを特別に気にかけている理由。
答えは見えないが、確実に何かが動き始めている。
そんな予感がした。