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さんさ 志乃の医薬譚  作者: 朝久野智秋
足楢編

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9/34

 志乃は冴えない表情で、とぼとぼと道を歩いていた。

昨日まで秋の気配が漂っていたというのに、今日はまた真夏が舞い戻ったような陽ざしだ。

照り返しの強い砂浜が、足裏にまでじりじりと熱を伝えてくる。

だが、志乃の胸の中には、別の重たい熱がこもっていた。

家業のうどん屋では、出入りが多い。お使いに出されるのも日常の一部だ。

それでも、今日ばかりは足取りが鈍い。向かう先の名を思うだけで、胃の奥が重くなる。

――百合金(ゆりきん)商店。

味噌と醤油を商う。志乃の叔父・はじめが営む蔵そして店だ。

祖父の時代は酒蔵だったが、一に代替わりして、味噌と醤油を作るようになった。

店で使う醤油を受け取るだけなら、まだよかった。だが今日は、体調を崩して寝込んでいる叔母・さよの世話を頼まれている。握り飯を届け、洗濯を手伝い、夕方まで留まる予定で来ているのだ。

長居しなければならない――それが、志乃には何よりも気が重かった。


 蔵の入り口に近づくと、最初に叔父の一が見えた。

「志乃、面倒かけるな。」

いつもの落ち着いた声。志乃は小さく頭を下げた。

「昼ごはん、持ってきました。どこに置きますか?」

「母屋に運んでくれ。」

一の後ろをついて歩くのは、三男の才蔵。まだ少年の面影が残るが、父の背中を追うように働いている。

「おう。」

志乃に軽く声を掛けて通り過ぎた。

 

 志乃は息を吸い込む。

味噌と醤油の香りと少し酒の匂い。重く、甘く鼻を包む。幼いころはこの蔵の匂いが苦手だった。蔵には入るなと固く言われたせいもあって、中の様子を知らないままだ。

思い出の中を漂っていると、視界の端に人影が見えた。

かごを抱えた二人の男。

一人は平蔵、そしてもう一人は――源蔵。

「志乃、ありがとな。」

平蔵が声をかけた。

もう一方の源蔵は、こちらを一瞥いちべつすることもなく通り過ぎた。

無視されることには慣れていた。けれど、慣れたところで痛みが消えるわけではない。

志乃の胸の奥が、静かにざわつく。

いとこ同士でありながら、源蔵は志乃に冷たい。

理由は……全く心当たりは無い。

「気にしない、気にしない……」

志乃は小さくつぶやき、母屋へと入る。

 

 叔母・さよの部屋からは、乾いた咳が聞こえた。

声をかけると、「どうぞ」と弱々しい声が返る。

「志乃ちゃん、ありがとうね。」

「お薬とおかゆを持ってきました。少し食べられそうですか。」

志乃が差し出すと、さよは微笑もうとしたが、また咳き込み、細い肩が震えた。

「昨夜、一さんと源蔵が言い争ってね……。一さんは長男だからと、源蔵に厳しくしてしまうの。私が元気なら、もう少し間に入れるのだけど。」

志乃はうなずいた。

親子の確執というものは、計り知れない。

けれど、どんなにぶつかっても、互いに心の奥で求めあっているのだろう。

そう信じたかった。

 

 志乃がさよの部屋から居間へと向かっていると、蔵の外から大きな声がした。

胸騒ぎがして、志乃は走り出す。

陽ざしの下、源蔵が倒れていた。

土の上に仰向けになっている。

「源蔵さん!」

駆け寄って脈を取る。早い。指先まで灼けるような熱。

中暑ちゅうしょ……?

考える暇はない。とりあえず熱を冷まさないと。

その場にいた平蔵と力を合わせ、必死に母屋へ運び込む。

体は大きく、ずっしりと重い。背中を支えた志乃の腕まで熱が移ってくるようだった。

畳の上に寝かせると、源蔵は小さくうめき声をあげた。

「平蔵さん、井戸水と手ぬぐい!」

指示を出しながら、志乃は叫んだ。人手が欲しい。

「誰か! 聞こえますか!」

平蔵が戻ると、志乃は濡らした手ぬぐいを源蔵の首筋、脇、額に次々と当てていく。

「服を緩めて……体を冷やさないと。」

うちわで風を送り、熱を逃がす。

不破ふわ材木店に行って、神近先生を呼んできて!」

平蔵は返事もそこそこに走り去った。

 

 時間の流れが、異様に長く感じられる。

「源蔵!」

志乃が振り向くと、さよがよろめきながら駆け寄ってくる。

志乃は手短に状況をせ爪する。

「手ぬぐいを下さい!」

咳き込みながらも、さよは家の奥へと取りに行った。

やがて、一と才蔵も駆けつける。

皆で風を送り、志乃は冷えた井戸水で何度も布を絞った。

「少し熱が下がってきました。」

「意地張って、食事も摂らんかったから。」

一の声がかすかに震えた。

源蔵の指先がわずかに動いた。

志乃の胸に、希望の灯がともる。

「大丈夫……頑張って。」

そのとき、玄関の方で足音がした。

「遅くなりました。」

神近が現れた。袴の裾を翻し、すぐに源蔵の脈をとる。

「最初、汗は出ていませんでしたか?」

「はい。今は少しにじんできています。」

神近は頷いた。

「中暑でしょう。この暑さの中、ほとんど水も食事も摂らずに働いていたようですね。」

仁朗が駆け込み、汗をしたたらせ、息を切らせてかごを置く。

「言われた物、持ってきました。俺も倒れちゃいますよ。」

「ありがとう。薬を作りましょう。」

厨房で才蔵が手早く火を起こした。

神近は鍋に薬の材料を入れていく。

その中に白色の塊も入っている。志乃がさじでたたくと砕けた。

石膏せっこうか。」

そういえば、以前神近が石膏は体を冷やすといっていた。

あと乾いた米粒、今回も初めて見る薬だ。

鍋に水を入れて煮だしていく。

志乃は神近の横で鍋を見つめた。

白く濁る湯の中に、ひとすじの香りが立ちのぼる。

「この薬は、熱をしずめ、渇きを潤します。冷ましてから飲ませましょう。」

神近は穏やかに言った。

 

 源蔵の枕元に戻り、志乃はそっと薬湯を冷ます。

頬に触れると、先ほどまでの焼けるような熱が少しずつ引いている。

神近が言った。

「志乃さんの対応が早かったおかげで、峠は越えました。ただ、体の奥にはまだ熱がこもっています。」

志乃は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。

安堵とともに、言葉にならない感情がこみ上げた。

――憎まれていても、構わない。

――助けたかった。ただ、それだけだった。


 窓の外では、風鈴がかすかに鳴っていた。

夕陽が差し込み、源蔵の頬に淡い光が落ちる。

その瞬間、志乃は思った。

人の心もまた、熱をもって初めて、互いに触れ合うのかもしれない――と。



★熱中症★

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