熱
志乃は冴えない表情で、とぼとぼと道を歩いていた。
昨日まで秋の気配が漂っていたというのに、今日はまた真夏が舞い戻ったような陽ざしだ。
照り返しの強い砂浜が、足裏にまでじりじりと熱を伝えてくる。
だが、志乃の胸の中には、別の重たい熱がこもっていた。
家業のうどん屋では、出入りが多い。お使いに出されるのも日常の一部だ。
それでも、今日ばかりは足取りが鈍い。向かう先の名を思うだけで、胃の奥が重くなる。
――百合金商店。
味噌と醤油を商う。志乃の叔父・一が営む蔵そして店だ。
祖父の時代は酒蔵だったが、一に代替わりして、味噌と醤油を作るようになった。
店で使う醤油を受け取るだけなら、まだよかった。だが今日は、体調を崩して寝込んでいる叔母・さよの世話を頼まれている。握り飯を届け、洗濯を手伝い、夕方まで留まる予定で来ているのだ。
長居しなければならない――それが、志乃には何よりも気が重かった。
蔵の入り口に近づくと、最初に叔父の一が見えた。
「志乃、面倒かけるな。」
いつもの落ち着いた声。志乃は小さく頭を下げた。
「昼ごはん、持ってきました。どこに置きますか?」
「母屋に運んでくれ。」
一の後ろをついて歩くのは、三男の才蔵。まだ少年の面影が残るが、父の背中を追うように働いている。
「おう。」
志乃に軽く声を掛けて通り過ぎた。
志乃は息を吸い込む。
味噌と醤油の香りと少し酒の匂い。重く、甘く鼻を包む。幼いころはこの蔵の匂いが苦手だった。蔵には入るなと固く言われたせいもあって、中の様子を知らないままだ。
思い出の中を漂っていると、視界の端に人影が見えた。
かごを抱えた二人の男。
一人は平蔵、そしてもう一人は――源蔵。
「志乃、ありがとな。」
平蔵が声をかけた。
もう一方の源蔵は、こちらを一瞥することもなく通り過ぎた。
無視されることには慣れていた。けれど、慣れたところで痛みが消えるわけではない。
志乃の胸の奥が、静かにざわつく。
いとこ同士でありながら、源蔵は志乃に冷たい。
理由は……全く心当たりは無い。
「気にしない、気にしない……」
志乃は小さくつぶやき、母屋へと入る。
叔母・さよの部屋からは、乾いた咳が聞こえた。
声をかけると、「どうぞ」と弱々しい声が返る。
「志乃ちゃん、ありがとうね。」
「お薬とおかゆを持ってきました。少し食べられそうですか。」
志乃が差し出すと、さよは微笑もうとしたが、また咳き込み、細い肩が震えた。
「昨夜、一さんと源蔵が言い争ってね……。一さんは長男だからと、源蔵に厳しくしてしまうの。私が元気なら、もう少し間に入れるのだけど。」
志乃はうなずいた。
親子の確執というものは、計り知れない。
けれど、どんなにぶつかっても、互いに心の奥で求めあっているのだろう。
そう信じたかった。
志乃がさよの部屋から居間へと向かっていると、蔵の外から大きな声がした。
胸騒ぎがして、志乃は走り出す。
陽ざしの下、源蔵が倒れていた。
土の上に仰向けになっている。
「源蔵さん!」
駆け寄って脈を取る。早い。指先まで灼けるような熱。
中暑……?
考える暇はない。とりあえず熱を冷まさないと。
その場にいた平蔵と力を合わせ、必死に母屋へ運び込む。
体は大きく、ずっしりと重い。背中を支えた志乃の腕まで熱が移ってくるようだった。
畳の上に寝かせると、源蔵は小さくうめき声をあげた。
「平蔵さん、井戸水と手ぬぐい!」
指示を出しながら、志乃は叫んだ。人手が欲しい。
「誰か! 聞こえますか!」
平蔵が戻ると、志乃は濡らした手ぬぐいを源蔵の首筋、脇、額に次々と当てていく。
「服を緩めて……体を冷やさないと。」
うちわで風を送り、熱を逃がす。
「不破材木店に行って、神近先生を呼んできて!」
平蔵は返事もそこそこに走り去った。
時間の流れが、異様に長く感じられる。
「源蔵!」
志乃が振り向くと、さよがよろめきながら駆け寄ってくる。
志乃は手短に状況をせ爪する。
「手ぬぐいを下さい!」
咳き込みながらも、さよは家の奥へと取りに行った。
やがて、一と才蔵も駆けつける。
皆で風を送り、志乃は冷えた井戸水で何度も布を絞った。
「少し熱が下がってきました。」
「意地張って、食事も摂らんかったから。」
一の声がかすかに震えた。
源蔵の指先がわずかに動いた。
志乃の胸に、希望の灯がともる。
「大丈夫……頑張って。」
そのとき、玄関の方で足音がした。
「遅くなりました。」
神近が現れた。袴の裾を翻し、すぐに源蔵の脈をとる。
「最初、汗は出ていませんでしたか?」
「はい。今は少しにじんできています。」
神近は頷いた。
「中暑でしょう。この暑さの中、ほとんど水も食事も摂らずに働いていたようですね。」
仁朗が駆け込み、汗をしたたらせ、息を切らせてかごを置く。
「言われた物、持ってきました。俺も倒れちゃいますよ。」
「ありがとう。薬を作りましょう。」
厨房で才蔵が手早く火を起こした。
神近は鍋に薬の材料を入れていく。
その中に白色の塊も入っている。志乃がさじでたたくと砕けた。
「石膏か。」
そういえば、以前神近が石膏は体を冷やすといっていた。
あと乾いた米粒、今回も初めて見る薬だ。
鍋に水を入れて煮だしていく。
志乃は神近の横で鍋を見つめた。
白く濁る湯の中に、ひとすじの香りが立ちのぼる。
「この薬は、熱をしずめ、渇きを潤します。冷ましてから飲ませましょう。」
神近は穏やかに言った。
源蔵の枕元に戻り、志乃はそっと薬湯を冷ます。
頬に触れると、先ほどまでの焼けるような熱が少しずつ引いている。
神近が言った。
「志乃さんの対応が早かったおかげで、峠は越えました。ただ、体の奥にはまだ熱がこもっています。」
志乃は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
安堵とともに、言葉にならない感情がこみ上げた。
――憎まれていても、構わない。
――助けたかった。ただ、それだけだった。
窓の外では、風鈴がかすかに鳴っていた。
夕陽が差し込み、源蔵の頬に淡い光が落ちる。
その瞬間、志乃は思った。
人の心もまた、熱をもって初めて、互いに触れ合うのかもしれない――と。
★熱中症★




