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 朝から強い日差しが降り注ぐが、数日前より蝉の声が聞こえなくなった。こうやって季節は変わっていくのだ。志乃は浜辺で一人、沖の方を眺めている。心の中で呟いた。

「楽しそう。でも、この時期に海に入るのは嫌だ。」

神近と仁朗、そしてかやと、かやの母が海に潜っている。かやの父は漁師、かやと母は海女である。海人草かいにんそうを採りたい、という神近の希望をかやの母に伝えたのは志乃だ。志乃は基本的に昔の事はあまり覚えていない。しかし、海月くらげに刺された幼い頃の記憶は鮮明で強烈だ。そのため、ただの付き添いというか傍観者だ。引き合わせた手前、放っておくこともできず、そして海苔はもう摘み採り済みでもあり、ただ海を見ている。聞くところによると、海人草はこのあたりではほとんど採れないという。ただ、かやの一家は今回の一件に乗り気だ。かやの父は以前、神近のもとを訪れてこう言っていた。

「先生もそろそろ妻を迎えられたらどうですか。うちの娘は働き者ですし、考えては下さらんか。」

「そんな風にいっていただけて光栄です。ですが、私は誰かと一緒になるつもりはないのです。私は不器用なので、妻子ができると医業を一番に考えられなくなると思うのです。申し訳ありません。」

それを聞いて、志乃は一つ謎が解けた。神近は誰に対しても慈愛に満ちているが、その割には一定の距離を置いている。それは、志乃や仁朗に対しても同じだ。誰かと密着するような関係になってしまうと、相手の感情が自分をも動かしてしまうものだ。それを神近は医者として避けようとしている。相手を悼む心、共感する心が必要ではあるものの、それに流されないようにしないといけない。医者という仕事がどういうものか、神近と過ごした数カ月で志乃にもわかってきている。感情で動いてはいけないのだ。


 神近が志乃に向かって手を振ってきた。振り返すと、両手で○を作った。お目当てのものが見つかったようだ。その後もしばらく貝を採ったり、魚を釣ったり。志乃は神近の希望が叶って、ほっとしていつもの日課、字の勉強をしていたところ、ようやく皆が帰ってきた。

「ありがとうございました。」

濡れた体を手ぬぐいで拭きながら、神近はかや達に礼を言う。かやは甲斐甲斐しく神近の体をふくのを手伝う。神近が志乃に話しかけてきた際、鋭い視線を感じた気がしたが、あくまで気のせいという事にしておこう。

仁朗は牡蠣が採れたと喜んでいる。初めは、海藻採りか・・・と乗り気でなかったようであったが、今は一番楽しそうだ。

「先生、採ったもので料理しますから、昼に食べに来てください。」

かやの父がそう告げると、

「いえいえ。申し訳ないです。」

神近が遠慮した。すると、

「お待ちしていますね。」

かやが神近の腕に自分の腕を絡めた。志乃がぎょっとして二人の姿を見ると、今度は確実に睨まれた。神近は慣れているのであろう、

「ではお言葉に甘えて伺いますね。」

と言いながら、やんわりと腕を解いた。


 帰り道、仁朗が神近に告げる。

「もてるのも大変ですね。」

神近は苦笑いだ。

「私ではなくて医者という、もの珍しい存在に好意を持っているのだと思いますよ。」

「俺も医者になったらもてるかなぁ。神様、弟子にしてください!」

立ち止まって頭を下げた。

「仁朗さんが医者になったら、お父さん困ってしまいますよ。」

「兄さんと義兄さんがいるから大丈夫!」

仁朗は譲らない。いつもの問答が始まった、と志乃は仁朗に目を向けた際、そういえば、と思った。紀一が言いたかったことは何だったのか。一瞬迷ったが、仁朗は知らないだろうと聞くことをあきらめた。


 仁朗の家に着いた。二人が水浴びをしている間に、今日の戦利品を志乃が仁朗の母に届けた。戻ってきた神近に、志乃は勇気を出して本を差し出した。志乃の家の納屋で見つけた本である。神近に見せるには理由がある。「芍薬」「当帰」「肉桂」といった記載があったからだ。

表紙には「生薬図譜」とある。見ていると重厚感と少しの威圧感が伝わってくる

「これは・・」

神近は姿勢を正して丁寧に本をめくっていく。

「かなり貴重な本ですね。そして異国の本です。」

「文字は似ているのですが、異国の本だったのですね。それで読めないところばかりなのか。」

志乃は神近のそばで神近が読み進めるのを、かたずをのんで見守る。本にはところどころ誰書き込みがある。桔梗のページがあった。鮮やかな紫色の桔梗が描かれ、それを説明しているのであろう文字が並ぶ。

「志乃さんの大事な本だとは思いますが、少しお借りすることはできますか。」

「もちろんです。」

「必ずお返しいたします。」

その後、志乃は店に戻り、神近と仁朗はかやの家へと向かった。


 うどん屋は今日も盛況している。嘉門が隣人と一緒に店に訪れた。最近は近所の人や娘さんの見守りもあり、食事も十分摂って畑仕事も再開できているそうだ。以前倒れた後、何回か志乃は神近と訪問したが、もうその必要もなくなった。

「しっかり食べていってね。」

嘉門にうどんを届けた。忙しいためそれ以上話すことはできなかったが、嘉門が笑顔で小さく手を振る。志乃はあの日の嘉門の姿をふっと思い出した。本当に命が救えてよかった。心より思う。昼過ぎて、客足がまばらになってきた頃、仁朗が現れた。

「志乃、生姜ない?」

「あるけどどうしたの。」

「とりあえずくれ。先生に頼まれている。」

仁朗は焦っているようだ。

「あと、水と砂糖と塩。」

志乃は母をちらっと見る。

「行っといで。」

あっさり許可が出た。

竹の水筒に井戸水を汲み、指定の物をそろえる。生姜は縁側にいくつかあったはずだ。

「急いで。」

仁朗の指示に従い、籠に入れた。


 走って向かった先は、かやの兄一家が住む家だ。そこにはかやの兄、兄嫁、子どもであろう男のが二人、そして神近、かや達がいた。どうやら、かやの兄一家みな、強い吐き気や下痢があるようだ。4人で昼食を摂ってしばらくした所で、全員が強い症状に襲われたとの事。かやの母がたまたま訪れたところ、この状況を目の当たりにして神近に助けを求めた。神近は仁朗と志乃が持ってきたものを抱えて

「薬を作ります。志乃さん、来て。仁朗さん、かやさんはこっちをお願いしますよ。」

厨房へ向かった。あらかじめ乾燥させた刻み生姜と、他に小さく刻まれた白い粒を入れる。

「吹きこぼれないように火加減の調整をお願いします。あと、生姜を擦っておいて下さい。」

そう言い残して神近はさっと戻っていった。兄、兄嫁、長男とみんな顔色は悪く、腹痛を訴えている。長男と次男は吐き気も強いようで、時折吐いているが、もう中身はなく出るものは透明な液体のみだ。次男の文吉は横たわって、ぐったりしている。4人の中では見るからに一番重症だ。仁朗が文吉の顔を横に向けて、背中をさすっている。神近は文吉の手の肌を優しくつまんだ。

「水がかなり不足している。」

神近はつぶやき、塩と砂糖を入れた水を文吉の口に少量含ませるが、すぐ吐いてしまう。顔色が徐々に悪くなっていく。神近の指示で仁朗とかや、かやの母が他の家族にも味がついた水をゆっくり摂らせる。神近は厨房に戻って言った。

「そろそろいいですよ。とりあえず一つください。あと生姜も。」

志乃は煮だした薬と擦った生姜を神近に手渡した。神近は、仁朗に薬を冷ますよう指示する。神近はある程度冷めた薬に生姜を少量入れ、少しずつ文吉の口に含ませた。周りの視線が文吉に集まる。兄嫁、かやは文吉が危ない状況にあることを悟り、目に涙を浮かばせている。一口飲んだが吐かない。時間をおいて、また神近は文吉に薬を一口含ませた。こうやって少しずつ、地道に薬を飲ませていく。他の家族は水分を採っているうちに、動ける程度には回復してきた。神近のいった分量でまた味付きの水を志乃が作る。この作業を2回行った頃には文吉は薬を飲み切ることができた。まだ、体を横たえているが目を開き、神近をじっと見つめている。

「母ちゃん。」

母に手を伸ばした。ここで大丈夫と確信した神近は、文吉を支える役目を母と交替した。


 きれいな水を汲みに行っていたかやの父が戻ってきた頃には、文吉は体が起こせるまでになっていた。横の部屋でかやの父が怒鳴る声が聞こえてきた。かやの兄も漁師だ。今朝とってきた魚介で売れ残った貝を汁にして昼に食べたようだ。

「この時期の貝には気をつけろって、いつも言っているだろうが。」

いたしかないところもあるかとは思うが、2歳と幼い文吉の命がかかっていたのは間違いない。

「貝毒を完全に防ぐのは難しいです。この類の貝毒で大人が命取りになることはあまりないですが、小さなお子さんには危険ですね。」

神近はほっとしてつぶやいた。


 帰り道、志乃は神近に尋ねた。

「生姜も薬になるのですか。」

「生姜と半夏には吐き気を止める作用があります。あと茯苓も買っておいて良かったです。いずれもあの本にも載っていますよ。」

志乃は目を丸くする。そんな本が自宅にあったのだ。仁朗はそれを聞いて目を輝かせる。

「また久宝屋に行かないといけませんね!」

事情が分からない志乃の耳元で、神近がある程度の状況を伝えた。お気に入りの娘さんに会いたいという下心、というのは志乃に伝わった。

「仁ちゃんはほんと、女の子が好きだね。」

「何、言ってんの。勉強のためだよ。神様、変な伝え方しないでくださいよ。」

3人で笑いながらの帰り道だ。志乃はこの時間が結構好きだ。神近がこの町にずっといてくれたらいい。明日、石尾神社へお参りに行こうと決めた。



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