祭
青紫、白、薄紫――桔梗が今年も夏の庭を染めていた。
風に揺れるその姿は、どの花よりも凛として、どの空よりも深かった。
志乃は紫蘇の香りに包まれながら、汗をぬぐう。
真っ青な空。蝉の声。陽炎の揺れる畑。
――この季節が、好きだ。
それでも胸の奥に、どこかしら言葉にできないざわめきがあった。
「志乃、ちょっとおいで。」
母の声に、手ぬぐいで汗を拭いながら店に戻ると、母と紀一が茶を飲んでいた。
日焼けした紀一は、以前よりも精悍に見える。目の奥に、大人びた静けさが宿っていた。
「仕事は忙しい?」
「忙しいけど、もう慣れた。おばさんも元気そうで安心したよ。」
母が笑いながら厨房へ引っ込むと、二人きりになった。
紀一はたもとから何かを取り出し、志乃の手の平にそっと置いた。
――つげの櫛。
表には桔梗、裏には山茶花の絵。光に透かすと、花が呼吸するように輝く。
「祭りの夜、これをつけてきて。」
志乃は思わず目を見開いた。
「こんな素敵なもの……もらってもいいの?」
「いいんだ。志乃に似合うと思って。」
「きいっちゃんと仁ちゃん、今年も山車を引くんだね。見に行くよ。」
「おう。」
そして、紀一はいつものように頭を軽く撫でる。だが、その手の平には、かつてよりも力があった。
――その瞬間、胸の奥で、何かがゆっくりと脈打った。
昼過ぎに佳乃と伊作が訪ねてきた。
商いがあるため、伊作が訪ねてくることは珍しい。
「志乃ちゃん、今日はお祭りに行くの?」
「行く予定です。伊作さん、ここのお祭りは初めてですか。」
「自分の地域の祭りは春に毎年参加しているけど、こっちは初めてだ。佳乃が誘ってくれたから、思い切って店を母さんたちに任せてきたよ。」
朗らかに笑う伊作は、また少しやせたようだ。お腹周りがすっきりして見える。
「姉ちゃん、体調はどう?」
「毎日よく眠れて、疲れもあまりないし調子いいよ。」
一方やせていた姉は、顔色もよく少し肉がついたようだ。夫婦睦まじいのはかわりない。
伊作が少し間をおいて、
「それで誰と行くの?」
本題はこれ、とでも言わんばかりのまっすぐの瞳で見つめられる。口元は興味津々といわんばかりだ。
志乃が答えられずにいると
「お母さんと行くんじゃないかな。」
佳乃が代わりに答えた。
志乃はたもとから少しはみ出ていた櫛を思わず奥に押し込む。
こういう質問は昔から苦手だ。相手の意図を考えるばかり、上手く返せない。
「そっかぁ。じゃあみんなで行こう。」
三人で笑いあった。にぎやかな祭りになりそうである。
夕刻。
いとこのかおるは一歳になる娘の手を引いて訪ねてきた。
かおるは志乃の髪を器用に束ね、つげ櫛を刺した。
お産の後、しばらくふさぎ込んでいた彼女だったが、最近ようやくいつも通りの元気さを取り戻していた。
萌黄色の浴衣をまとった志乃は、かおるに紅を引かれて鏡を見つめる。
「とったら駄目だからね。」
釘を刺され、志乃は小さく笑う。
紅がわずかに熱を帯びて、心まで落ち着かない。
昔から佳乃とかおるには逆らえない志乃である。
「はーい。」
志乃は紅をぬぐい取るのを諦めた。
祭りの灯がともる頃合いになり、連れ立って村に出た。
神社の周りには山車の列、太鼓の響き、提灯の光の海。
掛け声が夜空を震わせ、人々の熱気が風となって流れていく。
仁朗の姉、幸の姿が見えた。初めて浩太と幹太が参加しているらしい。
父とともに山車を曳くかわいらしい二人の姿を皆で応援する。
志乃がおや、と思いもう一度視線を戻した先に、神近がいるではないか。
仁朗の横で山車を曳いている。
力仕事をする印象のない神近を、何となく心配なため目で追う。
ぎこちないが何とかうまくやれているようだ。
ふとある思いがよぎった。
――紀一は今の自分の姿を見たら、どう思うだろうか。
そんな思いが胸をよぎったとき、山車の音頭を取る紀一の姿が見えた。
陽に焼けた腕、額の汗。
志乃の目が吸い寄せられる。
山車はゆっくりと目の前を通り過ぎ、神社の参道へと消えて行った。
家族といったん別れた後、志乃は紀一の姿を探していた。
そこに、後ろから聞きなれた声が。
「着けてきたな。似合ってる。」
紀一が人混みをかき分け、志乃の手を引いた。
その手は熱く、しっかりとした重みがあった。
「話したいことがある。」
声が、かすかに震えていた。
参道の喧騒を離れ、細い脇道に差しかかる。
灯籠の光が、二人の影を長く伸ばす。
――その瞬間だった。
「誰か、倒れたぞ!」という叫び。
群衆のざわめきが波のように広がる。
声の方に目を向けると膝をついている男がいた。
よく見ると、倒れているのは嘉門――店の常連だ。
最近妻が亡くなり、ふさぎ込んでいてお酒ばかり飲んでいると聞いていた。
店にもあまり来なくなっていて心配していたところだ。
すると、どこからか神近と紀一の父が走ってくる。
紀一が何か言いかけたが、志乃は制するように紀一の両手をぐっと握った。
「ごめん。ちょっと言ってくる。」
神近の方へ駆け出した。
志乃が近づくと嘉門の顔は青白く、汗が滲み、腕が震えている。
嘉門の横で、娘が泣きそうな顔で震えていた。
「お父ちゃん……!」
嘉門は意識がもうろうとしている。呼びかけに返事はない。
神近は嘉門の目を見た後、脈をとる。
……卒中?
志乃は神近と倒れた人を診た時、そうだったのだ。
「志乃さん、いいところに。飴と水、持ってきて下さい!」
飴と水……?薬ではなくて……?
志乃は近くの出店に走っていく。
志乃は息を切らせて、神近の元へ向かった。
嘉門の震えは体全体に広がっている。
良くない状況だ。
それだけは志乃にも分かる。
神近は受け取った飴を嘉門の口に含ませ、脈をとる。
脈はまだ幸いしっかりしている。呼吸は荒いままだ。
参道に横たわる嘉門の体は小刻みに震えて続ける。
これで良かったのか……
嘉門の姿を見て志乃の不安はつのる。
でも……神近先生がここにいる。
志乃の気持ちが揺れ動く中、嘉門のまぶたがゆっくり開いた。
神近が小さく息を吐いた。
嘉門の息が少しずつ穏やかになってきた。
そして、途切れ途切れではあるが話しかけてきた。
「……お前……志乃ちゃんか……?」
「そうです。もう大丈夫です。」
志乃は手ぬぐいで額の汗を拭い、震える手を包み込んだ。
やがて、嘉門の震えが落ち着き、娘が泣きながら抱きしめる。
「お父ちゃん!」
「体の糖が足りなかったようです。」
神近の言葉に、周囲から安堵の息が漏れた。
――命の灯が、再びともる瞬間。
志乃の胸にも、静かな熱が広がっていた。
嘉門が社務所へ運ばれ、騒ぎが落ち着いたころ、志乃はようやく我に返った。
紀一の姿を探す。けれど、もうどこにもいなかった。
夜の人波がうねり、提灯の光が遠くかすんでいく。
胸の奥に、風が通り抜けるような空洞が残った。
――何かを、大切なものを失った気がした。
帰り道、志乃は櫛にそっと手をやった。
まだ髪にしっかりと差さっている。
その小さな感触だけが、今の自分を現実につなぎとめていた。
翌朝、紀一は和総へ戻ったと聞いた。
志乃はたんすを開け、櫛を丁寧にしまう。
桔梗の面を下にして、山茶花の絵を上に向ける。
――冬が来たら、この面を身につけよう。
夏の桔梗、冬の山茶花。
どちらの花にも、触れられないまま祭りの夜は過ぎていった。
★低血糖★




