薬
仁朗は切り株に腰を下ろし、ぼんやりと地面を見つめていた。
眉間にしわを寄せ、唇をへの字に曲げたその顔には、怒りとも悲しみともつかぬ影が宿っている。
普段なら、薬研を回すか、筆を走らせるか、木を削るか、絶えず何かに動いている彼が、今はまるで時間が止まったように動かない。
「……なんでだよう。」
その一言は、木々の間に吸い込まれて消えた。
蝉の声だけが容赦なく響く。
真夏の陽射しが葉を透かして落ち、光の粒が仁朗の膝に揺れている。
神近は少し離れたところで、静かに朴の木を探していた。
だが、彼の視線は仁朗の背中に、時おりやさしく向けられる。
今朝の彼の沈んだ様子を見て、神近は山行きを延期しようとした。
しかし仁朗が「行く」と言い張ったのだ。
案の定、こうして来ても、足取りは重く、目の焦点も定まらない。
昨日、夏祭りに「かえ」を誘ったら、彼女は他の男と行くと言った。
それだけのこと。
だが仁朗にとって、それは恋人関係の終わりを意味していた。
あの柔らかく笑う瞳、並んで歩いた夕暮れ道、すべてが突然、崩れ去ったのだ。
のどの奥がつかえて息苦しい。
暑いのか寒いのかもわからない。
蝉の声が遠くで鳴いている。世界が灰色にかすんで見える。
「先生……あれ。」
ようやく顔を上げ、指差した。
そこには、大きな葉を風に揺らす朴の木が立っている。
神近は軽く頷き、ゆっくり近づいた。淡く緑の香りがする。
鳥の卵のように滑らかな葉を手に取りながら、神近は小声で言った。
「きれいな葉ですね。……ありがとう、仁朗さん。」
続けて、神近は樹皮も手際良く採っていく。
「神様。」
仁朗は低くつぶやいた。
「俺は……女心がわからん。」
「私は、誰の心もちゃんとはわかりませんよ。」
「それじゃ励ましになりません……この、のどが詰まるような、気持ち悪い感じは何ですか。」
「気が滞っているのです……これが、効くかもしれません。」
神近は、先ほど剥いだばかりの朴の木の樹皮を示した。
その白い指先が木漏れ日に光る。
そしてふいに仁朗の背を軽く押した。
「無心になるのも薬です。――走りましょう。」
「はあ!?」
神近はもう籠を背負い、風のように走り出していた。
驚いた仁朗も、慌てて後を追う。
「神様、速すぎますって!」
汗が流れる。息が切れる。
けれど、走るほどに、胸の中の濁った空気が少しずつ抜けていくようだった。
木々の間を抜ける風が頬を撫で、空気が肺の奥まで流れ込む。
やがて開けた場所に出ると、真っ青な空が広がっていた。
ふいに神近がしゃがみ込み、土を掘り返す。
「すっきりしましたか。」
「すっきりどころか、汗でべたべたですよ。でも……嵐だった心が、まぁ曇りくらいにはなりました。」
「それは良い。では、これを見てください。」
掘り出されたのは小さな根だった。
「カラスビシャクの根、半夏です。土に触れるのも、心を落ち着かせる薬になりますよ。」
「……こんなのじゃ、変わりませんよ。」
口を尖らせそう言いつつも、仁朗は素直に手を伸ばして一緒に掘った。
指先に土の感触が伝わる。温かい。
沈んでいた気持ちが、ほんの少しずつ地面に溶けていくようだった。
「よし、十分です。では――もう一走り。」
「もう結構です!」
「では、歩いて隣町まで行きましょう。もう少しだけ、お付き合いを。」
日が傾くころ、「久宝屋」という立派な薬屋に着いた。
神近がのれんをくぐると、すぐに店の者が出てきた。
「神近先生、いらっしゃいませ。」
整然と並ぶ引き出しの群れ、香木と薬草の混ざり合った香り。
仁朗は息をのんだ。
ここが、「薬」という知恵と記憶の集積であることを感じた。
ほどなく、店主の太兵衛が現れた。かっぷくのいい、穏やかな目をした男だ。
「神近先生、一月も顔を見せられないので心配していました。」
談笑ののち、神近が籠から朴の木の樹皮を取り出すと、太兵衛は目を細めた。
「これは、いい厚朴になりますな。……先生が?」
「仁朗さんが見つけてくれました。」
その時、奥から娘が現れた。
小柄で、澄んだ瞳をした少女。
お盆を持つ手が少し震えている。
彼女は神近にお茶を差し出すと、顔を赤らめて下を向き、逃げるように立ち去った。
「娘のえつです。十五になります。」
太兵衛が微笑む。
「愛嬌はありませんが、見目だけは母親譲りでして。」
仁朗はしばし言葉を失っていた。
去り際のえつの後ろ姿を、まるで光を追うように見送っている。
それを横目に見て、神近は小さくため息をつく。
「やれやれ。」
帰り道、神近が白い塊を取り出した。
「茯苓です。仁朗さんのために薬を作ろうかと思いましたが――もういらなさそうですね。」
仁朗は満面の笑みで答える。
「えつさんのところ……久宝屋、また行きましょう!」
神近は爽やかな笑みに加えて、意地悪げに口の端を上げて言った。
「しばらく用はありませんよ。」
「全力でお手伝いします! 先生の用を作ってみせます!」
「頼もしいですね。」
二人は笑いながら、団子を分け合った。
甘い香りが風に乗る。
夏の夕暮れ、仁朗の心にようやく光が戻りつつあった。
☆半夏厚朴湯☆




