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さんさ 志乃の医薬譚〜恋せよ乙女 医の道をゆけ〜  作者: 朝久野智秋
足楢編

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6/35

 仁朗は切り株に腰を下ろし、ぼんやりと地面を見つめていた。

眉間にしわを寄せ、唇をへの字に曲げたその顔には、怒りとも悲しみともつかぬ影が宿っている。

普段なら、薬研やげんを回すか、筆を走らせるか、木を削るか、絶えず何かに動いている彼が、今はまるで時間が止まったように動かない。

「……なんでだよう。」

その一言は、木々の間に吸い込まれて消えた。

蝉の声だけが容赦なく響く。

真夏の陽射しが葉を透かして落ち、光の粒が仁朗の膝に揺れている。

神近は少し離れたところで、静かに(ほう)の木を探していた。

だが、彼の視線は仁朗の背中に、時おりやさしく向けられる。

今朝の彼の沈んだ様子を見て、神近は山行きを延期しようとした。

しかし仁朗が「行く」と言い張ったのだ。

案の定、こうして来ても、足取りは重く、目の焦点も定まらない。


 昨日、夏祭りに「かえ」を誘ったら、彼女は他の男と行くと言った。

それだけのこと。

だが仁朗にとって、それは恋人関係の終わりを意味していた。

あの柔らかく笑う瞳、並んで歩いた夕暮れ道、すべてが突然、崩れ去ったのだ。

 

 のどの奥がつかえて息苦しい。

暑いのか寒いのかもわからない。

蝉の声が遠くで鳴いている。世界が灰色にかすんで見える。

「先生……あれ。」

ようやく顔を上げ、指差した。

そこには、大きな葉を風に揺らす朴の木が立っている。

神近は軽く頷き、ゆっくり近づいた。淡く緑の香りがする。

鳥の卵のように滑らかな葉を手に取りながら、神近は小声で言った。

「きれいな葉ですね。……ありがとう、仁朗さん。」

続けて、神近は樹皮も手際良く採っていく。

「神様。」

仁朗は低くつぶやいた。

「俺は……女心がわからん。」

「私は、誰の心もちゃんとはわかりませんよ。」

「それじゃ励ましになりません……この、のどが詰まるような、気持ち悪い感じは何ですか。」

「気が滞っているのです……これが、効くかもしれません。」

神近は、先ほど剥いだばかりの朴の木の樹皮を示した。

その白い指先が木漏れ日に光る。

そしてふいに仁朗の背を軽く押した。

「無心になるのも薬です。――走りましょう。」

「はあ!?」

神近はもう籠を背負い、風のように走り出していた。

驚いた仁朗も、慌てて後を追う。

「神様、速すぎますって!」

汗が流れる。息が切れる。

けれど、走るほどに、胸の中の濁った空気が少しずつ抜けていくようだった。

木々の間を抜ける風が頬を撫で、空気が肺の奥まで流れ込む。

やがて開けた場所に出ると、真っ青な空が広がっていた。

ふいに神近がしゃがみ込み、土を掘り返す。

「すっきりしましたか。」

「すっきりどころか、汗でべたべたですよ。でも……嵐だった心が、まぁ曇りくらいにはなりました。」

「それは良い。では、これを見てください。」

掘り出されたのは小さな根だった。

「カラスビシャクの根、半夏はんげです。土に触れるのも、心を落ち着かせる薬になりますよ。」

「……こんなのじゃ、変わりませんよ。」

口を尖らせそう言いつつも、仁朗は素直に手を伸ばして一緒に掘った。

指先に土の感触が伝わる。温かい。

沈んでいた気持ちが、ほんの少しずつ地面に溶けていくようだった。

「よし、十分です。では――もう一走り。」

「もう結構です!」

「では、歩いて隣町まで行きましょう。もう少しだけ、お付き合いを。」

 

 日が傾くころ、「久宝屋(きゅうほうや)」という立派な薬屋に着いた。

神近がのれんをくぐると、すぐに店の者が出てきた。

「神近先生、いらっしゃいませ。」

整然と並ぶ引き出しの群れ、香木と薬草の混ざり合った香り。

仁朗は息をのんだ。

ここが、「薬」という知恵と記憶の集積であることを感じた。

ほどなく、店主の太兵衛たへえが現れた。かっぷくのいい、穏やかな目をした男だ。

「神近先生、一月も顔を見せられないので心配していました。」

談笑ののち、神近が籠から朴の木の樹皮を取り出すと、太兵衛は目を細めた。

「これは、いい厚朴こうぼくになりますな。……先生が?」

「仁朗さんが見つけてくれました。」

その時、奥から娘が現れた。

小柄で、澄んだ瞳をした少女。

お盆を持つ手が少し震えている。

彼女は神近にお茶を差し出すと、顔を赤らめて下を向き、逃げるように立ち去った。

「娘のえつです。十五になります。」

太兵衛が微笑む。

「愛嬌はありませんが、見目だけは母親譲りでして。」

仁朗はしばし言葉を失っていた。

去り際のえつの後ろ姿を、まるで光を追うように見送っている。

それを横目に見て、神近は小さくため息をつく。

「やれやれ。」


 帰り道、神近が白い塊を取り出した。

茯苓ぶくりょうです。仁朗さんのために薬を作ろうかと思いましたが――もういらなさそうですね。」

仁朗は満面の笑みで答える。

「えつさんのところ……久宝屋、また行きましょう!」

神近は爽やかな笑みに加えて、意地悪げに口の端を上げて言った。

「しばらく用はありませんよ。」

「全力でお手伝いします! 先生の用を作ってみせます!」

「頼もしいですね。」

二人は笑いながら、団子を分け合った。

甘い香りが風に乗る。

夏の夕暮れ、仁朗の心にようやく光が戻りつつあった。


☆半夏厚朴湯☆


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