34.蕾
礼介の父、善悦はここ最近ほとんど屋敷に戻らない。
城の中で誰かが病に伏しているのか、それとも赤もがさへの備えのためなのか――志乃には分からない。
礼介の兄の泰介も、ときおり城へ呼ばれていく。
相変わらず口数は少なく、表情も読み取りづらい。
それでも不思議なことに、善悦の弟子たちは自然と泰介の周りに集まり、いつの間にか彼がまとめ役のようになっている。
志乃はその姿を見ていると、ふと胸の奥で思う。
京極家の未来を背負う覚悟をなされたのかもしれない、と。
日が長くなったとはいえ、もう夕闇が忍び寄っていた。
善悦の弟子たちが帰り屋敷が静けさを取り戻す頃、志乃は薬部屋で薬棚を整えていた。
そのとき、戸口に人影が現れる。
礼介だった。
帰宅したばかりなのだろう。腕には書物を抱えている。
「お帰りなさいませ」
「遅くまでご苦労だな」
礼介はそう言って微笑み、本棚から何冊か書物を抜き取った。
「赤もがさについてお調べですか? こちらの書物にも……」
志乃は棚から本を取り出し、差し出す。
だが礼介が受け取ったのは――本ではなかった。
志乃の手だった。
不意のことに、志乃は顔が熱くなる。
もう慣れてもよさそうなものだ。それでも、触れられるたび胸がどきりとする。
「夕餉を……すぐお持ちしますね」
そう言って手を引こうとすると、礼介は少し不満そうにぎゅっと力を込めた。
そのまま、しばらく離さない。
志乃の胸が静かに波立つ。
この時間を、もっと大切にしたい。
けれど――もう時間がない。
今日、言うしかない。
そう心に決めて、志乃はそそくさと薬部屋を出ていった。
*
夕餉の膳を、女中の宇女と二人で運ぶ。
一つは礼介のもの。もう一つは、志乃のもの。
毎日の事だが、良いのかと逡巡してしまう。
下女同然の志乃が、礼介と食事を共にしているのだから。
前を歩いていた宇女が、ふと振り返った。
礼介の乳母。早矢とともに、母のように礼介を育ててきた人だ。
「寂しくなるね。私も……礼介様も」
目尻の皺がやさしく寄る。
志乃はその温かさに、そっと頭を垂れた。
部屋へ入ると、礼介は文机に向かっていた。
先ほどの書物を読んでいるらしい。
気がつけば宇女の姿はもうない。二人きりだった。
会話を交わしながら、夕餉はゆっくり進む。
志乃は今日の往診の話をした。
「河野先生の往診について行ったのですが……やはり女性は苦手のようで」
「そうだろうな」
「でも、赤ちゃんには笑いかけていたんです」
「本当か?」
礼介は思わず目を丸くする。
そんな他愛ない話をしながら、食事は進んだ。
ふと礼介が言う。
「春田神宮の近くに、新しくうなぎ屋ができたらしい」
そして少し笑って続ける。
「明日、行こうか」
志乃は思わず、「ぜひ――」と言いかけて、言葉を飲み込んだ。
胸が締めつけられる。
これから自分が言うと決意した内容と明らかに矛盾する。
そして――
礼介の幸せを思うなら、やはり言わなければならない。
「礼介様……」
志乃は姿勢を正した。礼介が箸を止める。
「茶谷家の娘様、とても気立ての良い方と聞きました」
礼介の眉がわずかに寄る。
以前、礼介は茶谷宗敬の長女との縁談を断っている。
長女はその後、別の家から養子を迎えた。
ところが最近、宗敬の次女から礼介へ文や贈り物が届くようになった。
そして一週間前。次女は母とともに、京極家を訪れた。
それはもう、屋敷中が騒然になるほどの出来事だった。
志乃も遠くから茶谷家の姫様の姿を見た。
すらりとした体つき。茜染めの着物がよく似合う女性だった。
自信と品格をまとっている。
そして何より――
礼介の隣に立つと、実に「似合う」のだ。
志乃は視線を落とした。
「志乃……何が言いたい?」
礼介の声が低く響く。
私より、あの人の方がいいに違いない。
礼介にとっても。京極家にとっても。
志乃には……無いものが多すぎる。
名声も。家柄も。財も。
そして、父も。
「俺の気持ちはどうなる?」
礼介が立ち上がり志乃の前へ来て、膝をつく。
志乃は座ったまま後ろに下がる。背が壁に触れた。
礼介が両の手をどん、と壁につく。志乃の顔は礼介の両腕の間だ。
吐息がかかるほど互いの顔が近いが、志乃は顔をうつむいたままでいる。
礼介の瞳を見たら、決意が揺らいでしまう気がした。
礼介は深く息を吸い、そして小さくため息をついた。
次の瞬間。
志乃の体は礼介の腕の中にあった。
耳元で静かな声が落ちる。
「もう、父には言ってあるぞ」
志乃は息を呑む。
礼介の顔は見えない。
だが声は柔らかく、どこか照れているようでもあった。
夜は静まり返っている。
襖の外から物音は聞こえない。
聞こえるのは、礼介の吐息だけ。
父に……何を?
志乃の鼓動が速くなる。
「志乃はどうしたい? 気持ちが変わったか?」
礼介がそっと頬を寄せてくる。
「礼介様には本当に感謝しています」
声が震える。
「医者への道を繋いでくださった。そして、身に余るほどの優しさをかけていただき……幸せでした」
礼介の指が、優しく髪を撫でる。
「私は……礼介様のそばにいたい」
志乃は小さく続けた。
「でも、そんな風に思う自分が弱いようにも感じるのです。だから……神近先生に医者として認めていただけたら、その時は礼介様のそばで働かせて下さい」
志乃は目を伏せたまま言う。
「何より礼介様に幸せになってほしいのです。私には家柄も何もありません。ですから……」
志乃は礼介の目をちらりと見た。
「そばにいられるなら、男女の仲でなくても」
「何を言っている」
礼介が言葉を遮った。
「俺は志乃とずっと一緒にいるつもりだ」
そして、きっぱりと言った。
「もちろん、愛し合う仲で……」
礼介の唇が、力強く重なる。
やがて静かに離れる。
「父には言ってある。志乃に決めたと。そして、今後縁談は受けないと」
志乃は息を呑む。
「すぐ俺も大都へ行く」
礼介の声は静かだった。
「俺の願いは分かるな?」
志乃の目頭が熱くなる。
そしてためらいながらも、そっと礼介の背に腕を回した。
「今思えば、一目ぼれだったな」
礼介が少し笑う。
「あの頃は、どうやって志乃に近づくかばかり考えていた。自分で言うのもなんだが……最初は下心、今はすっかり真心だ」
「恋」が、「愛」に変わった。
礼介の腕の中で、志乃の胸は温かさで満ちていく。
けれど、明後日にはここを去る。
礼介とも離れる。
胸の奥がずきりと痛んだ。
その痛みを隠すように、志乃は礼介の胸へ顔を埋める。
燭台の油が尽きたのか、部屋を闇が包む。
だが障子の向こうから月の光が差し込んできた。
そういえば、今夜は満月だった。
月明かりに照らされた二人の影は、まるで一つの影のように静かに重なっていた。
*
翌日。
志乃は和総で過ごす最後の一日に暇をもらった。
まず向かったのは、早矢の屋敷だった。
以前、早矢が仕立て直してくれた着物を身につけている。
袖を通すたびに、その人の優しさを思い出す一着だ。
挨拶を終えると、志乃は次の場所へ足を向けた。
仁朗のもとだ。
医頼館の近くにある茶屋で、昼の休憩に合わせて待ち合わせている。
向かい合って腰を下ろすと仁朗は湯呑みを置き、珍しく真面目な顔で言った。
「神様のこと、頼むぞ」
志乃は静かに頷いた。
神近先生ならどこへ行ってもやっていける。
むしろ心配なのは自分の方だ。足手まといにならないだろうか。
「泰斗さん、番頭になったぞ。志乃に会いたがってた」
「そっかぁ。よかった!」
志乃の顔がぱっと明るくなる。
泰斗は志乃を何かとかばってくれていたため、出世に響くのではないかと密かに心配していたのだ。
本当ならすぐにでも会いに行きたい。
けれど大康堂の敷居は、まだ自分には少し高かった。
そのとき、がらりと勢いよく襖が開いた。
息を切らして入ってきたのは朔太郎だった。
だが、いつもの飄々とした笑顔は影を潜めている。
「志乃……知らなかったぞ」
朔太郎の熱い視線を感じ、志乃の胸はチクリと痛んだ。
大都行きのことだろう。
朔太郎の後ろで、仁朗が肩をすくめた。どうやら呼んだのはこの男らしい。
余計なことを……
志乃は軽く仁朗を睨んだ。
しかしすぐに表情を緩め、朔太郎へ向き直る。
「以前ここに来た時は、朔太郎様のおかげで大事にならずに済みました。本当にありがとうございました」
医頼館でかどわかされそうになった時、手を引いてくれたのは朔太郎だった。
志乃は三つ指をつき、深く頭を下げた。
朔太郎の顔色は良くない。そして、対照的に斜め後ろでは仁朗がにやにやしている。
いつもは口を挟むくせに、こういう時に限って黙って見物している。
志乃は内心で舌打ちしながら、場の空気を和らげようと話題を変えた。
「朔太郎様は大都へ行かれたことがありますか?」
志乃は大都の名所や名物の話を聞きながら、しばらく三人での会話が続いた。
やがて店の前で、仁朗と朔太郎が医頼館へ戻るのを見送る。
一度背を向けた朔太郎が、ふいに振り返った。
「文を書く!」
それだけ言うと走り去ってしまう。
残された仁朗が目を細めて言った。
「珍しくモテ期、来てるじゃん」
「はぁ?」
仁朗は首を振りながら続けた。
「いや、ないわ~」
志乃は恋愛対象じゃない、という意味だろう。
「こっちこそ!!」
互いに睨み合う。
だが次の瞬間、二人は同時に吹き出した。
神近に志乃だけがついて行くこと。
仁朗にもきっと複雑な思いはあったはずだ。
それでも、竹を割ったような性格のこの男は最後まで友でいてくれる。
仁朗は幼馴染の一人だった仁朗は、ここ2年ですっかり親友となった。
*
何度、この庵を訪れただろう。
靜日庵。
訪れるたびに志乃の人生が少しずつ動き出す。そんな不思議な力を持つ場所だ。
礼介の茶の湯の師、綜白。
この人の点てる茶と、この空間がなければ礼介とここで語り合うこともなかっただろう。
神近を交え、三人で未来を語り合うことも。
そのどれか一つでも欠けていたら、今の自分はきっと存在していない。
にじり口から茶室に入ると、礼介の隣で綜白が穏やかな笑みを浮かべていた。
笑うと目尻に刻まれる深い皺。白く美しい髭。
「綜白先生、お世話になりました。明日、出立いたします」
志乃は思う。
異国の仙人とは、きっとこんな人物ではないか、と。
そこへ神近も姿を現した。
竹の花入れには、大きな白い花が堂々と活けられている。
「コブシですね。きれいです」
神近が言う。
綜白は穏やかに頷いた。
「春の訪れです。季節だけでなく、皆さんの生活も始まりの春ですね」
志乃の隣に座った神近が、そっとささやく。
「コブシの蕾、辛夷の効能は?」
志乃は待っていましたとばかりに答えた。
「鼻の通りをよくして……」
「相変わらずですね」
綜白と礼介が同時に笑う。
「すみません。こんな素敵な場所で医学の話をしてしまって。志乃さんを見ると、つい……」
神近は首の後ろに手を当て、少し照れたように頭を下げた。
「それにしても、蕾も薬になるのですね。そうは言っても、花開く前に摘まれるのも切ない」
綜白のつぶやきに志乃ははっとする。
蕾を「開く」花の力が、穴を「開く」作用に通じる。つまり、鼻づまりなどを改善させるという事だ。
突然、綜白の白い髭を蓄えた優しい笑顔が「神農」に見えてくる。
色んな草木を食み、自ら効能を調べたという伝説の神だ。
志乃は首を軽く振った。
センチメンタルになっているのか、意識があらぬ方向へ暴走している。
綜白が点てた茶の香りが、静かな茶室に広がる。
やがて話は大都の名所へ移り、桜や紅葉、和歌の話へと続いていった。
楽しい時間は、いつもあっという間に過ぎる。
神近が席を立った。
「往診がまだ残っています。志乃さん、では明日」
志乃は深く頭を下げた。
そうだ。もう、明日なのだ。
*
春田神宮の参道を、礼介と歩く。
西日がまぶしく、玉砂利が静かに音を立てる。
志乃は礼介の数歩後ろを歩いていた。
「詣でていくか」
そう言って、礼介は志乃の手を取った。
もう、抵抗する理由はない。志乃は自然にその温もりを受け入れていた。
進んだ先には、しめ縄の巻かれた巨大な楠。
志乃が広げた両腕でも足りないほどの幹の太さだ。
二人はしばらく、黙ってその木を見上げていた。
志乃が礼介を見やると、目をつぶり何か祈っているように見えた。
その後、授与所へ向かう。
礼介が買ったお守りを志乃に渡した。
白鳥の刺繍が入った小さな守り袋。礼介の分もある。
鳥のように飛べたなら。
和総へすぐ帰ってこられるのに。
そんな弱気を振り払うように、志乃は礼介の手を強く握り返した。
「昨日の約束、果たすぞ」
約束した覚えはないが……
やがて二人は、春田神宮近くの店でうなぎを頬張っていた。
香ばしく焼けた鰻の香り。温かな湯気。
志乃は笑った。
胸の奥が満ちていく。
*
翌日。
志乃は京極家を後にした。
昨日のうちに、善悦をはじめ京極家の人々すべてに挨拶は済ませた。
礼介には、見送りに来ないよう頼んである。
思い残しがないわけではない。
それでも志乃は、前へ進む。
病が蔓延する大都へ。
振り返りたくなる気持ちをぐっと押し込め、神近の背を追いかけて志乃は歩み始めた。
志乃の修業はこれからも続く。




