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さんさ 志乃の医薬譚〜恋せよ乙女、医の道をゆけ〜  作者: 朝久野智秋
和総編

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34.蕾

礼介の父、善悦はここ最近ほとんど屋敷に戻らない。

城の中で誰かが病に伏しているのか、それとも赤もがさへの備えのためなのか――志乃には分からない。

礼介の兄の泰介も、ときおり城へ呼ばれていく。

相変わらず口数は少なく、表情も読み取りづらい。

それでも不思議なことに、善悦の弟子たちは自然と泰介の周りに集まり、いつの間にか彼がまとめ役のようになっている。

志乃はその姿を見ていると、ふと胸の奥で思う。

京極家の未来を背負う覚悟をなされたのかもしれない、と。

 

日が長くなったとはいえ、もう夕闇が忍び寄っていた。 

善悦の弟子たちが帰り屋敷が静けさを取り戻す頃、志乃は薬部屋で薬棚を整えていた。

そのとき、戸口に人影が現れる。

礼介だった。

帰宅したばかりなのだろう。腕には書物を抱えている。


「お帰りなさいませ」

「遅くまでご苦労だな」

 

礼介はそう言って微笑み、本棚から何冊か書物を抜き取った。


「赤もがさについてお調べですか? こちらの書物にも……」


志乃は棚から本を取り出し、差し出す。

だが礼介が受け取ったのは――本ではなかった。

志乃の手だった。

不意のことに、志乃は顔が熱くなる。

もう慣れてもよさそうなものだ。それでも、触れられるたび胸がどきりとする。


夕餉ゆうげを……すぐお持ちしますね」

 

そう言って手を引こうとすると、礼介は少し不満そうにぎゅっと力を込めた。

そのまま、しばらく離さない。

志乃の胸が静かに波立つ。

この時間を、もっと大切にしたい。

けれど――もう時間がない。

今日、言うしかない。

そう心に決めて、志乃はそそくさと薬部屋を出ていった。



夕餉の膳を、女中の宇女うめと二人で運ぶ。

一つは礼介のもの。もう一つは、志乃のもの。

毎日の事だが、良いのかと逡巡してしまう。

下女同然の志乃が、礼介と食事を共にしているのだから。

 

前を歩いていた宇女が、ふと振り返った。

礼介の乳母。早矢とともに、母のように礼介を育ててきた人だ。


「寂しくなるね。私も……礼介様も」


目尻の皺がやさしく寄る。

志乃はその温かさに、そっと頭を垂れた。

 

部屋へ入ると、礼介は文机に向かっていた。

先ほどの書物を読んでいるらしい。

気がつけば宇女の姿はもうない。二人きりだった。

 

会話を交わしながら、夕餉はゆっくり進む。

志乃は今日の往診の話をした。


「河野先生の往診について行ったのですが……やはり女性は苦手のようで」

「そうだろうな」

「でも、赤ちゃんには笑いかけていたんです」

「本当か?」

 

礼介は思わず目を丸くする。

そんな他愛ない話をしながら、食事は進んだ。

 

ふと礼介が言う。


「春田神宮の近くに、新しくうなぎ屋ができたらしい」

 

そして少し笑って続ける。


「明日、行こうか」


志乃は思わず、「ぜひ――」と言いかけて、言葉を飲み込んだ。

胸が締めつけられる。

これから自分が言うと決意した内容と明らかに矛盾する。

そして――

礼介の幸せを思うなら、やはり言わなければならない。


「礼介様……」


志乃は姿勢を正した。礼介が箸を止める。


「茶谷家の娘様、とても気立ての良い方と聞きました」


礼介の眉がわずかに寄る。

以前、礼介は茶谷宗敬ちゃやそうけいの長女との縁談を断っている。

長女はその後、別の家から養子を迎えた。

ところが最近、宗敬の次女から礼介へ文や贈り物が届くようになった。

そして一週間前。次女は母とともに、京極家を訪れた。

それはもう、屋敷中が騒然になるほどの出来事だった。

志乃も遠くから茶谷家の姫様の姿を見た。

すらりとした体つき。茜染めの着物がよく似合う女性だった。

自信と品格をまとっている。

そして何より――

礼介の隣に立つと、実に「似合う」のだ。

 

志乃は視線を落とした。


「志乃……何が言いたい?」

 

礼介の声が低く響く。

私より、あの人の方がいいに違いない。

礼介にとっても。京極家にとっても。

志乃には……無いものが多すぎる。

名声も。家柄も。財も。

そして、父も。


「俺の気持ちはどうなる?」


礼介が立ち上がり志乃の前へ来て、膝をつく。

志乃は座ったまま後ろに下がる。背が壁に触れた。

礼介が両の手をどん、と壁につく。志乃の顔は礼介の両腕の間だ。

吐息がかかるほど互いの顔が近いが、志乃は顔をうつむいたままでいる。

礼介の瞳を見たら、決意が揺らいでしまう気がした。

礼介は深く息を吸い、そして小さくため息をついた。

次の瞬間。

志乃の体は礼介の腕の中にあった。

耳元で静かな声が落ちる。


「もう、父には言ってあるぞ」


志乃は息を呑む。

礼介の顔は見えない。

だが声は柔らかく、どこか照れているようでもあった。


夜は静まり返っている。

襖の外から物音は聞こえない。

聞こえるのは、礼介の吐息だけ。

父に……何を?

志乃の鼓動が速くなる。


「志乃はどうしたい? 気持ちが変わったか?」


礼介がそっと頬を寄せてくる。


「礼介様には本当に感謝しています」


声が震える。


「医者への道を繋いでくださった。そして、身に余るほどの優しさをかけていただき……幸せでした」

 

礼介の指が、優しく髪を撫でる。


「私は……礼介様のそばにいたい」


志乃は小さく続けた。


「でも、そんな風に思う自分が弱いようにも感じるのです。だから……神近先生に医者として認めていただけたら、その時は礼介様のそばで働かせて下さい」


志乃は目を伏せたまま言う。


「何より礼介様に幸せになってほしいのです。私には家柄も何もありません。ですから……」


志乃は礼介の目をちらりと見た。


「そばにいられるなら、男女の仲でなくても」

「何を言っている」


礼介が言葉を遮った。


「俺は志乃とずっと一緒にいるつもりだ」


そして、きっぱりと言った。


「もちろん、愛し合う仲で……」


礼介の唇が、力強く重なる。

やがて静かに離れる。


「父には言ってある。志乃に決めたと。そして、今後縁談は受けないと」


志乃は息を呑む。


「すぐ俺も大都へ行く」


礼介の声は静かだった。


「俺の願いは分かるな?」


志乃の目頭が熱くなる。

そしてためらいながらも、そっと礼介の背に腕を回した。


「今思えば、一目ぼれだったな」


礼介が少し笑う。


「あの頃は、どうやって志乃に近づくかばかり考えていた。自分で言うのもなんだが……最初は下心、今はすっかり真心だ」


「恋」が、「愛」に変わった。

礼介の腕の中で、志乃の胸は温かさで満ちていく。

けれど、明後日にはここを去る。

礼介とも離れる。

胸の奥がずきりと痛んだ。

その痛みを隠すように、志乃は礼介の胸へ顔を埋める。

燭台の油が尽きたのか、部屋を闇が包む。

だが障子の向こうから月の光が差し込んできた。

そういえば、今夜は満月だった。

月明かりに照らされた二人の影は、まるで一つの影のように静かに重なっていた。



翌日。

志乃は和総で過ごす最後の一日に暇をもらった。

まず向かったのは、早矢さやの屋敷だった。

以前、早矢が仕立て直してくれた着物を身につけている。

袖を通すたびに、その人の優しさを思い出す一着だ。


挨拶を終えると、志乃は次の場所へ足を向けた。

仁朗のもとだ。

医頼館の近くにある茶屋で、昼の休憩に合わせて待ち合わせている。

向かい合って腰を下ろすと仁朗は湯呑みを置き、珍しく真面目な顔で言った。


「神様のこと、頼むぞ」


志乃は静かに頷いた。

神近先生ならどこへ行ってもやっていける。

むしろ心配なのは自分の方だ。足手まといにならないだろうか。


泰斗やすとさん、番頭になったぞ。志乃に会いたがってた」

「そっかぁ。よかった!」


志乃の顔がぱっと明るくなる。

泰斗は志乃を何かとかばってくれていたため、出世に響くのではないかと密かに心配していたのだ。

本当ならすぐにでも会いに行きたい。

けれど大康堂の敷居は、まだ自分には少し高かった。

そのとき、がらりと勢いよく襖が開いた。

息を切らして入ってきたのは朔太郎だった。

だが、いつもの飄々とした笑顔は影を潜めている。


「志乃……知らなかったぞ」


朔太郎の熱い視線を感じ、志乃の胸はチクリと痛んだ。

大都行きのことだろう。

朔太郎の後ろで、仁朗が肩をすくめた。どうやら呼んだのはこの男らしい。

余計なことを……

志乃は軽く仁朗を睨んだ。

しかしすぐに表情を緩め、朔太郎へ向き直る。


「以前ここに来た時は、朔太郎様のおかげで大事にならずに済みました。本当にありがとうございました」


医頼館でかどわかされそうになった時、手を引いてくれたのは朔太郎だった。

志乃は三つ指をつき、深く頭を下げた。

朔太郎の顔色は良くない。そして、対照的に斜め後ろでは仁朗がにやにやしている。

いつもは口を挟むくせに、こういう時に限って黙って見物している。

志乃は内心で舌打ちしながら、場の空気を和らげようと話題を変えた。


「朔太郎様は大都へ行かれたことがありますか?」


志乃は大都の名所や名物の話を聞きながら、しばらく三人での会話が続いた。


やがて店の前で、仁朗と朔太郎が医頼館へ戻るのを見送る。

一度背を向けた朔太郎が、ふいに振り返った。


「文を書く!」


それだけ言うと走り去ってしまう。

残された仁朗が目を細めて言った。


「珍しくモテ期、来てるじゃん」

「はぁ?」

 

仁朗は首を振りながら続けた。


「いや、ないわ~」


志乃は恋愛対象じゃない、という意味だろう。


「こっちこそ!!」


互いに睨み合う。

だが次の瞬間、二人は同時に吹き出した。

神近に志乃だけがついて行くこと。

仁朗にもきっと複雑な思いはあったはずだ。

それでも、竹を割ったような性格のこの男は最後まで友でいてくれる。

仁朗は幼馴染の一人だった仁朗は、ここ2年ですっかり親友となった。



何度、この庵を訪れただろう。

靜日庵せいにちあん

訪れるたびに志乃の人生が少しずつ動き出す。そんな不思議な力を持つ場所だ。

礼介の茶の湯の師、綜白そうはく

この人の点てる茶と、この空間がなければ礼介とここで語り合うこともなかっただろう。

神近を交え、三人で未来を語り合うことも。

そのどれか一つでも欠けていたら、今の自分はきっと存在していない。


にじり口から茶室に入ると、礼介の隣で綜白が穏やかな笑みを浮かべていた。

笑うと目尻に刻まれる深い皺。白く美しいひげ


「綜白先生、お世話になりました。明日、出立いたします」


志乃は思う。

異国の仙人とは、きっとこんな人物ではないか、と。

そこへ神近も姿を現した。

竹の花入れには、大きな白い花が堂々と活けられている。


「コブシですね。きれいです」


神近が言う。

綜白は穏やかに頷いた。


「春の訪れです。季節だけでなく、皆さんの生活も始まりの春ですね」


志乃の隣に座った神近が、そっとささやく。


「コブシのつぼみ辛夷しんいの効能は?」


志乃は待っていましたとばかりに答えた。


「鼻の通りをよくして……」

「相変わらずですね」


綜白と礼介が同時に笑う。


「すみません。こんな素敵な場所で医学の話をしてしまって。志乃さんを見ると、つい……」


神近は首の後ろに手を当て、少し照れたように頭を下げた。


「それにしても、蕾も薬になるのですね。そうは言っても、花開く前に摘まれるのも切ない」


綜白のつぶやきに志乃ははっとする。

蕾を「開く」花の力が、穴を「開く」作用に通じる。つまり、鼻づまりなどを改善させるという事だ。

突然、綜白の白い髭を蓄えた優しい笑顔が「神農しんのう」に見えてくる。

色んな草木をみ、自ら効能を調べたという伝説の神だ。

志乃は首を軽く振った。

センチメンタルになっているのか、意識があらぬ方向へ暴走している。


綜白が点てた茶の香りが、静かな茶室に広がる。

やがて話は大都の名所へ移り、桜や紅葉、和歌の話へと続いていった。

楽しい時間は、いつもあっという間に過ぎる。


神近が席を立った。


「往診がまだ残っています。志乃さん、では明日」


志乃は深く頭を下げた。

そうだ。もう、明日なのだ。



春田神宮の参道を、礼介と歩く。

西日がまぶしく、玉砂利が静かに音を立てる。

志乃は礼介の数歩後ろを歩いていた。


もうでていくか」


そう言って、礼介は志乃の手を取った。

もう、抵抗する理由はない。志乃は自然にその温もりを受け入れていた。

 

進んだ先には、しめ縄の巻かれた巨大なくすのき

志乃が広げた両腕でも足りないほどの幹の太さだ。

二人はしばらく、黙ってその木を見上げていた。

志乃が礼介を見やると、目をつぶり何か祈っているように見えた。

 

その後、授与所へ向かう。

礼介が買ったお守りを志乃に渡した。

白鳥の刺繍が入った小さな守り袋。礼介の分もある。

鳥のように飛べたなら。

和総へすぐ帰ってこられるのに。

そんな弱気を振り払うように、志乃は礼介の手を強く握り返した。


「昨日の約束、果たすぞ」


約束した覚えはないが……

やがて二人は、春田神宮近くの店でうなぎを頬張っていた。

香ばしく焼けた鰻の香り。温かな湯気。

志乃は笑った。

胸の奥が満ちていく。


 

翌日。

志乃は京極家を後にした。

昨日のうちに、善悦をはじめ京極家の人々すべてに挨拶は済ませた。

礼介には、見送りに来ないよう頼んである。

思い残しがないわけではない。

それでも志乃は、前へ進む。

病が蔓延する大都へ。

振り返りたくなる気持ちをぐっと押し込め、神近の背を追いかけて志乃は歩み始めた。

志乃の修業はこれからも続く。


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