33.幻
連翹の黄色い花が、やわらかな光をまとって咲いていた。
その明るい色を目にすると、なぜか決まって奥方様のことを思い出す。
「――あの子たちをお願いね」
そう言って、細い指で自分の手をそっと握ってくれた。
あのときの温もりは、今でも手のひらに残っている気がする。
あの笑顔がもう見られなくなった時、自分はまだ十にも満たない子どもだった。
気がつけば、もうとっくに奥方様が身罷られた歳を越えている。
時の流れとは、不思議なものだ。自分の役割は、あの頃から何ひとつ変わっていない。
ただ体だけが大きくなった。最近では、腹まわりの肉が少し気になる始末だ。
どうしてだろう。
ふいに奥方様の墓へ行こうと思い立ったのは。
佐郷は今、和総の郊外にある墓地へ向かって歩いている。
礼介たちの母が眠る場所だ。
先月まで、ただ眩しいだけだった陽の光は、今はどこか柔らかく、温かさを帯びている。
時折吹く強い風に、佐郷は目を細めた。
奥方様の宝物だった、あの姉弟たち。皆、それぞれの道を歩き始めている。
彼らが落ち着けば、自分も――。
そう思いながらも、「落ち着く」とは何なのかが分からない。
その一歩を踏み出せず、気づけばずるずると同じ日々を続けている。
母は以前、次から次へと縁談を持ってきた。
だが断り続けているうちに、いつの間にかその話題は出なくなった。
父は何も言わない。だが孫ができれば、きっと喜ぶだろう。
あの仏頂面の父が、孫を抱いて微笑む姿――
少し見てみたい気もする。
それでも、今はこれでいい。
墓の周りを清め、静かに手を合わせる。
「早矢様のお子、千鶴様と龍吾様は健やかに育っていらっしゃいます」
目を閉じたまま、佐郷は語りかけた。
「早矢様はおおらかにお二人を育てておられます。弟を育てた経験が、きっと活きているのでしょう」
口元に自然と笑みが浮かぶ。
龍吾を胸に抱き、穏やかな笑みを浮かべる早矢の姿。
その姿に、奥方様の面影が重なった。
「泰介様は妻を迎えられました。茶谷家の娘様で、奥方様と同じように花を愛でる方です」
最近、泰介の妻・花江は毎朝夫を門のところで見送っている。
遠くからではあるが、二人が何か言葉を交わし、ふっと微笑み合うのを見たことがある。
自分の両親にも、ああいう時間があったのだろうか。
想像はつかない。
だが夫婦とは、互いを尊び合える関係であれば、それで良いのかもしれない。
「泰介様は、善悦様の後を継がれるようです」
そして――
「礼介様は相変わらず医術の修練に励んでおられます。新しい道を見つけられましたが、流行り病のため予定通りには進んでおりません。しかし……」
佐郷は小さく息をついた。
「日々、とても生き生きとしておられます」
志乃の頬を優しく包んでいた礼介の手。
その光景が、ふと脳裏によみがえった。
どこか満たされない影を背負っていた礼介。
いつも何かが足りないような、そんな表情をしていた。
自分の命と引き換えに母を失った――
その空洞が心の奥にあるのではないか、と佐郷は思っていた。
だが。
あの娘が、その空洞を静かに満たしたのではないだろうか。
礼介が見せる、初めての顔。
その変化を、佐郷はずっと見てきた。
「礼介様の幸せを願いつつ……」
佐郷は、墓に向かって静かに告げた。
「そろそろ自分も、身を固めようかと思います」
それは下男としてではなく、早矢の乳兄妹として育ててくれた――
第二の母への報告だった。
*
「志乃……呪い、ってあると思うか」
ぽつりとこぼれた佐郷の言葉に、志乃はさらしを干す手を止めた。
少し間を置き、答える。
「ないとは言い切れませんが……」
どうしても歯切れが悪くなる。
医者見習いとしては「ある」とは言いづらい。
だが人智を越えたものが、この世に存在するようにも思える。
呪いだけではない。幽霊という存在も同じだ。
志乃は怖い話が苦手だし、霊感と呼ばれるものも全くない。見たことも、感じたこともない。
だが――
あるものを「ある」と言うより、ないものを「ない」と言い切る方が難しい。
以前、礼介がそう言っていた。
その言葉を聞いたとき、妙に腑に落ちたのを思い出す。
志乃の思考をよそに、佐郷は深くため息をついた。
「友人がな……足を失ったんだ」
志乃が顔を上げる。
「錨を落として潰れちまったらしい。金創医に傷は治してもらったんだが……」
佐郷は少し言いにくそうに続けた。
「足首から下が無いのに、そこが痛むって言うんだ」
「無い部分が……痛いんですか?」
志乃は思わず聞き返した。
「地元に戻ってきたんだが、足は失うわ、船乗りの仕事は失うわ、でかなり参っててな。本人は女の呪いだって言い張る。恨まれるようなこと、したんだろうなぁ」
仲の良い友人らしい。だからこそ、何とかしてやりたいのだろう。
志乃の頭の奥で、記憶が小さくざわめいた。
――どこかで聞いた。
志乃は佐郷をまっすぐ見た。
「神近先生に相談してみましょう」
佐郷は目を丸くする。
「え、お祓いとかじゃなくて?」
「まずは相談してみます」
志乃はきっぱり頷いた。佐郷もつられて頷く。
その時、春風が二人の間を静かに通り抜けていった。
*
「い」組の火消、吾平のもとへ往診に向かう。
神近と仁朗、そして志乃の三人で並んで歩く道のりが、志乃にはどこか愛おしく感じられた。
こうして共に歩けることが、どれほど恵まれたことか――
志乃はそのありがたさを、胸の奥でかみしめながら歩みを進める。
あれから一月。
吾平の傷は見事に塞がっていた。
神近が切った跡はまだ少し突っ張るものの、手の動きに不自由はなく、しびれも残っていない。
「仕事は、もう普段どおりやってもらって構いません」
神近の言葉に、吾平はぱっと顔を明るくした。
「そりゃありがてぇ!」
にかっと笑う。
「今度、店に来てくださいよ。腕をふるいますから!」
料理人である吾平のその腕が、どんな料理を生み出すのか――
志乃は思わず想像を膨らませ、自然と笑みがこぼれた。
帰り道。
志乃はふと思い出し、神近へ相談を持ちかけた。
佐郷の友人――
足を失ったあと、無いはずの場所が痛むという話だ。
それを聞いて、仁朗がぼそりと呟く。
「女の呪いってやつか。怖ぇな」
冗談とも本気ともつかない声だった。
「仁ちゃんも気をつけないとね」
志乃は軽くにらんでみせる。
こんなふうにふざけ合う時間も――
もうすぐ終わる。
そう思うと、胸の奥に小さな寂しさが灯る。
そのとき神近が言った。
「志乃さん。一緒にその方に会いに行きましょう」
二人が振り向く。
「用意していただきたいものがあるのですが……」
「え?」
「え!?」
志乃と仁朗の声が重なった。
なぜなら、神近が求めたその品が、あまりにも意外なものだったからだ。
*
今日は風が冷たい。
春は一息に訪れるものではない。暖かさの合間に、まだ冬の名残を連れてくる。
通りには、杏の花が咲き誇っていた。
「きれいだなぁ。桃の花?」
志乃が言うと
「違う、違う」
仁朗が得意げに首を振る。
「杏だ。ほら、がくの色が赤紫だろ」
木材屋の息子だけあって、樹木の知識はなかなかのものだ。
「桃の種の桃仁も、杏の種の杏仁も薬になりますからね」
神近が柔らかく微笑む。
その背後で、春風がそっと杏の花びらを揺らした。
佐郷に案内され、佐郷の友人、要次の家へ着いた。
志乃は息を呑む。
要次の左足は――
足首から先がなかった。
この足では体重を支えることはできない。
木の杖を使い歩くことはできるようだが、生活にも仕事にも大きな影響が出ているはずだ。
だが隣に座る妻は、明るく微笑んでいた。
「この人、手先が器用なんです」
そう言って、いくつもの内職を一緒にしているのだと話す。
神近が静かに尋ねた。
「どんな時に痛みますか」
要次は眉を寄せる。
「よく……わからんのです」
声が低く沈む。
「突然、足首より下に、びりびりっと痛みが走るんです。無いところなのに……」
拳を握る。
「気になって……怖くなって……夜も眠れなくなる」
「朝晩に多いようです」
妻がそっと付け加えた。
神近は傷跡に手を当てる。
足の末端を走る傷は長い。
だが治りはよく、見た目にも問題はない。触れても痛みはない。
――つまり。
残っている足に異常はない。
「用意していただいたものを」
神近の言葉に、佐郷がすっと差し出した。
十寸ほどの、大きな手鏡。
「母の物を借りてきました」
神近は静かに頷いた。
「では、やり方をお伝えします」
神近は床に座り、膝を立てた。
「このように座ってください」
要次が同じ姿勢をとる。
左足は外側へ。安定しないため、妻が背を支えた。
神近は両足の間へ手鏡を立てる。
右足が映る位置だ。
「右側からのぞいてください」
要次がのぞき込む。
そこに映っていたのは――
右足と、鏡に映ったもう一本の足。
まるで、両足がそろっているかのように見えた。
「右足首を動かしてみてください。指も」
要次はゆっくり動かす。
志乃は周囲を見回した。皆、目を丸くしている。
だが要次だけは黙って動かし続けていた。
神近が穏やかに言う。
「一日に四半刻(30分)ほど続けてください」
要次が顔を上げる。
「あなたの頭は、“左足が無い”と認識している。だから逆に痛みが生まれるのです」
鏡の足を指す。
「左足がここにあり、傷もなく動いている。そう頭に思わせる」
静かな声で続ける。
「それが、あなたの痛みを和らげるはずです」
「薬は使わなくてもいいのですか」
佐郷が尋ねた。
神近は少し微笑む。
「使うこともあります」
そして続けた。
「ですが、まずはこれを試してみましょう」
銭のかからない治療。
その人に合った方法を選ぶ。
志乃は神近の思慮深さに、改めて胸を打たれた。
帰り道。
志乃は歩きながら尋ねた。
「珍しいことなのですか」
神近が振り返る。
「手足を失ったあと、時折みられます」
少し遠い目をした。
「異国で戦のあと、何度も診ました」
志乃は黙って神近の背を見つめる。
広い背中。
この人のもとへ来たことは――
間違いではなかった。
志乃は胸の奥で、静かに確信していた。




