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さんさ 志乃の医薬譚〜恋せよ乙女、医の道をゆけ〜  作者: 朝久野智秋
和総編

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32.圧

「おじさんたちが何を探しているか、わかる?」

 

不意に投げられた問いに、志乃は言葉を失った。胸の奥が、きゅ、と縮む。

わかるはずがない。

だが、わざわざ足を止めて声をかけてくれた朔太郎に、無言で返すのは不誠実だと感じた。


「生薬図譜……ですか?」


慎重に、探るように答える。


「山鹿家に伝わる秘伝の薬、らしいよ。そんなものが本当にあるのかは知らないけどね。少なくとも叔父はそう言って、矢神家を焚きつけたんだろうねぇ」


朔太郎は片方の口角だけを上げた。その笑みは軽いのに、瞳の奥は冷えているように感じた。


――秘伝の薬。

そのために。

そんなもののために。

山鹿元医にその秘伝を授けられたと疑われた父は、矢神あらため山鹿宗敬を含む矢神家の策謀によって医頼館を追われた。父と私たち家族の穏やかな日々は奪われ、私は父の顔も温もりも知らない。そして、母は自分を責め続けている。

そんなもののせいで。

喉の奥に言葉が詰まる。


「なぜ……」


問いは、最後まで形を成さなかった。

なぜ、それを自分に教えるのか。なぜ今、この話をするのか。

口に出したものの、それを聞いてしまえば何かが決定的に変わる気がした。そして、踏み込んではいけない領域が、目の前にある気がして続きの言葉を飲み込んだ。


「好きだからだよ」


静かに、はっきりと朔太郎は答える。

志乃の思考が、真っ白になる。耳鳴りがする。鼓動が急に速くなる。

誰が。

何を。

聞けない。聞いてしまえば逃げ場がなくなる。

朔太郎のまっすぐな視線を受け止めきれず、志乃はうつむいた。自惚うぬぼれるのも滑稽だ、と自分に言い聞かせる。

――神近先生を慕っている、という意味だろう。

そういうことにしておこう。

その後、志乃は何かを取り繕うように言葉を重ね、朔太郎は京極家を後にした。

だがそのやりとりは、もやの向こうの出来事のように曖昧だった。



何で、こんな時に。

昨日の出来事が、火の粉のように脳裏へ舞い戻る。

志乃は先ほどとは違う道を通って京極家へ戻っている。

そうだ、朔太郎の家がこの辺りだと聞いたことがある。無意識のうちに、心がそちらへ向いたのかもしれない。

今はそんなことを考えている場合ではない。

志乃は強く首を振り、千鶴の名を呼ぶ。

もしかすると、もう誰かが見つけているかもしれない。そう願いながらも、ふと河原へ行ってみようと思った。西日が低くなり、眩しさが目に刺さる。


堀田川の河川敷を進む。

大河ではない。雨が降らぬ日が続き、水量は少ない。むしろ河原の方が広いほどだ。

避難してきた人々が、思い思いに腰を下ろしている。

幼子の姿も目に入る。だが、子どもたちは皆、誰かの手を握っている。

今日の千鶴の着物は桃色だったはずだ。柄までは思い出せない。

志乃は歩きながら名を呼び続ける。


その時、視線を感じた。

対岸の河原に、しゃがみ込む小さな影。桃色の着物。

胸が強く打つ。

渡れそうな浅瀬を探し、裾をからげて川を越える。


「千鶴様!」


途方に暮れていたのか、石を積み上げて遊んでいたのか、小さな手は泥で汚れている。

怪我はない。人形は持っていない。探しに出て、帰れなくなったのだろう。

今日、人を背負うのは二度目だ。

だが今度は、命の重みを確かに感じながら、志乃は千鶴を背負った。



 千鶴を送り届けると、志乃はすぐに身を翻した。

夕闇が迫る。炎はなお遠くで唸り、赤黒い光が空を染めている。


「まだ距離はあるが……」


礼介は、女と子どもを先に避難させると言う。春田神宮近くの薬問屋に話がついたらしい。和総の南端。よほど安全だろう。


「志乃も」


その一言に、志乃は神近のことを告げた。

礼介の眉間に深い皺が刻まれる。


「危ないことはしてほしくない……でも、行くだろう」


苦い微笑を残し、礼介はどこかへ姿を消した。

やがて戻ってきた礼介の手には、革の袋。

受け取り、開く。先の尖ったはさみ、小刀、針が入っている。


「これは……」

「兄様のだ。必要時は使っていいと言われている」


泰介――西濱にしはまで西医学を学んだ礼介の兄。その道具だ。


「ありがとうございます」

 

頭を下げ、顔を上げた瞬間、左頬に温かな感触。

礼介の手だった。まっすぐな視線に、胸がトクンと跳ねた。


「無茶するな」

「……はい」


志乃は礼介の手にそっと自分の手を重ねた。申し訳なさと、揺るがぬ使命感が胸でぶつかり合う。

そして、走り出した。



夜は落ちた。だが町は炎に照らされ、昼のように明るい。

城の周囲を進むが、先ほどの場所に神近はいなかった。

火はやや勢いを弱めているが、風向きが変わり、別の方向へと延びている。

このまま会えないのでは――そんな不安が胸を締めつける。

その時、火消たちの声が響いた。


「この家のこどもが取り残されているらしい!」


志乃は息を呑む。

一人の火消が水を浴び、ためらいなく燃え盛る家へ飛び込んだ。背に大きく「い」の字が見えた。組の名前だ。


どうか、二人とも無事で。

祈りながら立ち尽くしたその時、走ってくる影が目に入る。


「仁ちゃん!」

「え!? 戻ってきたのか」


驚きながらも、仁朗は笑う。


「志乃らしいや」

 

近くの寺の境内へ案内される。負傷者と手当てする者。声が飛び交う。

本堂に入ると、神近が負傷者の手当てをしている。


「神近先生!」


志乃と仁朗の声が重なる。志乃は器具とさらし、蜜蝋みつろうを差し出す。


「助かります」


その視線は温かく、強い。


「仁朗さんはこちらを」


仁朗は早速、町人の頭の傷を縫い始めた。

寺の住職が燭台で傷の所を照らしてくれている。治療する場を与えてくれるだけでなく、手を差し伸べてくれているのだ。本当にありがたい。

志乃は神近と火消の男性の手当てをする。

左前腕が明らかに腫れている。骨が折れているのだろうか。神近が仁朗の持ってきた板を添え木にした。さらしで巻くのを手伝う。志乃は負傷した腕を布でくるんで、その端を首後ろで結んだ。これで腕を安静にできるだろう。


二人の処置が終わったところで、志乃は神近に続いて境内に降り立つ。

軽症の火傷の火消したちは、自分たちで応急処置をしてまた火元に戻っていく。町を守ろうという執念に志乃の胸は熱くなる。


「先生!」


肩を支えられて入ってきた男がいる。

頬は赤くただれ、前髪は焼け、右前腕は異様に腫れ上がっている。

顔を歪めている。相当痛いのだろう。

火消装束の背中に「い」の文字。

彼は、もしかして……


「子どもを救いに行かれた方ですか?」


負傷した男性を連れてきた火消が代わりに応える。


「ああ、無事助けてくれた。だが柱が崩れてな……」

 

右前腕は全体に赤く水ぶくれに覆われている。その一部は黒い。

神近が負傷した男性、吾平の右手を握り、問うた。


「しぶれは無いですか」

「手や指は……触られている感じが薄い」

 

志乃も振れると驚くほど手が冷たく、そして白い。反対の手を見ると、元々色白、というわけではないようだ。

そして、神近が指示するも自分で指が握り込めない。

神近の声が低くなる。


「強い腫れで血の巡りが悪くなっています。このままでは腕を失う可能性がある」

 

圧。

焼けた組織の内側で膨れ上がる圧が、血が巡るのを妨げ、手の機能を奪おうとしている。


「処置が必要です。しかし…痛みを伴います」


吾平はうなずく。


「子どもを救えた。自分の腕も救えるなら……頼む」


吾平に丸めた布を噛んでもらった。舌を噛んでしまうといけない。


「吾平さん、頑張りましょう」


神近の一声に緊張が走る。

神近の手元で、清めた小刀が光る。仁朗は神近の向かいで、吾平の右手と肘を押さえる。

志乃は吾平の左腕をさすりながら、燭台で右腕を照らす。

ぷつり。

皮膚を切り裂くが、痛みは強くないようだ。

重症の火傷は痛みを感じなくなると聞いたことがある。そのような状態なのだろうか。

皮膚の奥に黄色い部分が現れ、さらに奥へ。


「うぅ」


吾平が痛みに顔を歪める。志乃は吾平の左腕をさすり続ける。

ぴゅ、と血が噴く。仁朗が素早くさらしで押さえる。

赤いものが見えた。神近が呟き、それが筋肉だと知った。筋肉を包む膜を神近はためらいなく切り開く。

神近の動きに迷いはない。まるで何度も同じことをやったことがあるかのようだ。


「ううぅ」


神近は小刀を置いた。そして血が噴き出す部分をさっと縫う。糸の結び目を残して、仁朗が合いの手を入れるように素早くはさみで切る。

血は止まった。

志乃は蜜蝋をぬったさらしを神近に差し出す。

神近は切った部分にさらしを当てて、ゆるく巻いていく。

終わった。


「あなたは人の命を救った。その手も救いましょう」

 

神近の言葉が心に響いた。そして、松野は目をつぶったまま頷く。

吾平の火傷した頬に、志乃は冷やした手ぬぐいを当てる。それが心地よいのか、処置が終わったことに安堵したのか。松野の口元が緩んだのを見て、志乃は肩の力を抜いた。

圧は解かれたのだ。


いつか、自分も神近先生のようにこの判断、この処置ができるようになるのだろうか。

しかし浸っている場合ではない。次のけが人が来た。志乃は駆けて行く。



 火はその後しばらくして消し止められた。

出火から実に半日以上が経過していた。

この寺に延焼することはなく、吾平はそのまま寺で過ごした。

神近、仁朗、志乃はほぼ不眠不休でけが人の対応をした。

火事場に行ったわけではないのに、知らぬ間に志乃の頬は黒い灰で汚れている。

空が白み始める頃にはひと段落した。


朝、吾平の指はしっかり動くようになった。しびれもないようだ。


「ひとまず安心です。毎日手当てに伺いましょう」


骨折もあるかもしれない。添え木と三角巾で手当てをした。

そして、薬箱から神近は生薬を選んでいく。

皮膚を強くする黄耆おうぎ

血を補い巡らせる地黄じおう川芎せんきゅう芍薬しゃくやく当帰とうき

気を補う人参、蒼朮そうじゅつ甘草かんぞう茯苓ぶくりょう

温める桂皮けいひ

この十種の生薬を含む「十全大補湯じゅうぜんだいほとう」。病後の体力低下に良い。

神近から薬を受け取った吾平を仁朗が送っていった。


「これからの手当ても大事です……彼の手を何とか元通りにできれば」


神近の強い言葉に志乃は頷いた。



 あのまがまがしい炎は消えた。

だが終わりではない。

家を失った者。傷を負った者。

彼らにとっての火事は終わっていないのだ

 

朝の鳥のさえずりを聞きながら、志乃は思う。

圧に屈するのではなく、それを解き、命をつなぐ者になりたい。

静かに、強く、そう願った。


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