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さんさ 志乃の医薬譚〜恋せよ乙女、医の道をゆけ〜  作者: 朝久野智秋
和総編

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31.火

 この島倉しまくらが、これほど静まり返る日が来るとは――。

乾いた風が、音もなく通りを渡っていく。

人は町であり、町は人である。人の心が荒めば、町の息遣いは止まり、活気は音を失う。

戌の刻以降、飲み屋は閉じるよう達しが出ている。しかし、粋を好むこの通りだ。どこかにまだ灯りを残している茶屋があるのではないかと、見回りがてら歩いてみた。

 いつもなら二階から艶めいた視線が降り、店先からは客引きの甘い声が絡みつく。それを受け流しながら歩くのが、この通りの常だった。それが今夜は、風の音だけが空を撫でている。

こんなにも、あっさりと闊歩できる日が来るとは。

――いや。

勘の鋭い妻を迎えてからは、めっきり足も遠のいていたのだが。

 

 すすり泣く声が、ある町屋の前から漏れた。

藤木は足を止める。首を振り、再び歩き出す。

泣き声の訳……心当たりはある。病が、それによる不安が、町を満たしているのだ。

神近を、もっと早く呼び寄せられないか――そう考えるが、それも栓なきこと。優秀な医者が一人増えたところで、現状では焼け石に水だ。

そんなことを思うくらいなら、薬師である以前に、医者だった自分が診療に当たればよいのではないか。心が逡巡する。

 多くの命が奪われると分かっているのに、何もできない自分が歯がゆい。

ただ薬を多く届けるために、身を粉にして働く。目の前のことを一つ一つやるしかない。

自分に特殊な力などないのだから。

だが、それは悲観ではない。

己の実力を冷静に見極めることで、今やるべきことは見えている。

 

冴えきった寒空の下、流れ星が一筋、夜を裂いた。

それは、今後起こりうる出来事の先触れのように思えてならない。



 志乃は、早矢さや千鶴ちづ龍吾りゅうご、女中二人とともに京極家へ向かっていた。

風は北西から北寄りへと変わりつつある。少し距離があるとはいえ、煙の勢いは増している。志乃は右手に立ち上る煙を気にしながら、早矢の家から西へ歩みを進める。

しかし予想以上に、多くの人々が西へ、南へと荷物を抱え押し合っている。

千鶴は初め志乃が抱いていたが、こういう時はやはり母を求める。龍吾を代わりに女中が抱く。赤子である龍吾は志乃に慣れていない。志乃もそう。お互い様だ。

 

夜になれば、普段は海から陸へ、和総にとっては南西の風が吹く。城にとっても早矢の家にとっても、この風向きなら安心だ。だが、まだ夕暮れまで時間がある。

それまでに消し止めてもらえればよいが――この乾いた強風だ。楽観はできない。


「急げ!」


刺又さすまた竜吐水りゅうどすいまといを持った男たちが逆行していく。遠方から駆けつけている様子から、火事は相当に大きい。

 

志乃はこれまで三度、火事を間近で見た。足楢そくならで二度、和総かずさで一度。

足楢では十棟ほどがあっという間に焼け落ちた。村の男たちは素人ながらも家を壊し、水をかけ、延焼を防ごうと必死だった。志乃もたらいに水を入れて運んだ。

幼い頃に見た火事の炎は、生き物のように揺らめき、形を変え、闇夜を喰らっていた。まるで化け物だった。その後、しばらく何夜も夢に見た。

和総での火事は町火消まちびけしが瞬く間に集まり、半焼で食い止めた。定火消じょうびけし大名火消だいみょうびけし、町火消――京極家の佐郷が町火消を務めているため、佐郷から話を聞いていた志乃は最近その仕組みに詳しくなっていた。

 

京極家に着くと、一行は大きく息を吐いた。

こちらからは鐘の音は聞こえない。幼子二人を抱えての移動は、想像以上に心身を削った。


「はやく消えるといいけど」


早矢の呟きを背に、志乃は医者たちの部屋へ急ぐ。

河野が書き物をし、奥で薬を作っている。


「城の東で火事があり、善悦先生、泰介先生は城へ向かわれました」


志乃の言葉を聞いて河野は黙って立ち上がり、外へ向かった。戻ると短く言う。


「書物と薬をまとめる」


志乃も外に出てみると、遠いが鐘の音が聞こえてきた。火事が広がっているのだ。

志乃は薬の部屋を覗く。紫根しこん――ムラサキという植物の根。いつの間に仕入れたのだろうか。朝は無かったように思う。

紫根は名前の通り紫色だ。膏薬の原料になり、その膏薬は傷ややけどに効く。だが今は作っている暇はない。

 

医頼館は。礼介は。神近は。仁朗は。大丈夫だろうか。

胸がざわつく。

母屋へ向かうと、火消装束の佐郷がいた。このあたりの火消たちも召集されたようだ。

縁の下の力持ち。いつも礼介の影に控える男が、今日は一人の男として立っている。普段より心なしか体が大きく見える。


「早矢様、花江様たちを頼んだぞ」


「はい。佐郷様、気を付けて!」


背中が、炎へ向かう。

志乃は、佐郷の姿に勇気をもらいつつも、胸がひどく冷えるのを感じた。



 平左が屋根に上がり、炎を見据えている。


「いかんな」


志乃も手招きされて、梯子を少し上る。 

屋根の近くで振り返ると炎の柱が目に飛び込む。広範囲が燃えている。城も近い。


「城を守るため周りが手薄になる」


鐘の音が鳴り響いている。その時。


「千鶴様!」


女中の叫びが耳に飛び込んできた。

志乃が声の方へ駆け寄ると、青ざめた顔の女中がいた。ざっと見渡すが、確かに千鶴の姿は見当たらない。


「いつからですか?」


今にも泣きそうな顔の女中に尋ねる。


「姉様人形を無くした、とおっしゃって屋敷の中を一緒に探していたのです。探している時に千鶴様から少し目を離していると、お姿が見えなくなり……」


確かにあちらの屋敷を後にしたとき、千鶴は手に人形を持っていた。ただ、そう言われると京極家についた時、千鶴の手元にあったかというとはっきりしない。


「私が千鶴様を探します。まずは早矢様の所へ報告を。戻られているかもしれませんし……」


千鶴は数えで四歳になる。物怖じしない性格が、今は恐ろしい。


平左が呼び寄せた下男とともに、屋敷内の捜索を始めた。

厠や庭園の木の裏、蔵の中……思いつくところには全て行った。そして、残念ながら早矢の元にもいなかった。もう外も見るしかない。

花江はというと、多袈たけと共に気丈に握り飯を作っていた。いつ避難が必要か分からないからだ。

胸のあたりがぐるぐる黒いものがうごめいている。「不安」、この一言だ。

屋敷の周りを探そうと門に向かおうとすると、入ってくる男性。礼介だ。


「礼介様……ご無事で何よりです」

「すまない。医頼館の書物など移動させていたもので……」

「千鶴様が……」


千鶴がいなくなったことを伝えると、礼介の顔が強張る。確かに門は少し開いていた。いつもは閉められているのに。やはり、千鶴は一人で屋敷を出てしまったのではないか。


「千鶴様を探しに行かせてください」

「外は混乱している。一人では志乃も危ない」


早矢の義父母、夫も先ほどこちらに避難してきた。早矢の住んでいる屋敷はもぬけの殻のはずだ。


「では、俺が」


志乃は首を横に振る。


「今後、いつ避難するかどうか……礼介様の指揮が必要です」


礼介は言い返せない。まだ泰介も帰ってきていないのだ。千鶴の父である正勝と平左、もう一名下男がやって来た。


「手分けしていくぞ」


平左が言う。礼介は眉根に力をこめて言った。


「正勝殿、申し訳ない」

「いや、誰かが悪いわけではない。まずは探す。皆、協力してくれ」

「はい!」


礼介は耳元でささやく。


「志乃……すまない。気を付けて」

「はい」


志乃は力強く頷き、正勝たちと屋敷の前で別れた。

正勝は西側にある自分の屋敷に向かう。志乃は北側、城の方向だ。西、南は平左と下男が向かう。4人で網羅できるわけではないが、火が傾いて行く中、策を練っている時間はない。



城の天守閣を見ながら北へ。しかし、人の流れは火から遠ざかるため南向きだ。

人をかき分けながら、周囲に目を配るが、人通りの多い中で幼子を探すのは容易ではない。


「千鶴さまー!」


必死な声はあえなく雑踏に呑まれる。

大通りを北へ向かいながら、裏路地ものぞき込む。

千鶴の姿はない。

大通りに面した宗泉寺の門の前で、座り込む老女。腰のあたりをさすっている。


「大丈夫ですか?」


志乃は女性に肩をかして立ち上がる手伝いをするが、立ち上がれない。


「おうちはどちらですか?」

「錦町」


錦町はここより北東。すなわち火元に近い。鐘の音も響いている。

困っている人がいれば、連れて来て良いという礼介の言葉を思い出す。

女性は志乃よりは小柄だ。いけるか……千鶴の事もがあるが放っておけない。

周囲を見回したが、誰もこちらを気にも留めない。みんな、自分たちの事で精いっぱいだ。


「避難しましょう。背に乗ってください」

「すまないね」


小柄と言っても、志乃より少し目方は軽い程度だろう。

志乃は重い足取りでゆっくりと屋敷に戻った。何回か休みながら、京極家に女性を運び込んだ。屋敷にいた者に女性を託してまた元の道に戻る。


 風向きだろうか、一瞬焦げた臭いが漂い眉をひそめる。

日が傾いてきたことに焦りを感じる。人気の少ない道を掛けて先ほどの場所まで戻った。

城のお堀にたどり着いた。城の東側に目をやると、火消含めて野次馬の姿が目に付く。

もう少し火元に近づくと、野次馬の姿はなくなり、火消したちの声が響きわたる。


「こっちも壊せ」

「急げ!」


緊迫した姿、声を聞きながら志乃は駆ける。

これ以上近づくと危ない。まだ距離はあるが、少し熱さを感じる。距離があっても燃え盛る炎というのは身震いするほど怖いものだ。


火事の現場に千鶴の姿がないことにほっとしつつも、見つからない事への焦りも募る。

京極家より純粋な北でなく北東に来ているため、少し南下しつつ西へ向かおうと志乃が決めた時、見慣れた姿が。


「神近先生!」


思わず駆け寄ると


「あ、志乃さん」


いつものように穏やかな表情でこちらに向き直った。神近は桶に入った水の中に、さらしを浸している。

そこに仁朗がどこからかやって来た。

仁朗の持つ天秤棒の桶には、水がなみなみと注がれている。


「もう、神様は人使い荒いんだから」


軽口とは裏腹に、額から汗が滴る。

手伝いたい。だが、千鶴を探さねば。

さっそく、火消が運び込まれる。片腕が真紅に腫れ上がっている。


「冷やしましょう」

 

神近は火消の腕を水に沈める。

志乃は拳を握る。


「すぐ戻ります!」


炎が、夜を呑み込み始めている。

志乃は、再び町の中へと駆け出した。

 

火は、すべてを焼き尽くす。

人の家も、町も、心も。

――だが、それでも。

守りたいものがある限り、人は火に背を向けない。

志乃の影が、炎に照らされ長く伸びた。


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