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さんさ 志乃の医薬譚〜恋せよ乙女、医の道をゆけ〜  作者: 朝久野智秋
和総編

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30.母

河野こうの先生、よろしくお願いいたします」


志乃の声が、部屋の奥まで澄んで響いた。

深く頭を下げ、その姿勢のまま、しばし待つ。

――返事は、ない。

河野は男としては小柄な部類だが、太い眉に細い目、突き出たわし鼻と、ひと目で忘れがたい顔立ちをしている。志乃の挨拶に対しても、顔色ひとつ変えず、こちらを見ることすらしない。視線は帳面に落とされたままだ。

しかし、その沈黙が放つ威圧感は言葉以上だった。

善悦の弟子たちが少し離れた場所から、ちらちらとこちらをうかがい、小声で話している。

――歓迎されていない。それだけは伝わってきた。


「……ちゃ」


唐突に、河野が低くつぶやいた。

――お茶、ということだろうか。


「わかりました」


志乃はすぐに台所へ向かい、湯を沸かし、茶器を整えて戻った。

泰介、河野、そして弟子二人へと、ひとりずつ丁寧に茶を差し出す。

志乃は少し離れた場所に立ち、河野が茶をすする様子をただ黙って見守った。

その間、泰介が河野の横を通り過ぎ、何かを小声でつぶやいたが、志乃には聞き取れなかった。

河野は立ち上がり、十徳を羽織る。弟子の一人が慌てて薬箱を手に取った。

どうやら、泰介とともに往診に出るらしい。

――連れて行ってください、とは言えない。

自分は、ただ茶を入れただけなのだから。

河野は去り際、ふと志乃を見て、顎をくいと上げた。


「作っとけ」


その視線の先は、薬部屋だった。

――薬を、ということだろう。

あっけにとられているうちに、河野の姿はもう見えなくなっていた。

残された弟子の一人、濱口がくすくすと笑う。


「志乃、気に入られたな」


「え……」


――絶対に、そんなはずはない。

志乃には、濱口がそう判断した理由がまるでわからなかった。

濱口の話では、河野はもともと無口で、仕事以外の話はほとんどしないという。とくに女性は苦手らしい。

女が苦手で医者、というのもどうなのだろう。男だけ見るわけにはいかないだろうに。

思わず心の中で突っ込みを入れる。


「初日にしては上出来だよ。俺なんて一か月くらい、まともに口きいてもらえなかったぞ。志乃のいれるお茶、いつもおいしいからな」


濱口と並んで薬研を動かしながら、乱れた心を整えるのに、かなりの時間がかかった。


 今、志乃が刻んでいるのは蘇葉そよう、つまり赤紫のしそだ。

濱口によれば、善悦はこの生薬を好んで使うらしい。蘇葉は体を温め、発汗を促し、解熱と解毒の作用を持つ。風邪の初期に用いられる「香蘇散こうそさん」にも欠かせない。

神近が処方するのは、見たことがない。


「いつもお世話になっております」


薬種問屋の手代が荷を届けに来た。濱口が手際よく仕分けていく。

その中に、サラシナショウマの根――升麻しょうまという生薬があった。

「麻」と名がつく以上、赤もがさ、すなわち麻疹にも効くだろうか。

夜に、礼介に聞いてみようか……そう思いかけて、志乃はふっと考えを止めた。

――いけない。

いつの間にか、すっかり頼る癖がついている。まずは自分で調べよう。

 

 濱口に断りを入れ、部屋の書物を手に取る。

慣れてきたとはいえ、異国の書を読み解くには相当の労力がいる。こうした読解や解釈について、仁朗や朔太郎は講義という形で兄弟子から教えを受けている。羨ましいと思ったのも一瞬。自分にも、一対一で毎晩のように献身的に教えてくれる人がいるではないか。

――本当にありがたい。


 漢方――異国の古い国名を冠した医学。

だが、この国に伝わってから千年以上が経ち、独自の発展を遂げている。もはや異国のものというより、この国の伝統医学だと礼介は言っていた。

では、本来の異国の医学とは何が違うのか。

気候、人、慣習……きっと異国とこの国で違う所がたくさんあるのだろう。医学が異なる方向に発展していくのは当然だ。

神近は、腹を念入りに診るのはこの国独自だと言っていた。異国では、腹痛などの症状がない限り腹部を診ないという。

――父は、どうだったのだろう。

医頼館で学び、異国へ渡った父。根拠はないが、使える知識はすべて使う人だった気がする。

記憶にない父が、病の人の腹にそっと触れる姿を思い浮かべ、志乃の口元は自然とほころんだ。

 

 さて、河野が戻ってきたらどうしよう。お茶をまた入れるだけでは貴重な一日がもったいない。ここで学ぶことができるのは2か月足らずなのだから。

赤もがさについて、聞いてみるべきか――いや、あの人には徹底的に調べてからでないと、返り討ちに遭うに違いない。

揺れる気持ちのまま薬研を動かす時間が、ゆっくりと流れていった。


 

 乾いた冷たい風で頬がひりつく。

今朝は晴れているが、凍てつくような寒さだ。

志乃は白くなった指先をこすり合わせながら、善悦の医者たちの控え部屋の周囲を黙々と掃き清めていた。

まだ早い時間であるが泰介も、善悦の弟子たちも、皆すでに出払っている。


 寒さは病を連れてくる。

風邪、冷えによる節々の痛みやむくみ、しもやけ、胃腸の不調……。

目に見えぬ寒気は、人の身体に忍び込み、静かに命を削っていく。

――早く、芽吹きの季節が来てくれればいいのに。

志乃はほうきを動かしながら、そう願わずにはいられなかった。

 

 昼前、河野の指示で薬を調えていると、不意に背後から声が落ちた。


「お前」

 

びくりと肩が跳ね、志乃は振り向いた。そこに立っていたのは、泰介だった。

――お前、とは、私のことだ。

話しかけられるのは、あの夜以来である。思わず背筋に力が入る。

一瞬、視線が交わった。切れ長の目に、あの時の冷たい影はない。

志乃の驚きを悟ったのか、泰介はすっと目を逸らした。


「父上と往診に行く。ついてこい」


「は、はい!」


気まずさよりも、善悦に同行できるという、またとない機会への驚きと喜びが胸に込み上げた。

志乃は自分でも気づかぬうちに、笑っていたのかもしれない。

泰介は笑うほどではなかったが、口元が、ほんのわずかに緩んだ。


 だが、実際に善悦と泰介の後ろを歩き始めると、先ほどの高揚はきれいに消え失せた。

気まずい。

気まずすぎる。

二人は駕籠かごに乗るかと思いきや、歩いて行くという。

――むしろ乗っていただいて、私が走って薬箱を届けますよ。

そう心の中で二人の背に訴えかけても、もちろん届くはずがない。

せめて二人が会話をしてくれれば、それを聞いている役割もあるのだが、ほとんど言葉は交わされない。

親子であり、師弟でもある二人に、今は語るべきことがないのだろう。

歩くうち、見慣れた道に入っていく。

――そうか、ここは……。


 屋敷の奥へ通され、襖が静かに開いた。


「先生方、ありがとうございます」

 

顔を上げたのは、二重の目に小ぶりな鼻、上品な口元――早矢さやだった。

少しとろんとした目元は、寝不足のせいだろうか。


「連れてきたぞ」


善悦はそう言って娘を見やり、続いて早矢の腕に抱かれた龍吾りゅうごの寝顔を、愛おしげに見つめた。それから、孫娘の千鶴ちづのもとへ向かう。


「おじいさまー!」


千鶴は駆け寄り、善悦の膝に飛び乗った。

善悦の頬が緩む。

産後三か月――志乃もまた、三か月ぶりにこの家を訪れた。

あのとき生まれた龍吾は、すっかり顔も体もふっくらとした。よく乳を飲んでいるのだろう。餅のように柔らかそうな頬が、ほほえましい。健やかな成長が、一目でわかった。


「姉様、龍吾の調子は?」


泰介が尋ねた。

志乃は思わず龍吾を見る。

特に悪そうには見えないが――。


「そうそう、大変なの」


早矢は大げさに肩をすくめた。


「泰介も来てくれたの?」


怪訝な顔で覗き込まれ、泰介はぼそりと答える。


「皆、忙しい」

 

――ということは、「連れてきた」というのは、志乃のことなのだろう。

女中がお茶と菓子を運んできた。


「はい、練習」


早矢はそう言って、抱いていた龍吾を泰介の腕に預けた。

眠っていた龍吾の手足がぴくりと動き、泰介は明らかにうろたえた。妻を迎えたからには、そのうち父になる可能性がある。その「練習」なのだろう。

泰介がぎこちないながらも優しく腕を揺らすと、龍吾は落ち着いた。


「大丈夫ね。しばらくよろしく」

 

そう言って、早矢は志乃を手招きし、隣の部屋へと移る。


 

 向かい合って座り、お茶を勧められる。


「元気そうね」


その微笑みに、志乃の緊張はほどけた。


「はい。早矢様、千鶴様、龍吾様もお元気そうで、何よりです」


「本当は礼介と志乃を呼んだのだけど……」


早矢は、いたずらをした後の少女のような顔で言った。


「礼介が不在だったみたいで、あの子が来ちゃったわね」

 

くすりと笑ったあと、ふっと表情を消し、小声で問う。


「――お姫様はどう?」


花江のことだ。


「最近は、穏やかに過ごされています」


「泰介は?」


嘘を言う場ではない。


「最近、夜出かけられることが少なくなったようです」


「そう……」

 

早矢は静かに息を吐いた。


「佐郷から聞いて、心配していたけど……とりあえず、危機は免れたようね」


柔らかな笑顔が戻る。

赤子が小さいため京極家へは行けずとも、心は離れていない。

弟たちを見るその眼差しは、まるで母そのものだった。


「志乃は、春から大都へ?」


昨夜、礼介が神近に聞いた話を伝えてくれた。

確かに大都で赤もがさの患者がちらほらみられているようだ。

この病はかなり広がるのが早い。大都と和総の距離は30里ほどで、人と物の行き来は多い。したがって結局、和総にもすぐ広まるだろう。

志乃に関しては受け入れ先も手配済みのため、予定通り連れて行くつもりだそうだ。

礼介については、善悦の意見が何より大事になる。

「もう一度父上にも話してみる」

下唇をかみしめて礼介は言った。

志乃は礼介に握られた手をそっと握り返すことしかできなかった。


「その予定です」


「礼介は?」


「善悦様と神近先生が相談し、大都行きはしばらく見送るようです」


これ以上は語れない。幼子を抱える早矢に、「流行り病」という不安を与える必要はない。


「寂しくなるわね」


それは、誰にとっての言葉なのか。早矢なのか、礼介なのか。

志乃はただうなだれた。


「そうそう、これを渡したかったの」


それは、木彫りの「あれ」だ。

長い眉と美しいひげ、牛のような角、そして草をんでいる……


神農しんのう!」


手に乗るほどの小さい像だが、今まで見た神農像のどれよりも愛嬌があり、見ているこちらまで穏やかな気持ちになる。早矢はそんな志乃の反応に満足したようだ。志乃の手の平にちょこんと載せた。


「いただけるんですか!?」


「そんなに喜んでもらえるなら、探した甲斐があるわ」


神農は草木を自らなめ、その効能を調べたという伝説から「医薬の神様」と言われている。実際に、大康堂にも京極家にも神農の像が置かれている。


「あとは、これ。立って」


志乃が立ちあがると、着物を背に当てられた。


「やっぱりちょうどいい」


早矢はにっこりと笑う。見せられた着物は白地に山茶花の絵があしらわれている。生地も見るからに一級品だ。


「私の母のなの。私にはどれも丈が短くて。すそを直してまた届けるわ」


「そんな大事な物……」


「いいの。誰かさんと出かける時にでも着てちょうだい」


早矢は志乃にウインクをした。最後の一言が一番言いたかったことだろうか。


「ありがとうございます」


志乃は深々とお辞儀をした。

――この人には、何もかも見抜かれている。



 隣の部屋に戻ると、泰介は龍吾を抱いたまま、真面目に立っていた。


「ありがと」


早矢が龍吾を布団に寝かしつけた。


「最近、夜泣きがひどくて睡眠不足よ、お互い」


龍吾と早矢のことだろう。龍吾は昼に眠れるが、早矢は千鶴もいるためそうもいかない。女中に頼んで少し昼寝をすることもあるようだが、やはり細切れの睡眠では疲れが取れないようだ。


「おしめ変えても、乳をやっても、抱っこしても駄目。泣き声で千鶴も起きちゃうし」


泰介はもの言いたげな顔で早矢を見つめ、善悦はというと……千鶴をのせて馬になっている。孫の前では恥も外聞もないらしい。


「旦那さんは、そのうち治まるからって取り合ってくれないし。というか、自分だけ一人で寝ているんだから」


めずらしく口を尖らせている。早矢は疲れているのだろう。早矢の夫も医者なのだから、善悦や泰介を呼ばなくても、と思っていたがそういう事情があったようだ。


「わかった」


泰介はそう言って、寝ている龍吾の腹部と手首に触れた。眠りが深いのかほとんど反応はない。匙で生薬を配合していく。生薬は……釣藤鈎ちょうとうこう柴胡さいこなどだ。

釣藤鈎には興奮を鎮める作用が、柴胡には肝の乱れを整える作用がある。

その手つきを見ながら、早矢は泰介に言った。


「若い先生に説明してあげて」


泰介はちらりと志乃を見て一言。


抑肝散よくかんさんの母子同服」


そうか。「肝」は怒りをつかさどる所だ。その「肝」を抑える薬……要は、怒りや興奮をしずめる薬である。夜泣きにも効くだろう。

そして、母子同服。

子どもの病気や不調に対して子どもと親が同じ薬を飲む、という事だ。子どもは親の心身の影響を受けやすいからである。

志乃は頭を下げた。


「ありがとうございます」


泰介はかすかにうなずいた。そして早矢に言った。


「龍吾と一緒に姉さまものんで」


「え?」


怪訝な顔をしたが、すぐ言った。


「確かに、眠いのに寝てくれないと、こちらがイライラして、それが伝わってまた寝ない……悪循環だものね」


早矢は察しがいい。


 ふすまの外から声がかかる。


「早矢様、鐘の音が……」


善悦が即座に立ち上がり、縁側に出る。泰介、早矢、志乃も続く。

遠いがかすかに鐘の音が聞こえる。

これは……


「火事だな」


そう言った善悦が、女中を振り返り、火元を聞く。


「わかりませんが北の方角かと」


「北か」


善悦は眉間にしわを寄せて言った。泰介は声を低くしていった。


「父上……」


「すぐ行くぞ」


泰介は頷く。


「駕籠を……」


そう言った早矢に善悦は首を振る。


「今、北の方角へ行ってくれる、もの好きはおらん」


この屋敷から、和総の城は北西だ。御上医である善悦は駆けつけるつもりのようだ。泰介はそれに付き添うという事だろう。

そして、鐘が聞こえたら非難が原則だ。ただ、今のところ音は遠い。


「早矢は正光か正勝のいう事に従うように。必要があればうちへ行けばよい。志乃は戻れ」


正光は善悦の弟、早矢の義父だ。正勝は早矢の夫だ。

京極家はここから西。火元から今のところ遠い。鐘の音はおそらく届いていないだろう。


善悦と泰介はすぐに出立した。

送りに来た志乃は、通りの人がみな南へ、西へと駆けて行く姿を見て、火事という実感がわいた。

乾いた空気の奥の方、真北の方角でわずかに立ち上る黒煙。

さすがに炎は見えないことに一旦胸をなでおろす。

和総の豪華絢爛な天守閣も見えた。黒煙と天守閣には距離があるように見えるが、この乾いた風が吹きすさぶ中だ。油断はできない。

鐘の音に合わせるように、志乃の鼓動も、早まっていくのだった。


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