桂
佳乃は約1年前に隣町の真寿家に嫁いだ。地域で有名な老舗の菓子屋である。店の後継ぎ、伊作が佳乃に惚れ込み、何度もうどん屋に訪れてきた。その時は今の志乃のように、佳乃も店を手伝っていたからだ。伊作の家から正式な申し出があった際、佳乃自身は伊作の人柄や自分の年齢も考えて、前向きに考えたようだ。しかし、中々母が首を縦に振らなかった。理由は志乃にはわからない。結局、商いが順調で、金回りもよい家であり、またとない縁談だという事で、志乃の叔父や祖母などに後押しされる形で嫁ぐこととなった。うどん屋の看板娘が、菓子屋の看板娘となったのだ。商売も順調で、今年、伊作は父から店主の地位を譲り受けた。店が忙しく、中々実家に帰ってこられない姉が今夜は泊っていくという。
母は元々あまり詮索をしない人である。志乃が神近のところに出入りするのも、特に何も言わない。祖母は未婚の男性とともに過ごしていることにいい顔をしておらず、帰りが遅くなるとお小言が始まる。
夕食が終わり、母と姉妹の3人でお茶を飲みながら話す。久しぶりの事だ。母が珍しく、佳乃に体調について尋ねた。確かに、佳乃は少しやせたようだ。元々は健康的で、目鼻立ちがはっきりした美人である。今は落ち着いた大人の女性、という印象に変わった。人妻になったからだけではないようである。
「・・・離縁されるかもしれない。」佳乃は伏し目がちにつぶやいた。
「何かあったの。」母は佳乃の背中に手を当てて優しく尋ねた。
「1年近くたつのに子ができない。後継ぎができないと困ると義母に言われてから、特に夜になるといろいろ考えてしまって。最近あまり眠れず、食欲もないの。」先日のかおるの死産が佳乃の不安な気持ちに拍車をかけたのかもしれない。
「伊作さんは?」
「焦らなくていいよ、と言ってくれるけど、伊作さんの年齢を考えるとそろそろ子どもができないと。今後、店の存続について問題になるのは私でもわかる。このままだと、他の女性を娶るつもりが義母にあるみたい。」
「それで離縁という事になるかしら。伊作さんと仲がいいでしょう。」
「義母が子が生せない私をそのまま置いておいてくれるようには思えないもの。」
志乃は驚いた。志乃が物心ついた時から太陽のように光り輝いていた姉が、嫁いで1年でもう少しで消えてしまう三十日月のようになってしまった。かといって、義母を責めることはできない。夫の伊作の兄弟姉妹はというと、兄は幼い時に亡くなり、姉は嫁ぎ先から戻ってきている。子はいない。妹が同居しているが今のところ独り身だ。この状況では、伊作の妻に期待がかかるのは致し方ないだろう。一夜の里帰りを終え、佳乃は静かに帰っていった。
翌日、佳乃の手土産の肉桂団子を持って仁朗の家を訪れた。
「真寿家さんの肉桂団子、昔から本当においしいのよね。少しぴりりとした感じが好き。」
仁朗の母はさっそくお茶の準備をしている。
「先生のもとに持って行ってくれる。」お盆にお茶と団子を載せて、そろりそろりと向かう。先生へ、という事で中々いい器を使っている。割ってしまっては申し訳ない。
志乃が神近の小屋の前に行くと、話し声が聞こえた。聞いたことのない男性の声だ。少し興奮しているのか、大きい声でまくし立てている。一方、神近は落ち着いて穏やかに話しているのか、ただ聞いているのか、声はほとんど聞こえない。
突然扉が開いて、志乃は危うく湯飲みを倒すところだった。
「とにかく、待っていますからね。」小柄な日に焼けた男性が振り向きざまに神近に告げた。
「はいはい。」苦笑いしながら、神近が見送りにでる。すぐさま、志乃に気付いて
「お待たせしましたか。」
志乃は首を振る。「たった今来たところです。」
「それはよかった。どうぞ。」
そこから肉桂団子に始まり、佳乃や真寿家の話になった。
「子ができないのは女性のせい、というのはこの国のよくない考えです。」眉をひそめて神近は言った。「この団子に使われている、肉桂は薬にもなります。いろんな効能がありますが、子ができにくい体質の改善にも用いられます。女性だけでなく男性にも。」
「先生、にっけいは感じで「肉桂」と書きますか。」指で宙になぞる。
家で見つけた本に「桂」という文字と、木の絵が描いてあったという記憶を手繰り寄せた。
「肉桂の木はこのあたりでは見かけませんね。ちょっと散歩して探してみます。」団子を食べ終え、目を輝かせてそう言った後、神近はいそいそと器を片付けてきた。家で出会った仁朗もついてきた。肉桂の木のところに案内するようだ。さすが、木の事は詳しい。志乃は筆と紙を懐に入れ、二人を追いかけていく。しばらく歩くと隣町にある真寿家を通りかかった。
「ここが佳乃の店だよ。」仁朗はなぜか誇らしげだ。店は客が数人おり、佳乃と数人の女性が客の応対をしている。ふくよかな男性、伊作が店の奥で何か作業しているのが見える。
「お団子のお礼をしましょうか。」客がいなくなるのを見計らって、3人で店に入った。
「志乃、どうしたの?」佳乃が少し驚いている。
「肉桂の木を先生が探していてね。」仁朗がなぜか誇らしげに告げた。
奥から伊作が顔をのぞかせた。「噂の先生ですか。お会いできて光栄です。志乃ちゃん、元気だった?」いつも笑顔の伊作と話すと、こちらも自然と笑顔になる。
「お団子おいしかったです。いつもありがとうございます。」
「肉桂探しているの?裏に木があるよ。」
「この肉桂を使っているんですか。」仁朗が聞くと、
「先々代はそうだったみたいだけど、今は質がいいのが手に入るからね。見ますか?」
伊作が神近の方を振り向いた。そろそろ店じまいの時間のようだ。
「神近義道と申します。肉桂団子、とてもおいしく頂戴いたしました。よろしければ見せていただけますか。」
「佳乃、案内お願い。手を洗ってから後で行くよ。」
佳乃に連れられて店の裏に向かった。
きれいな形の葉だ、と志乃は思った。細長く、縦に見られる筋は凛としている。よく見ると淡黄色の小さな花が控えめに存在している。なるほど、一部樹皮が剥がれているところがある。これは先々代の時に剥がして肉桂を作ったのだろう。
仁朗は木全体や葉の形をすらすらと紙にかいた。
「夏に花が咲く。樹皮からはやや甘い香りがする。」神近がつぶやいた事を志乃が書き留める。
「薬にでもなるのですか。」駆け付けた伊作が訪ねた。
「血や気のめぐりをよくし、体を温めます。」
「・・・先生、子ができやすくなる薬はありますか。」伊作は神妙な面持ちで尋ねた。佳乃は一瞬目を見開き驚いた様子だったが、その後目を伏せた。
「薬だけで、というのは難しいです。ただ薬に加えて、生活を変えることでできやすくはなると思います。よろしければ少しお体の様子を見せていただけますか。」
家の中に案内してもらった。
まずは伊作だ。敷いた布団の上であおむけになる。神近は手慣れた様子で、舌を観察した後、手首に手を添える。
「失礼します。」腹部に手を当てて、場所を変えて少し抑える。
「お腹が緊張していますね。普段から気疲れはありますか。」
「先代から引き継いでから、ずっと気が張り詰めています。味を落としてはいけない、その一心でやっています。」
佳乃の診察に関しては、伊作及び本人の許可を得た。仁朗は部屋から出され、4人になった。
仰向けになった佳乃はとても緊張している。神近は気を遣い、声をかけながら腹部に触れる。
数か所軽い痛みを感じるところがあったようだ。
お腹の冷えに関して尋ねた。眠りが浅く、2か月程度は月経が来ていないという情報を得た。
「お二人にお薬を作ってまたお持ちします。もしよろしければ少し肉桂をとらせていただけますか。」
伊作は二つ返事だ。「ただ、店に仕入れている肉桂もありますのでそちらをお持ちいただいてもいいですよ。」
「いえ、よろしければこちらで作らせてください。」
仁朗が手慣れた様子で樹皮を一部採った。
「あと、失礼ながら申し上げさせていただきます。伊作様はお仕事柄、糖をたくさん召し上がっていると思います。糖の採りすぎも子ができにくくなると聞いたことがあります。採る量を減らすのが理想ですが、難しければ甜菜糖など糖の種類を変えるのも一つです。
佳乃様は血も気も滞って臓腑が冷えていらっしゃるご様子です。肉桂をお茶に入れて飲まれると、体も心も温まります。伊作様の許可が得られればお試しください。何より、初めてお会いしてわかるほど、お二人の情愛は強いです。生きていると様々な心の負担はありますが、二人笑いあって楽しく過ごしていただければと思います。」
伊作と佳乃、顔を見合わせて微笑む。「ありがとうございました。」
後日、志乃が薬を届けた。程なくして佳乃の月経が戻り、伊作は少しお腹が引っ込んだように見える。志乃は医術の力を感じた。もちろん届けた「薬」の直接の効能もあるだろう。ただ、二人にとって一番の薬となったのは神近の言葉だったのかもしれない。