桂
夏の陽は傾き、風にふっと混じる甘い香りが、幼い日の記憶をくすぐる。
真寿屋――佳乃が嫁いで一年が経つ。隣町で名の知れた老舗の菓子屋だ。
うどん屋の看板娘が、菓子屋の看板娘となった。
嫁入りの日の晴れ着の裾、志乃はいまも鮮やかに思い出せる。
しかし、その佳乃が今夜は久しぶりに実家に泊まるという。
胸の奥がざわめくのを、志乃は抑えきれなかった。
母は元々あまり詮索をしない人である。
志乃が神近のところに出入りするのを、祖母はあまりよく思っていない。
帰りが遅くなると祖母のお小言が始まる。しかし、母は特に何も言わない。
夕餉のあと、母と姉妹の三人で囲む湯飲みから、湯気が静かに立ちのぼる。
三人でゆっくりとお茶を飲むのは、久しぶりの事だ。
「体の具合はどう?」
母が尋ねた。
確かに、佳乃は少しやせたようだ。元々は健康的で、目鼻立ちがはっきりした美人である。今は落ち着いた、少し線の細いたおやかな女性、という印象に変わった。
人妻になったからだけではないようである。
その問いに、佳乃は一瞬だけ目を伏せた。
「……離縁されるかもしれないの。」
茶の香が遠のいた。
「一年経っても子ができないの。義母がね、“跡取りがいないと困る”って。夜になると、そればかり考えてしまうの。眠れなくて、食べても味がしない。」
「伊作さんは?」
「“焦らなくていい”って言ってくれる。でも……お義母様は、もう他の人を、と考えているみたい。」
声は震えていた。
志乃の胸に、冷たい針が刺さったようだった。
あの太陽のように明るかった姉が、今はもう少しで消えてしまう三十日月のように見えた。
母はただ黙って、佳乃の背を撫で続けた。
一夜の滞在を終え、佳乃は翌朝、静かに去った。
翌日、志乃は佳乃の手土産である肉桂団子を手に、仁朗の家を訪れた。
「真寿家さんの団子、おいしいのよねぇ。」
仁朗の母が嬉しそうに笑う。
志乃は茶を盆にのせ、神近の小屋へと向かった。
近づくと、聞き慣れぬ男の声が響いていた。
怒りとも、悲しみともつかぬ調子でまくしたてている。
神近の声は静かだった。嵐の中に灯る小さな灯火のように。
やがて、戸が勢いよく開いた。
「とにかく、先生、待っていますからね!」
小柄な男が吐き捨てるように言い残して去っていった。その背中を何となく目で追いかける。
「お待たせしましたか?」
神近の柔らかな声に、志乃は首を振った。
神近は茶をすすりながら団子を一口食べた。
「この肉桂、香りが深いですね。」
佳乃と真寿家の話をすると、神近の表情が少し曇った。
「子ができないのは女性のせい、というのは、この国の悪い癖です。」
穏やかな声に、静かな怒りが滲む。
「肉桂は“桂皮”ともいいます。いろんな効能がありますが、子ができにくい体質の改善にも用いられます。女性だけでなく男性にも。」
神近は立ち上がった。瞳がキラキラと輝いている。
楽しい遊びを見つけた少年のようだ。
時々神近はこんな表情を浮かべる。志乃までうきうきした気持ちにさせられる。
「この辺りに肉桂の木はないでしょうか。ちょっと散歩して探してみます。」
いつの間にか現れた仁朗が言った。
「じゃあ、俺が案内するよ。」
さすが、仁朗は木の事に詳しい。
志乃は筆と紙を懐に入れ、二人を追いかけていく。
しばらく歩くと隣町にある真寿家を通りかかった。
夕陽の金が川面に揺れる。蝉の声が遠く響く。
「ここが佳乃の店だよ。」
仁朗はなぜか誇らしげにいう。
店の軒先には、佳乃と客の姿があった。
客を見送る佳乃の笑顔は、少しだけ硬い。
「団子のお礼をしましょうか。」
神近が言った。客がいなくなるのを見計らって、三人で店に入った。
「志乃、どうしたの?」
佳乃が少し驚いている。
「先生が肉桂の木を探していて。」
仁朗が代わりに答えた。
店の奥から伊作が顔をのぞかせた。
「噂の先生ですか。お会いできて光栄です。志乃ちゃん、元気だった?」
いつも笑顔の伊作と話すと、こちらも自然と笑顔になる。丸顔で触ると柔らかそうな伊作の頬を、志乃は好きだ。菓子作りの腕も確かな、自慢の義兄である。
「はい。お団子おいしかったです。」
「肉桂探しているの?うちの裏にあるよ。」
「この肉桂を使っているんですか。」
仁朗が聞いた。
「先々代まではね。今は質がいいのが手に入るから使ってないよ。木を見ますか?」
伊作が神近の方を振り向いた。
「神近義道と申します。肉桂団子、とてもおいしく頂戴いたしました。よろしければ木を見せてください。」
「佳乃、案内お願い。手を洗ってから行くよ。」
佳乃に連れられて店の裏庭に回ると、香りを含んだ風が頬を撫でた。
そこに、一本の桂が立っていた。
きれいな形の葉だ、と志乃は思った。
よく見ると淡黄色の小さな花が控えめに咲いている。
なるほど、一部樹皮が剥がれているところがある。
これは剥がして肉桂を作ったのだろう。
「見事な木ですね。」
神近は目を細め、樹皮に指を添えた。
「夏の花。樹皮からは甘い香り……血と気を巡らせる香だ。」
志乃は筆で神近の言葉を記す。
ふと、伊作が小さく問うた。
「先生……子ができやすくなる薬は、あるのでしょうか。」
佳乃の肩がかすかに震えた。
神近は、ゆっくりと頷いた。
「薬だけでは難しいですが――加えて、生活を変えることで、できやすくはなると思います。よろしければ少しお体の様子を見せていただけますか。」
家の中に移動し、伊作が先に診察を受けた。
舌を見、脈をとり、仰向けになった伊作の腹を念入りに押さえる。
「お腹が張っていますね。気を張り詰めすぎている。普段から気疲れすることはありますか。」
伊作は小さく笑った。
「店を継いでから、味を落としてはいけないと、ずっと気が抜けなくて。」
次に佳乃。
神近は慎重に声をかけながら、腹部に手を添えた。
冷たい。わずかに痛む箇所がある。
「体が冷えていますね。月のものは?」
「……二月ほど来ていません。」
「なるほど。」
神近はしばらく沈黙し、穏やかに言った。
「お二人に薬をお作りします。肉桂を少し分けていただけますか。」
「どうぞ、いくらでも。」
伊作は即座に答えた。
神近は続けた。
「それと――糖を召し上がりすぎないように。甘味は心を癒やしますが、体を冷やすこともあります。佳乃さんは、肉桂をお茶に入れて飲んでください。温まるほどに、心もほどけます。」
そして微笑んだ。
「初めてお会いしてすぐにわかりました。お二人は深く結ばれている。どうか、焦らず、共に笑っていてください。」
伊作と佳乃は見つめ合い、はにかみながらも笑顔を浮かべた。
数日後、志乃は神近の作った薬を佳乃のもとへ届けた。
香りは優しく、どこか甘かった。
それからまもなく、佳乃の月経が戻った。
伊作のふっくらしていた顔は精悍になり、佳乃の頬には血の気が差した。
店の奥から、二人の笑い声が聞こえる。
志乃はそっと目を閉じた。
――神近の薬の力だけではない。
人の心に火を灯す言葉こそ、何よりの薬なのだと。
桂の葉が風に揺れ、柔らかな香りが空へ昇っていった。




