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さんさ 志乃の医薬譚〜恋せよ乙女、医の道をゆけ〜  作者: 朝久野智秋
和総編

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28.脱

「どこに行った?」


低く、苛立ちを含んだ男の声が、志乃の耳を刺した。

胸の奥が強く脈打ち、思わず息をのむ。

志乃のつたない記憶では、ここは建物に入ってから何度も折れ曲がった廊下の、その最奥にある部屋だった。外に通じていなかったため建物の内側にあるのだろう。何度も曲がったせいで、どちらへ進めば外に出られるのか、もはや見当もつかない。草履は入り口に置いてきた。

 

 男は、志乃が黙ってついてくることを疑っていない様子で、ちらりと振り返っただけで、つかんでいた腕を離した。その横顔に、ふと視線が引き寄せられる。


――どこかで見たことがあるような……。


だが、そんな思考はすぐに振り払った。今はそれどころではない。

志乃は、神近に会わせると言われ、巧みに言葉で誘われ、かどわかされかけているのだ。


 男は廊下の角で立ち止まり、顔だけを出して様子をうかがった。


――あそこが入口のようだ。


だがすぐに首を横に振る。人通りが多い。今出れば、たちまち見つかるだろう。

男は声を潜めて言った。


「草履、諦めるか」


そう言うと、来た道を少し戻り、襖を開けて先ほどと別の部屋へ入る。顔をのぞかせ、志乃を手招きした。

障子は腰の高さより上にしかないが、開けると外に通じているのが分かる。


――しかし、この高さを乗り越えるのは……。


その時だった。


「どこだ?」


複数の男の声と、荒々しい足音が迫ってくる。


――見つかる。


男は一瞬のためらいもなく志乃を抱きかかえ、障子の戸枠に乗せて座らせた。

あとは下へ飛び降りるだけ。

高さはある。だが、迷っている暇はない。


「急いで」


男は先に飛び降り、すぐに両手を伸ばした。

志乃は反動をつけ、身を投げる。男の胸に抱きとめられる形で、どうにか地に降りた。

直後、襖が開く音、荒々しい足音、荒い息遣い――不穏な音が次々と耳に押し寄せる。

男は志乃の肩を押し、建物の角を曲がると、しゃがみ込んだ。志乃もならって身を低くし、二人で息を殺す。

バン、と障子が開く音。

時の流れが、異様に遅く感じられた。

志乃は唾を飲み込み、音を立てぬよう必死に呼吸を抑える。


「いない」


その声と同時に、障子が閉まる音が響いた。

 

 男はようやく息を吸い、指を口に含んで、ぴゅっと小さく鳴らした。

しばらくして、同じ合図がどこかから返ってくる。

男は立ち上がり、音のした右奥を見てから、志乃に藍染の大きな布を渡した。


――かけろ、ということだろう。


確かに、女であるだけで目立つ。

志乃は促されるまま布で身を覆った。足元が少し見える程度で、これなら男女の区別はつかない。今日の着物が白地で、目立たぬ色であったことに、初めて救われた思いがした。


 導かれるまま進むと、奥から男たちの話し声が聞こえてきた。

男は志乃を建物と建物の隙間へと押し込み、その前に立って覆い隠すように構える。

懐から本を取り出し、何事もないように頁を開いた。


朔太郎さくたろう殿、この辺で女を見なかったか?」


志乃の胸が、ずきん、と強く跳ねた。

鼓動が激しすぎて、胸の音が聞こえてしまうのではないかと思うほど、全身が脈打つ。


「見てないな……」

「そうか」


足音が遠ざかる。

志乃は、全身の力が一気に抜けた。――守ってくれたのだ。

 

 朔太郎に布を引かれ、志乃は立ち上がる。先ほどとは違い、どこに腕があるのか分からなかったのだろう。

朔太郎の頬を汗が伝っていた。顔は冷静だが、さすがに今のは肝を冷やしたらしい。

太い道は危険だ。

志乃は朔太郎の背中を追い、建物の裏や隙間を縫うように進んだ。


 どれほど歩いただろうか。

不意に、志乃の目に見慣れた姿が飛び込んできた。

扉がさっと開かれ、二人は外へと導かれる。そこは医頼館の裏口だった。


「朔太郎殿、本当にありがとうございました」


仁朗が小声で言い、次いで志乃をきっと睨む。


「志乃のばか!」


よく分からないが、とにかく助かった。そして怒られている。

しかも仁朗は、昨日寝込んでいたせいか顔色が悪い。無理をさせてしまったのだろう。


「……ごめんなさい」


志乃が頭を垂れると、仁朗は表情を切り替え、帯元から二人分の草履を取り出した。


「上手く取ってきました」


仁朗は朔太郎に向かって、にっと笑う。どうやら仲が良いらしい。

朔太郎も、ここで初めて表情を緩めた。


「ありがたい」

「俺は代わってきます」


仁朗はさっと中へ戻り、裏口の戸を閉めた。


 そのとき初めて、朔太郎の足袋が茶色く汚れているのが目に入った。


「ありがとうございました」


志乃が見つめて言うと、朔太郎は軽く笑った。


「さっき、草履を履いてないのがばれなくてよかったな」


確かに、話しかけられた時気づかれていれば不審に思われただろう。


「こちらも姉が世話になっている。ここはまだ安全じゃない。こっちへ」


――姉?


朔太郎は志乃を覆っていた布を、ふわりと外した。街へ出るには、ない方が自然だ。



 朔太郎について町を進む。

気がつけば日は沈み、空は橙から紫、やがて深い黒へと変わっていた。

先ほど暗くなり始めていたからこそ、見つからなかったのだろう。藍の布が役に立った。


 茶屋に入り、奥の座敷へ通される。

汚れた足袋が気になり、できる限り汚れを落としてから部屋に入った。

朔太郎が座り、少し離れた座布団に志乃はちょこんと腰を下ろす。

改めて彼の顔を見る。引き締まった口元、ややつり目だがきつさはない。


――姉?


だが、まだ決め手に欠ける。


「ご迷惑、おかけしました」


志乃が深く頭を下げると、朔太郎は品のある唇を緩やかに曲げた。


「あんなにハラハラしたのは久しぶりだ。いたずらして、ばあやや姉様に追いかけられた時以来だな」


大人びた顔が、ふっと少年のようになる。

その横顔を見て、誰に似ているのか、ようやく分かった気がした。


「もしかして……朔太郎様のお姉さまは、花江様ですか?」



 花江は、茶谷家から京極家へと嫁いできた泰介の妻である。

彼女が近ごろ荒れている理由は、夫である泰介との関係だけではない――志乃には、そう思えてならなかった。

 

 花江が嫁ぐ折、茶谷家から連れてきた年上の付き人がいた。

ふじ」という名のその女性は、花江にとって乳母にも近い存在だったと聞く。その藤が体調を崩し、年の瀬から暇を出されてしまったのだ。

年が改まり、しばらくしてから代わりの女性が茶谷家より遣わされてきたが、藤ほどの信頼と安心を花江に与えるには至らなかったらしい。

 

 志乃には、高貴な姫君が抱える苦しみのすべてを量ることはできない。だが、住み慣れた場所を離れ、環境が一変したときの心細さや、誰にも頼れぬような寂しさなら、痛いほど分かる。


 京極家は広大な屋敷だ。日々の雑事に追われる使用人とは違い、姫君である花江には、本人が強く望まぬ限り「仕事」はない。あるのはただ、泰介の妻であるという役目だけ。その空白の時間が、かえって心をむしばんでいるのではないか――志乃はそう感じていた。

 

 藤と話したのは一度きりだ。早矢のもとから京極家へ戻ったときのことである。

その折に藤は、花江が花を愛でることを何より好むのだと、静かに教えてくれた。

だが、花江の部屋から庭園は遠い。視界に入るのは、その手前に立ち並ぶ薬部屋や使用人の住む棟ばかりで、どうにも殺風景だった。

 

 志乃は佐郷とともに庭の手入れを任されている。

その仕事の折、水仙をはじめとする草花を、花江の部屋から見える場所へと少しずつ移し植えた。目立たぬように、けれど確実に。

これくらいしか、自分にはできない。直接言葉を交わせる身分でもないのだから。

 

 ある朝のことだった。

移した草花に水をやっていると、背後で障子が静かに開いた。


「……あなたが?」


凛とした声に振り返ると、そこに花江が立っていた。


「花がお好きだと、聞きましたので……」


その日、志乃は初めて花江と正面から視線を交わした。そこに、不安や不満の炎は見当たらなかった。ただ、静かに揺れる澄んだ光があった。


「ありがとう」


透き通るようなその声が、志乃の胸にまっすぐ届いた。


 それ以来、花江は折に触れて声をかけてくれるようになり、いつの間にか志乃の名も覚えてくれていた。――確かに、そんなことがあったのだ。



「ご名答。姉から、志乃ちゃんのことは聞いてるよ」


志乃ちゃん――?


思いがけず親しげに呼ばれ、志乃は言葉を失った。

 

 朔太郎という名前から考えて、長男なのだろう。

御上医・茶谷壱歩ちゃやいちほの息子であるため、家督を継ぐ、

つまりゆくゆくは御上医になることが約束されているといっても過言ではない。そして医頼館にいる山鹿吉基やまがよしきは婿入りして姓を変えているが、もとは壱歩の弟だ。壱歩が長男、吉基が三男。

ということは――朔太郎は吉基の甥。

驚くほど高い身分でありながら、こんなにも気さくで、「志乃ちゃん」などと呼んでよいのだろうか。志乃はただ驚き、二の句が継げなかった。

運ばれてきた茶を静かに口に運びながら、今がいったい何の時間なのか、分からなくなっていた。

 

 志乃の不安を察したのか、朔太郎が穏やかに言う。


「今、兄様を待っている」


兄様?

長男ではないのか――混乱しつつも、志乃ははっと我に返った。


「神近先生が……どちらにいらっしゃるか、ご存じですか?」

「そっか。それで医頼館に潜り込んだんだっけ」


潜り込んだわけではない。

ちゃんと門番に許可を得て、正規の手続きを踏んで入ったはずだ。

まさか侵入者扱いされていたのだろうか――と、内心で門番に抗議しつつも、口には出さない。


「神近先生も往診から戻っている頃かな。兄様が来たら、代わりに僕が呼んでくるよ」


だから兄様って誰なのだ――と喉まで出かかった言葉を飲み込み、志乃は別の疑問を口にした。


「あの……私を助けたりして、大丈夫なのですか」


日が降り注ぐ中、あれほど大々的にかどわかされそうになるとは思ってもみなかった。医頼館は、志乃にとって安全な場所ではなかったのだ。


「俺、怖いものないから」


あまりにさらりと言われ、志乃は思わず朔太郎の顔をまじまじと見つめてしまう。涼やかで品のある顔立ちで、こんなことを言うとは。

 

 朔太郎は、突然声を立てて笑った。


「志乃ちゃんって面白いね。表情がころころ変わる。今のは冗談だよ。宗敬そうけい殿も吉基おじさんも腹黒すぎてまぁまぁ怖いよ。でも、ぼちぼち世代交代だよね……」


やはり、あまり怖がってはいないらしい。

宗敬、という名前を聞いたことがある。それがどういう内容だったかは今、思い出せないが。


「まぁ、兄さまと友が守ろうとしてる人を、俺も助けようかなって思っただけ」


友――仁朗。

兄様――?

花江の夫は泰介。その弟は……。もしかして、兄さまではなくて義兄にいさま?……


 思考が追いつく前に、ふすまを叩く音がした。


「はい」


返事とともにふすまが開く。現れたのは礼介だった。肩で息をし、走ってきたのが一目で分かる。

志乃の姿を認めると、彼はほっとしたように目を閉じた。


「朔太郎殿、本当にありがとう。恩に着る」

「いえ。久しぶりに血がたぎりましたよ。では、私は神近先生を探してきます」


朔太郎は志乃に手を振り、座敷を後にした。

去り際に見えた汚れた足袋。その背中を見送りながら、志乃は胸に重いものがのしかかるのを感じていた。何も返せない自分の小ささと、自分の行動が招いた事態の大きさ。


 襖が閉まるや否や、長い腕が志乃を強く抱きすくめた。


「志乃……よかった……」


礼介の胸に頬を押し当てられ、鼓動が耳に響く。

自分の心臓も同じ速さで打っている。

二人無言のまま、どれくらい経っただろうか。

礼介の体温が伝わって自分のものと溶け合う。次第に胸の高鳴りが、奇妙な安らぎへと変わっていったことに気づく。

体の熱を分け合うように、心も通わせられたらいいのに――そんなことを思う。


「……申し訳ありませんでした」


志乃は体を預けたまま、こう告げた。

単身で医頼館に入ったこと。礼介の講義が終わるまで待たなかったこと。知らぬ男について行ってしまったこと。そのすべてが、自分の判断の誤りだった。

そして、垂らしていた両腕の所在の答え合わせをするように、志乃は礼介の腰のあたりに腕を添えた。

 

 礼介は何も言わず、志乃を抱きしめる腕に力を込めた。自分から離れるな、と言わんばかりに。

礼介は語る。

講義の後、医者たちがどよめいていた。「女が歩いていた」と聞き、気になって門番に聞きに行った。神近先生を探しに来た女性が一刻いっときほど前に入ったという。志乃に違いない、と思って探すが見当たらない。仁朗と朔太郎に出会い、周囲の者に聞き込みをすると谷路寿たにみちひさしが女を連れて歩いていたと分かった。いったん二人と別れて、礼介は志乃と神近を探す。朔太郎と仁朗は東棟の玄関に女性の草履を見つけたため、朔太郎が中に入り、仁朗は脱走路の確保のため待機していた。そして、神近は往診中だった。


 志乃が付いて行った谷路という男は、山鹿宗敬と坂上芳尾さかがみよしおの配下だという。宗敬派は医頼館の中でも大きな勢力を持つ一派だそうだ。

もう一方の勢力、吉基派。その中心にいるのが山鹿吉基ではあるが、吉基は宗敬に表向きは一歩譲っているそうだ。それは山鹿元医の長女の婿が宗敬、次女の婿が吉基ということもあるようだが……

 

 とにかく事情を知らなかったとはいえ、素性も分からぬ男について行った自分の浅はかさを、志乃は再び悔いた。仁朗に「ばか」と言われても、返す言葉はない。


「見張られていて中々部屋を出られなかったのですが、突然見張りの男性がいなくなって……」


志乃の疑問を伝えると、


「一服盛ったかな」


礼介が事も無げに言った。さすがに冗談と思いたいが、朔太郎ならやりかねない。



 静寂に響く、ふすまを叩く音。

礼介は優しく腕をほどいて襖を開けた。

神近だった。

悲壮な表情に、志乃はまた胸を締め付けられる。


大事おおごとにしてしまって、すみません」


志乃が頭を下げ、女性の容態を伝えると、神近は礼介に向かって静かに頷いた。


「私が向かいます。志乃さんは、帰りなさい」


同行を願い出ようとしたが、言葉は喉で止まった。それは許されない、という強い響きがあったからだ。そして、礼介に頷いたのは志乃を連れて帰るように、という意味なのだろう。


「怖い思いをさせてしまって、申し訳なかったね」


去り際の神近の声は、ひどく寂しげだった。

志乃は何も言えず、ただ深く頭を下げて見送った。


「伏魔殿だな……志乃にとっても、志乃の父様にとっても」


礼介の言葉に、志乃は顔を上げた。父の話をしたことはない。それでも、礼介は何かを知っている――そんな気がした。


「帰ろう」


その一言で、張り詰めていたものが切れた。

志乃は滲んだ視界を袖で拭い、礼介と並んで、静かな帰路についた。


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