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さんさ 志乃の医薬譚〜恋せよ乙女、医の道をゆけ〜  作者: 朝久野智秋
和総編

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 遠くで、山鳩の声が響く。

これほど空が澄み渡る日は、決まって寒さが厳しい。見上げた空の青は不思議だ。夏にはあれほど濃く、生命をはらんだ青だったものが、今は頼りなげな淡い水色に薄められている。

鍬を振るい、土を掘り返す。

藤木忠直ふじきただなおはすくい上げた土を少しだけ口に含み、しばらく舌の上で転がしてから、静かに吐き出す。

――土が育っている。


 ここは、大都の中心部から少し離れた薬草園。藤木が管理を任されている土地だ。

土は正直だ。人の思惑や立場など知らぬ顔で、育つべきものを育てる。

たもとには、神近からの手紙が入っていた。持ってこなくてもよかったはずなのに、朝、何の気なしに懐へ滑り込ませたものだ。

神近は、また連れてくるつもりらしい。二条先生の娘を。師匠の娘だからといって、そこまで心を砕く必要があるだろうか。

藤木には、神近の考えがどうにも理解できなかった。

 

 山鳩の声が、先ほどよりも近くで聞こえた。

まるで呼びかけられたように感じ、藤木は顔を上げる。

……そうか。二条先生の娘を、あの時の彼女と重ねているのか。

「まったく、手のかかる……」

藤木のつぶやきは澄んだ空気に溶けていく。


 今度ははっきりと、遠くから自分を呼ぶ声がした。

「藤木さま。瑞安寺ずいあんじ様がお呼びです」

藤木は鍬を肩に担ぎ、足早にその場を後にした。



 今日は、どうにも変わった組み合わせだ。

志乃は前を歩く二人の長身の背中を見つめて、そう思った。

背丈はほぼ同じ。神近のほうが栗毛と呼んでもよい色合いで、礼介は艶のある黒髪だ。

神近は黒色の十徳を羽織っている。礼介も普段、仕事の際は紺色の十徳を身につけているが、今日はそれを控えたのだろう、淡い紺色の着物を着ているだけだった。

今日はあくまでも付き人、という立場なのだろうか。

出立前、志乃が持とうとした薬箱を、礼介は何も言わず右手に取った。

そのせいで志乃は手持無沙汰になり、見目麗しい医者二人の後ろをついて行く、よくわからない娘のような格好になっている。

志乃は、ふと礼介の髪に目を留めた。

もし礼介が御上医を継げば、この髪も失われる。現に、礼介の父で御上医を務める善悦は剃髪している。

――嫌だな。

そう思ってしまう自分に、志乃は小さく息をのんだ。

和総は都会だからか医者はピンキリだ。腕が良くなくて人気のない医者は、この仕事だけでは食べていけない。医頼館に属する、または医頼館出身の医者はそれだけでエリートだ。そして、その頂点ともいえる御上医の地位は、限りなく高い。そして、それを礼介が望んでいないことも、志乃は知っている。


 佐郷がある日、口を歪めて言った。


「山鹿家への婿入り、断るなんて狂気の沙汰だ!御上医になる絶好の機会だったのに。最近の礼介様は何を考えているやら……そして、善悦様も。なぁ、志乃」


なぁ、と言われても。私とは何の関係もない……はずだ。そう信じたい。


 礼介が神近の往診について行くのは、これが初めてだった。

仁朗が熱で寝込んでいるという。珍しいこともあるものだ。

訪ねたのは、質屋を営む家の屋敷だった。門が開かれ、家人が出迎える。下男と女中だろうか、二人は神近に向かって深く頭を下げた。

顔を上げた瞬間、男は真っ青になり、女は真っ赤になった。

その様子に、志乃は後ろで小さく苦笑する。

どれほど有名なのだろう。まさか、京極家のご子息が薬箱を持ってついて来るとは、夢にも思わなかったに違いない。恐れ多いと思うか、間近で見てもやはり素敵だと思うか――男女で反応が分かれたようだ。

志乃にすれば、神近も礼介も甲乙つけがたい整った顔立ちだが、和総での知名度は礼介が上だ。

もっとも、医術に彼らの美しさは、まったく関係がない。

 

 通された座敷には、布団に横たわる初老の男性と、その傍らに初老の女性、さらに若い女性が座っていた。

男性は眉間に深い皺を刻んでいる。

奥方だろうか、初老の女性が深々と頭を下げた。

「お腹の痛みが、続いているとのことですね」

神近がそう声をかけると、男性は医者が来たと気づいて身を起こそうとした。

「そのままで結構です」

神近に制され、男性は再び布団に身を預ける。

年の頃は六十前後だろう。もともと食は細くなっていたようだ。昨日から腹痛が続き、往診を頼んだと聞いている。

顔色はやや白い。礼介の後に脈に触れさせてもらうと、少し早かった。

着物をめくった腹部、へそ下には親指ほどの長さの傷跡がある。

「こちらは?」

「若い時分、ひどい喧嘩で……刺された痕だ。痛みで意識はなかったが、内臓が見えていたと聞いた。近くに腕のいい医者がいて、助かった」

隣の若い女性――おそらく嫁だろう――は、血の気を失った顔でそれを聞いている。

その傷を中心に、腹部の下が、まるで何か生き物がうごめいているかのように盛り上がったかと思うと、別の場所がへこむ。

明らかに異様な動きに、志乃は思わず目を見張った。

礼介を見ると、落ち着いた表情をしている。初めて見る症状ではないのか。それとも、初めてでも顔に出さないのか。

「お腹の痛みは、今までも?」

男性は顔をしかめ、吐き気があるのか口元を押さえる。妻が代わりに答えた。

「昔から、ときどきお腹が張ることはありました。ここ最近は痛みが出て、昨日から食事も摂れていません」

神近がやさしく腹部に手を当てる。あばら骨の浮き出た胸とは対照的に、腹は明らかに上にせり出している。

続いて礼介が触診し、指で軽く腹部を叩いた。高く、ぽんぽんという音が返ってくる。

「かなり張っていますね」

神近は静かに頷いた。

 

 屋敷の一室を借り、三人で話し合う。

「便を下すのがよいでしょうか。虚弱でもあり、腹部も冷えていました……桂枝加芍薬大黄湯けいしかしゃくやくだいおうとうはどうでしょう」

礼介は向かいに座る神近を、まっすぐに見据えて言った。

志乃も同じことを考えていた。あれほど張っているのだ。便秘があるのだろう。薬はともかく、考え方には賛成だ。

「それも一つですね」

神近はそう答えたが、その表情から、別の考えがあることが伝わってくる。

「ただ、便通だけが問題ではないでしょう……」

二人は考えを巡らせる。

「傷……」

あの腹部の特徴は、何よりそれだ。だが、志乃はその先を言葉にできない。

「傷のため、通り道が狭くなっている……とかでしょうか」

代わりに礼介が口を開いた。

神近は微笑んで頷いた。

「その通りです。傷のところに、便の通り道である腸の一部が癒着しているのでしょう。礼介先生の言った腹部の冷えも、大きく関係しています」

礼介は力強く頷く。

「冬の寒さと、本人の体力の低下……それが重なって、腸の動きが悪くなっているのですね」

腸――食べ物が通る、長い管。

志乃は最近、腑分ふわけについて書かれた書物で、この臓物のことを知った。初めはどうしても描かれた絵から目を背けてしまったが、次第に慣れた。

その書物は礼介に借りたものだ。医頼館では本医学を学び、このようなことは教えられない。だが、時代は変わりつつある。礼介は神近の弟子となり、西医学を学ぶのだから、必要な知識なのだろう。

「そう思います」

神近の言葉を受けて、志乃の頭に一つの処方が浮かんだ。

腹部が冷え、痛み、皮膚の下から上下するような動きがあるときに使う薬――

大建中湯だいけんちゅうとうはどうでしょう。腹部を温め、痛みと張りを抑える……」

礼介の言葉に、神近ははっきりと頷いた。

「賛成です」

やはり礼介は優秀だ。

「傷で腸が癒着する」という初めて聞く考えをすぐに理解し、次へ進む。志乃は、自分の反応の遅さを思い知らされた。

神近の言葉を合図に、礼介が薬箱を開け、志乃に匙を渡す。

感心している暇も、落ち込んでいる暇もない。

生薬は――

体を温める山椒さんしょう乾姜かんきょう

不足する気を補う人参と膠飴こうい

膠飴と聞き、去年の元旦に神近が自作していた茶色の甘い飴玉を思い出す。滋養に良いに違いない。

煎じ薬を飲むよう家人に伝え、三人は次の往診先へ向かった。

 

 今日は奇跡のような往診だ。

志乃にとっても、病の人にとっても、これ以上ないほど贅沢な時間。

けれど――大都に行けば、こんな日々が続くのだろうか。

それはきっと難しい。神近は高貴な人々のもとへ召される。礼介はそこに出入りできても、私は……。

血の気が引くのを感じる。

余計な心配だ。だが、慎重であることは悪くない。


「腸が詰まる原因は、いくつもあります」

神近が言い、志乃を振り返る。

「今の方のように、冷えで動きが悪くなる場合。傷や手術で癒着する場合。他には?」

「便などで、ふさがれることです」

「そうですね。高度な便秘でも起きます。では、あとは?」

 志乃が答えを探しているうちに、次の屋敷へ着いてしまった。



 商家の奥へと案内されるあいだ、幾重もの視線が志乃に注がれていた。

ささやき声、足を止める気配、ひそやかな好奇のまなざし。

礼介はすっかり慣れているのか、まるで気にも留めない様子で歩を進める。視線が自分に向けられているのではないと分かっていても、志乃の胸は落ち着かず、自然と肩に力が入った。

 

 通された部屋には、白髪の女性が布団の上に半身を起こし、腹を抱えて座っていた。苦悶の色が顔に濃く刻まれている。

ほどなくして壮年の男女が呼ばれて入ってきた。男性はこの家の主であり、白髪の女性の息子。女性はその嫁であった。


「母は……昨日から腹が痛むのか、しきりにお腹をさすっておりまして。何度か吐いています」


神近は短く頷き、白髪の女性を横にさせると、無駄のない手つきで診察を始めた。

志乃も後に続く。

肉づきはよい。だが、腹部は異様なまでに張っている。先ほど見たようなうごめきはないが、しばらく手を当てていると、確かに手のひらの下で何かが動いた。

礼介の仕草を思い出し、指で軽く叩く。

――高く乾いた、ぽん、ぽん、という音。

手足に触れれば温もりがあるのに、腹だけが冷えている。

志乃はふと、神近の診察を思い返した。

いつもは舌の色や形を見るはずなのに、今日は口の中全体をじっと見ていた。


「ここ二、三日は、何を召し上がりましたか」


神近が聞くと、嫁が答える。


「昨日の昼は大根の煮物と、餅の入った雑煮です。ただ……最近は食事をしたかどうかもお忘れになり、手の届くものを口にしてしまうのです。部屋には置かないようにしているのですが、家の者に言いつけて持ってこさせることもあって……」


「餅は、どれほど召し上がりましたか」


 給仕の女性を呼び、確認すると、お代わりをして三つほど食べたという。しかも正月以降、米よりも餅を好んでいたらしい。


「一応……小さく切ってはありましたが……」


給仕の女性の表情が曇る。責められると思ったのだろう。

そのとき、志乃の中で何かがつながった。

神近が見ていたのは、歯――。

志乃は断って、白髪の女性の口を覗かせてもらった。

歯は……一つもなかった。

餅は温かいうちは柔らかいが、冷えれば固まる。

小さく切ってあっても、噛めなければさらに細かくならない。

そうして腸の中で、餅の塊が石垣のように重なれば――塞がる。


「……しばらく、食事を控えたほうがよいでしょうか」


志乃は小声で神近に尋ねた。


「ええ。強い下剤は、かえって痛みを強めます。固形物は避け、水分を吐かない程度に、少量ずつ」

「薬は……先ほどと同じで?」


礼介の問いに、神近は静かに答える。


「さじ加減が要ります。腹を温め、自然に腸が動くのを待ちましょう」


絶食が何より重要であること、腹部を温めること、薬は吐かない範囲で少しずつ――神近は丁寧に家人へ伝えた。

 

 明日、神近と礼介は医頼館へ行かなければならない。


「明日は夜になりますが……」

神近が言いかけたとき、


「昼間に、私が伺ってもよろしいでしょうか」

志乃が申し出る。神近は礼介を見た。

「屋敷の仕事の合間で……」


礼介は頷いた。

万津まつに言っておく。明日は屋敷の仕事は免じよう。急ぎ神近先生へ伝えることがあれば、佐郷を使いに出せばいい」


そう言って、礼介は志乃の肩にそっと手を置き、穏やかに微笑んだ。



 翌日、志乃は仕事の合間を縫って再び屋敷を訪れた。

神近の言葉が胸に残っている。

――改善が乏しければ、下剤を使わなければならない。だがつまりがひどければ逆効果だ。異国では……命を救うために手術、つまり腹を切ることもあると。


 白髪の女性は腹をさすっていなかった。

腹部の張りは残っているが、昨日より柔らかい。しかし布団に伏せ、明らかに力がない。

薬は吐いてしまい、一口しか飲めなかったという。わずかに通じはあった。

だが、飲まず食わずで一日半。

脈は速く、皮膚は乾き、舌も潤いを失っている。

志乃は持参した塩と糖を水に溶かした。


「水が足りていません。少しずつ、飲んでください」


だが、口に含んでは吐き出してしまう。味が気に入らないのだろうか。吐き気のため吐いているようではない。


「あんたは……誰だ?」

今まで黙っていた白髪の女性が、鋭く志乃をにらんだ。


「お医者さんですよ」

嫁が言っても、女性は納得しない。

それにしても、お医者さん、と言われた……

神近がそのように私のことを説明してくれたのだろうか。

こそばゆいような、誇らしいような温かい塊が胸で膨らむ。


気を引き締めて、志乃が水分の大切さを説明しても、女性の反応は薄い。


「最近は……ほとんど話が通じなくて……」


高齢による認知機能の低下。それでも、水分を取らなければ命に関わる。


「お好きな飲み物は?」

「煎茶です」


利尿の作用があると聞く。だが、飲まないよりは――。

冷ました煎茶を少量ずつ飲ませるよう、嫁に伝えた。

この状況を神近に相談すべきだろう。屋敷に戻り佐郷にお願いするか……

いや、昼から出かけると言っていた。

自分で行くしかない。志乃は足を速めた。



 医頼館には以前、通りがかったことがある。しかし、今から入ろうと思うとその門扉から威圧感すら感じられる。

達筆な「医頼館」の文字。創始者の筆だろうか。

恐る恐る扉を叩くと、小さな戸から男が顔を出し、鋭くにらんだ。


「神近先生に急ぎお伝えしたいことがあります。弟子の志乃と申します」


「弟子」という言葉に、男の目が見開かれ、無言で門が開いた。

中は思いのほか広い。

紺の瓦と白壁の建物が並び、男たちが行き交う。女性の姿はない。

神近の居場所を尋ねても、門番は首を振る。探すしかないだろう。


 あちこちから視線が突き刺さる。 

かぎなれた香りに部屋をのぞくと百味箪笥のある薬房。大きな声に顔を向けると、議論に白熱する医者たち。

神近も仁朗もいない。もしかすると、仁朗は発熱のため来ていない可能性もある。

後悔が胸をよぎった、そのとき――。

聞き覚えのある声。

のぞくとたくさんの男たちの背中、そしてその奥に講義をする礼介の姿があった。凛とした声。ほっとしたのも束の間、今は声をかけられないことに気付く。

終わるのを待とうと部屋の前にしばし立っていたが、終わりが見えない。 

さらに探し回ることとした。


「おい」


突然、背後から声がかかり、志乃は肩を震わせた。


「何をしている」

「神近先生の弟子です……先生に急ぎお伝えすることが……」

「ほう……私が神近殿を探してやろう。こちらへ」


迷いながらも、志乃は従うこととした。確かに自力で探すのは無理だ。

 

 通された座敷。

普段講義で使うのだろうか。幾つか文机が置いてある。それだけの飾り気のない部屋だ。

「しばし待て」と言い、男は去る。

時間だけが過ぎる。足音が近づいたと思ったら遠ざかる。人通りはそれなりにあるが、それにしても誰もこの部屋には来ない。

ふすまを開けて外をのぞくと、男が立っている――見張り、なのだろうか?

夕陽が障子を染めるころ、志乃は決意した。

ここを出よう。見張られているのはどう考えてもおかしい。


 耳をそばだてていると、足音が遠ざかる。

もしかして。

ふすまを開けて恐る恐るのぞくと、立っていた男がいない!

右か左か……

右!

一つ目の角を曲がろうとした瞬間、近づいてくる男たちの声。


「でかしたな、谷路たにみち

「飛んで火に入る何とやら、ですね」

「いっそのこと、あの娘、私の養女にでもするか」

「宗敬様、ご冗談を。」


危険だ、と本能が叫ぶ。

 

 反対の道へ、と振り返った瞬間、腕をつかまれた。

声を上げかけた口を、手で塞がれる。


「ついて来て。怖いおじさんたちにさらわれるよ」


志乃の顔のすぐ横には、整った顔の男。敵意は……ない?

引きずられようにして導かれ、志乃は心の中で叫ぶ。

――神近先生、礼介様、仁ちゃん、助けて。

その声は、果たして届くのだろうか。


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