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さんさ 志乃の医薬譚〜恋せよ乙女、医の道をゆけ〜  作者: 朝久野智秋
和総編

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 ガシャン――。

不穏な音が、ふすま越しに響いた。

志乃と顔を見合わせた多袈たけは、肩をすくめて首を振る。最近はもう、驚くほどのことでもない、と言いたげだった。


 ここは泰介の妻、花江(はなえ)の部屋である。

茶谷総家で御上医を務める茶谷壱歩ちゃやいちほ。その娘・花江が嫁いで、まだひと月ほどしか経っていない。初めは波風も立たず、穏やかに過ごしているようだった。しかし、近頃は何もかもが気に入らぬ様子だ、と先ほど聞いたところだ。

先ほど、佐郷に伴われて新年の挨拶におもむいた時の花江は、つり上がった目元ながら、鼻も口も小ぶりで、上品な微笑をたたえていた。その笑顔が、今は遠い。


 恐る恐るふすまを開けて部屋へ入ると、膳の上では茶碗も汁椀も無残にひっくり返っていた。

こぼれた汁が膳の脚を伝い、畳に濃い染みを広げている。


「さっさと片付けて」


花江は、刃物のような視線を投げて、短く言い放った。

志乃は何も言わず、畳をふき、視線を上げることもなく膳を持って部屋を出た。


 誰が悪い、という話ではないのだろう。泰介はここ数日、夜遅くまで帰ってこないという。

年末までは夜に出歩くこともなく、屋敷で働く者たちは安堵していた。しかし、年明けからは元通り、というわけだ。

独りで膳に向かう寂しさは、察するに余りある。


 部屋を離れた廊下で、多袈がぽつりと漏らした。


「……いつまで持つやら」


親同士が決めた婚姻。

名家の娘であれば、気位が高いのも無理はない。そして、自分をないがしろにする夫は許せないだろう。


「最近は、床も別らしいし……」


多袈の溜息が重なる。

新しい風が吹くかと思われた京極家に、漂うのは嵐の気配ばかりだった。



 志乃は膳を手に、礼介の部屋へ向かった。

中から話し声が聞こえ、ふすまの前で足を止める。

「神近先生」――その名が聞こえた気がして、思わず耳を澄ました。


やがてふすまが開き、佐郷が姿を現す。


「姫のご様子は?」

「……ご機嫌斜めです」

「……だろうな」


母と同じように、深い溜息をついて去っていく。その背に、長年の苦労がにじんでいた。

志乃はふすまの外で手をつき、静かに頭を下げる。


「お休み、ありがとうございました」


足楢を早朝に出て、昼過ぎに屋敷についた。

礼介と顔を合わせるのは、戻ってきてからこれが初めてだった。


「あぁ」


返ってきた声は短く、どこか熱を帯びている。

顔を上げると、礼介の白い肌はほんのりと桃色に染まっていた。先ほどまで、客人や善悦と酒席を囲んでいたと聞いている。普段はほとんど酒を口にしない人だ。


志乃は膳を差し出し、部屋の隅に控えていた。


「ゆっくりできたか」

「はい。ありがとうございました」


深々と頭を下げる。

沈黙が落ちた。礼介は箸を取らず、膳を見つめている。


「お茶にされますか」

「……そうしてくれ」


 志乃は台所に戻り、湯を沸かして茶をいれている。

さすが名家は茶葉も違う。大康堂のものも良かったが、こちらのものの方が数段香りが上だと思う。

そして、この香りは志乃の好みだった。


 茶葉ちゃよう――生薬としては目と頭をすっきりさせる効果がある。

そして、茶葉が入った川芎茶調散せんきゅうちゃちょうさん

頭が痛いのに効く薬だという、書の一節が脳裏をよぎる。


 礼介の部屋に戻り、志乃が湯飲みを膳に置こうとした、その瞬間だった。

手首を、強くつかまれる。

湯飲みが倒れそうになり、志乃は反射的に手首に力を入れた。

とっさに顔を上げると、礼介が真っ直ぐこちらを見ていた。沈んだ寂しさを宿した瞳だ。


「志乃……好いた男はいるか」


胸が大きく跳ねた。

どう返すべきかわからず、感じたままに言葉を出した。


「礼介様……痛いです」

「……すまない」


慌てて手が離される。

志乃は湯飲みを置いて、一歩さがった。そして礼介に向き直って座る。


 さて、次はどう答えるべきか。

――とりあえず、嘘はつかないほうがいい。直感がそう告げていた。


「……います」


礼介は目を見開き、にじり寄る。


「本当か」

「……本当です」


「相手は……何と言っている」

「……何も。私の気持ちは伝えていませんから」


礼介は大きく息を吐いた。


「酔ってお辛いようでしたら、お休みの支度を――」

「酔ってなどいない」


そっぽを向いたまま、低く言う。


「俺が……知っている男か」


何と難しい問いだろう。知っているも何も……

突然志乃の中に、礼介の言動を愛おしく思う気持ちが湧き上がってきた。

そして、相手は酔っている。嘘をつかなければいいだろう。


「はい」


礼介の肩が、びくりと揺れた。


「医者か」

「……はい。とりあえずお茶を飲まれたほうが……」


せっかくのいい香りのお茶がもったいない。でも酔っているのであれば冷めていた方が良いか。

自分の思考も定まっていない。この状況では冷静になれない。

構わずに礼介は問いを重ねてくる。


「背は高いか」

「……高いです」


気の毒だが、今の質問で仁朗は除外されただろう。間髪入れず、次が飛ぶ。


「異国に行ったことは?」


思わず吹き出しそうになる。

そんな人、ほとんどいないではないか。神近以外に。


「……ないと思います」


礼介は安堵の表情を浮かべ、ぐっと距離をつめてきた。吐息がかかるほどに。

次の瞬間、ふっと視界から礼介の顔が消える。

正座する志乃の太ももに、頭を預けてきたのだ。


「……お前がいない間、いろいろ考えた。とりあえず、安心した」


そう言って、ほどなく穏やかな寝息が聞こえ始めた。


――誰なのか、聞けばよかったのに。

心でつぶやきながらも、それを聞かれるのを少し怖れていた自分がいる。

今は、この距離のままでいい。

礼介の額にかかる髪を、優しく払った。

長いまつ毛に、きれいな曲線を描く鼻梁。寝息のリズムに志乃の心は温まっていく。


 酒は、人の心の扉をこじ開けるという。

いつか、酔いに頼らずこんなことを語る日が来るのだろうか。

志乃は、知らぬ間に口元が緩んでいることに気づいた。



 翌日。

広間へ呼ばれると、礼介と向かい合う神近の姿があった。

その横に、見覚えのある男――才司だ。

血の気が引く。あの日につかまれた腕の痛みが蘇り、思わず右腕に手を当てた。


「善悦先生には許可をいただきました」

「ありがとうございます」


二人の会話を聞きながら、礼介の斜め後ろに座る。

才司の視線を感じたが、見返さない。私は、まだそこまで大人ではない。

志乃に優しいまなざしを向けて、神近は言った。


「足楢の皆さんは、変わりありませんでしたか」

「はい」


姉が無事出産したことを言おうと一瞬考えたが、部外者がいるため控えることにした。

神近が言葉を続ける。


「先に、才司さんから話があるそうです」


志乃はどういう顔をしていいか分からず、ただうつむく。

才司は深く頭を下げた。


「志乃……本当にすまなかった。嘘をついて、お前を傷つけた。自分を守るためだったが、許されることではない。今も、お前が必死に店のために働いていた姿が浮かぶ。本当に……申し訳なかった」


喉がつかえ、吐き気がする。えぐられた心の傷は、まだ完全には癒えていない。

神近が補足する。


「才司さんは大康堂を出て、独り立ちされました。克之助様に命じられるまま志乃さんに罪を着せてしまったと、私に打ち明けてくれたのです。そして、志乃さんにどうしても謝りたいと……」


 志乃は目を閉じる。

思わず恨み言を言いたくなってしまう。でも、それで誰か幸せになるだろうか。

そして、私自身もいい気分になるだろうか。答えははっきりしている。否、だ。

人を傷つけても自分も傷つくだけだ。

何といっても、自分を支えてくれる神近も礼介もそばにいるではないか。そして、仁朗に早矢、母もいる。志乃を信じてくれる人たちのためにも、ゆるそう。

才司のことも、そして自分のことも。

私は今まで自分も赦せなかったのだ。こうなったのは自分に落ち度があったのだろう、と。

そして、これでやっと心が解放される。


 志乃はまっすぐ才司を見つめた。


「……教えてくださって、ありがとうございました」


深く頭を下げた。

実のところ、謝ってもらっても大康堂で私は悪者のままだ。

しかし、今更それもどうでもいいことのように思えてきた。

自分にとって怖かったのは、「やっていない」ということを証明できなかったことだ。

克之助個人の悪意が元凶なのか、克之助が誰かに命じられてやったことかは分からない。背景で大きな力が働いている可能性もあるだろう。

しかし、才司の告白のおかげで、大事な人たちの前で無実が証明されたではないか。

今までの垂れ込めていた雲が去り、晴れ晴れとした気持ちだ。

そして迷いを捨てた。胸を張って神近先生の弟子のままでいよう。


「才司様なら、きっと良い商いをされます。応援しています」


自然に、笑顔がこぼれた。才司は涙を拭っている。

そのとき、肩に温かな手が置かれた。礼介の手だった。

心が冷えたから、人の手の温かみを感じられる。

暗闇の中にいたから、光が見いだせる。

人とは強いものだ。



 佐郷が駆け込んできた。神近に往診の依頼だという。

神近はそれを聞きながら、志乃の方を見つめた。


「私も……行ってもよろしいですか。」


勇気を出して言い、神近と礼介それぞれに視線を投げた。

二人ともうなずく。

志乃はたもとに右手を入れ、紙と筆がある事を確認した。

神近に付いて歩きだす。かつてのように。


 門の所で仁朗が待っていた。神近の後ろにいた志乃に向かってうなずく。

神近は歩きながら、志乃を振り返り言った。


「心の臓に痛みがある御仁に、昨日、当帰湯とうきとうを出したのですが……」


自分自身を信じられれば、人に誤解されていたとしても堂々とすればいい。

誰に対して遠慮が必要か。

私は強くなる。私が弱ければ病に勝てないし、病に苦しむ人に力を与えられない。

神近と仁朗の背を見つめながら、志乃の心に再び炎がともった。


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