赦
ガシャン――。
不穏な音が、ふすま越しに響いた。
志乃と顔を見合わせた多袈は、肩をすくめて首を振る。最近はもう、驚くほどのことでもない、と言いたげだった。
ここは泰介の妻、花江の部屋である。
茶谷総家で御上医を務める茶谷壱歩。その娘・花江が嫁いで、まだひと月ほどしか経っていない。初めは波風も立たず、穏やかに過ごしているようだった。しかし、近頃は何もかもが気に入らぬ様子だ、と先ほど聞いたところだ。
先ほど、佐郷に伴われて新年の挨拶におもむいた時の花江は、つり上がった目元ながら、鼻も口も小ぶりで、上品な微笑をたたえていた。その笑顔が、今は遠い。
恐る恐るふすまを開けて部屋へ入ると、膳の上では茶碗も汁椀も無残にひっくり返っていた。
こぼれた汁が膳の脚を伝い、畳に濃い染みを広げている。
「さっさと片付けて」
花江は、刃物のような視線を投げて、短く言い放った。
志乃は何も言わず、畳をふき、視線を上げることもなく膳を持って部屋を出た。
誰が悪い、という話ではないのだろう。泰介はここ数日、夜遅くまで帰ってこないという。
年末までは夜に出歩くこともなく、屋敷で働く者たちは安堵していた。しかし、年明けからは元通り、というわけだ。
独りで膳に向かう寂しさは、察するに余りある。
部屋を離れた廊下で、多袈がぽつりと漏らした。
「……いつまで持つやら」
親同士が決めた婚姻。
名家の娘であれば、気位が高いのも無理はない。そして、自分をないがしろにする夫は許せないだろう。
「最近は、床も別らしいし……」
多袈の溜息が重なる。
新しい風が吹くかと思われた京極家に、漂うのは嵐の気配ばかりだった。
*
志乃は膳を手に、礼介の部屋へ向かった。
中から話し声が聞こえ、ふすまの前で足を止める。
「神近先生」――その名が聞こえた気がして、思わず耳を澄ました。
やがてふすまが開き、佐郷が姿を現す。
「姫のご様子は?」
「……ご機嫌斜めです」
「……だろうな」
母と同じように、深い溜息をついて去っていく。その背に、長年の苦労がにじんでいた。
志乃はふすまの外で手をつき、静かに頭を下げる。
「お休み、ありがとうございました」
足楢を早朝に出て、昼過ぎに屋敷についた。
礼介と顔を合わせるのは、戻ってきてからこれが初めてだった。
「あぁ」
返ってきた声は短く、どこか熱を帯びている。
顔を上げると、礼介の白い肌はほんのりと桃色に染まっていた。先ほどまで、客人や善悦と酒席を囲んでいたと聞いている。普段はほとんど酒を口にしない人だ。
志乃は膳を差し出し、部屋の隅に控えていた。
「ゆっくりできたか」
「はい。ありがとうございました」
深々と頭を下げる。
沈黙が落ちた。礼介は箸を取らず、膳を見つめている。
「お茶にされますか」
「……そうしてくれ」
志乃は台所に戻り、湯を沸かして茶をいれている。
さすが名家は茶葉も違う。大康堂のものも良かったが、こちらのものの方が数段香りが上だと思う。
そして、この香りは志乃の好みだった。
茶葉――生薬としては目と頭をすっきりさせる効果がある。
そして、茶葉が入った川芎茶調散。
頭が痛いのに効く薬だという、書の一節が脳裏をよぎる。
礼介の部屋に戻り、志乃が湯飲みを膳に置こうとした、その瞬間だった。
手首を、強くつかまれる。
湯飲みが倒れそうになり、志乃は反射的に手首に力を入れた。
とっさに顔を上げると、礼介が真っ直ぐこちらを見ていた。沈んだ寂しさを宿した瞳だ。
「志乃……好いた男はいるか」
胸が大きく跳ねた。
どう返すべきかわからず、感じたままに言葉を出した。
「礼介様……痛いです」
「……すまない」
慌てて手が離される。
志乃は湯飲みを置いて、一歩さがった。そして礼介に向き直って座る。
さて、次はどう答えるべきか。
――とりあえず、嘘はつかないほうがいい。直感がそう告げていた。
「……います」
礼介は目を見開き、にじり寄る。
「本当か」
「……本当です」
「相手は……何と言っている」
「……何も。私の気持ちは伝えていませんから」
礼介は大きく息を吐いた。
「酔ってお辛いようでしたら、お休みの支度を――」
「酔ってなどいない」
そっぽを向いたまま、低く言う。
「俺が……知っている男か」
何と難しい問いだろう。知っているも何も……
突然志乃の中に、礼介の言動を愛おしく思う気持ちが湧き上がってきた。
そして、相手は酔っている。嘘をつかなければいいだろう。
「はい」
礼介の肩が、びくりと揺れた。
「医者か」
「……はい。とりあえずお茶を飲まれたほうが……」
せっかくのいい香りのお茶がもったいない。でも酔っているのであれば冷めていた方が良いか。
自分の思考も定まっていない。この状況では冷静になれない。
構わずに礼介は問いを重ねてくる。
「背は高いか」
「……高いです」
気の毒だが、今の質問で仁朗は除外されただろう。間髪入れず、次が飛ぶ。
「異国に行ったことは?」
思わず吹き出しそうになる。
そんな人、ほとんどいないではないか。神近以外に。
「……ないと思います」
礼介は安堵の表情を浮かべ、ぐっと距離をつめてきた。吐息がかかるほどに。
次の瞬間、ふっと視界から礼介の顔が消える。
正座する志乃の太ももに、頭を預けてきたのだ。
「……お前がいない間、いろいろ考えた。とりあえず、安心した」
そう言って、ほどなく穏やかな寝息が聞こえ始めた。
――誰なのか、聞けばよかったのに。
心でつぶやきながらも、それを聞かれるのを少し怖れていた自分がいる。
今は、この距離のままでいい。
礼介の額にかかる髪を、優しく払った。
長いまつ毛に、きれいな曲線を描く鼻梁。寝息のリズムに志乃の心は温まっていく。
酒は、人の心の扉をこじ開けるという。
いつか、酔いに頼らずこんなことを語る日が来るのだろうか。
志乃は、知らぬ間に口元が緩んでいることに気づいた。
*
翌日。
広間へ呼ばれると、礼介と向かい合う神近の姿があった。
その横に、見覚えのある男――才司だ。
血の気が引く。あの日につかまれた腕の痛みが蘇り、思わず右腕に手を当てた。
「善悦先生には許可をいただきました」
「ありがとうございます」
二人の会話を聞きながら、礼介の斜め後ろに座る。
才司の視線を感じたが、見返さない。私は、まだそこまで大人ではない。
志乃に優しいまなざしを向けて、神近は言った。
「足楢の皆さんは、変わりありませんでしたか」
「はい」
姉が無事出産したことを言おうと一瞬考えたが、部外者がいるため控えることにした。
神近が言葉を続ける。
「先に、才司さんから話があるそうです」
志乃はどういう顔をしていいか分からず、ただうつむく。
才司は深く頭を下げた。
「志乃……本当にすまなかった。嘘をついて、お前を傷つけた。自分を守るためだったが、許されることではない。今も、お前が必死に店のために働いていた姿が浮かぶ。本当に……申し訳なかった」
喉がつかえ、吐き気がする。えぐられた心の傷は、まだ完全には癒えていない。
神近が補足する。
「才司さんは大康堂を出て、独り立ちされました。克之助様に命じられるまま志乃さんに罪を着せてしまったと、私に打ち明けてくれたのです。そして、志乃さんにどうしても謝りたいと……」
志乃は目を閉じる。
思わず恨み言を言いたくなってしまう。でも、それで誰か幸せになるだろうか。
そして、私自身もいい気分になるだろうか。答えははっきりしている。否、だ。
人を傷つけても自分も傷つくだけだ。
何といっても、自分を支えてくれる神近も礼介もそばにいるではないか。そして、仁朗に早矢、母もいる。志乃を信じてくれる人たちのためにも、赦そう。
才司のことも、そして自分のことも。
私は今まで自分も赦せなかったのだ。こうなったのは自分に落ち度があったのだろう、と。
そして、これでやっと心が解放される。
志乃はまっすぐ才司を見つめた。
「……教えてくださって、ありがとうございました」
深く頭を下げた。
実のところ、謝ってもらっても大康堂で私は悪者のままだ。
しかし、今更それもどうでもいいことのように思えてきた。
自分にとって怖かったのは、「やっていない」ということを証明できなかったことだ。
克之助個人の悪意が元凶なのか、克之助が誰かに命じられてやったことかは分からない。背景で大きな力が働いている可能性もあるだろう。
しかし、才司の告白のおかげで、大事な人たちの前で無実が証明されたではないか。
今までの垂れ込めていた雲が去り、晴れ晴れとした気持ちだ。
そして迷いを捨てた。胸を張って神近先生の弟子のままでいよう。
「才司様なら、きっと良い商いをされます。応援しています」
自然に、笑顔がこぼれた。才司は涙を拭っている。
そのとき、肩に温かな手が置かれた。礼介の手だった。
心が冷えたから、人の手の温かみを感じられる。
暗闇の中にいたから、光が見いだせる。
人とは強いものだ。
*
佐郷が駆け込んできた。神近に往診の依頼だという。
神近はそれを聞きながら、志乃の方を見つめた。
「私も……行ってもよろしいですか。」
勇気を出して言い、神近と礼介それぞれに視線を投げた。
二人ともうなずく。
志乃はたもとに右手を入れ、紙と筆がある事を確認した。
神近に付いて歩きだす。かつてのように。
門の所で仁朗が待っていた。神近の後ろにいた志乃に向かってうなずく。
神近は歩きながら、志乃を振り返り言った。
「心の臓に痛みがある御仁に、昨日、当帰湯を出したのですが……」
自分自身を信じられれば、人に誤解されていたとしても堂々とすればいい。
誰に対して遠慮が必要か。
私は強くなる。私が弱ければ病に勝てないし、病に苦しむ人に力を与えられない。
神近と仁朗の背を見つめながら、志乃の心に再び炎がともった。




