途
新しい年が来た。
そして、当たり前のことだが、志乃もまた一つ年を重ねた。
昨日、隣に住む小なつに会った。
一つ年下の幼馴染は、すでに近くの農家に嫁ぎ、早くも身重だった。
ふっくらと丸みを帯びた腹に手を添える姿は、同じ女でありながら、どこか遠い場所にいるように見えた。
けれど、不思議と焦りはなかった。
誰かの妻になることも、子を産むことも、今の志乃には現実味を持たない。
祖母からは「結婚もしないで……」と、さすがに小言をもらったが、母も姉も、志乃の今の生き方について何も言わない。
それが、少し怖くもあった。
こんなにも自由でいていいのだろうか、と。
けれど同時に、その自由を「幸せだ」と思えている自分がいた。
足楢に戻り、心がすっかり健康を取り戻したからだろう。
*
その日は、朝から日差しがやわらかかった。
志乃は仁朗に誘われ、仁朗の甥っ子の幹太と浩太を連れて森へ向かっている。
――たぶん、子守り役を押しつけて、仁朗は何か企んでいる。
歩きながら、明日には和総へ戻るのだと思うと、胸の奥がぴりりと痛んだ。
私は、帰りたくないのだろうか。
このまま足楢にいれば、うどん屋の娘として生きていける。
親族と顔なじみの客に囲まれた、穏やかな日々。
人の悪意にさらされることも、心を乱されることも、ほとんどない。
それでも――
私は、和総へ戻る。
意地ではない。
ただ、神近先生から学ぶ機会が、まだ残されているのなら……
先生が、手を引いてくれる。
そして、あの人は、背中を押してくれる。
仁朗も、ぶつぶつ言いながら、気にかけてくれる。
一人ではない。
これからも、打ちのめされて一人では立ち上がれないこともあるだろう。
でも、そばに寄り添ってくれる人がいれば、いつか立ち上がれる。
だから、私は帰ることができる。
*
木々の間をすり抜ける陽光が、まぶしく、あたたかい。
森の香りを胸いっぱいに吸い込むと、張りつめていた心がほどけていく。
ここ数か月、志乃はほとんど屋敷の中で過ごしていた。
整えられた庭木とは違い、森の草木は荒々しい。
だが、その荒々しさが、今は心地よかった。
足元に、どんぐりがいくつも転がっている。
「一番大きなどんぐりを見つけた人が勝ち」
志乃の提案に、幹太と浩太は大はしゃぎだ。
志乃も負けじと、枯葉をかき分ける。
その間に、仁朗はどこかへ消えた。
*
仁朗は相変わらず、商魂たくましい。
里帰りの間に、和総から持ち帰った薬を売って、一儲けしたらしい。
便秘に効く「麻子仁丸」は、あっという間に売り切れ。
老化の諸症状に効く「八味地黄丸」は、「あちらも元気になる」と触れ回って、中高年の男たちに好評だったという。
その話を聞き、志乃は思わず顔が熱くなる。
「そんなことで恥ずかしがってたら、やっていけないぞ」
仁朗はにやにやしながら横目で言った。
――変わらない。
でも、その変わらなさが、今は少し頼もしい。
「あった!」
仁朗の声に駆け寄ると、彼は木に登っていた。
木に巻き付いたつるを切り取り、するすると降りてくる。
「これ、何だ?」
差し出された茎を受け取り、葉の裏側を見ると茎の一部がかぎ爪のようになっている。
「釣藤鈎……!」
「正解。さすが」
カギカズラのとげ状の茎が釣藤鈎という生薬で、頭痛やのぼせに効く。
「釣藤散」は慢性の頭痛に良く効く薬だと、以前神近が言っていたことを思い出す。
神近への土産だ、といって仁朗は目を輝かせた。
「やっぱり足楢が一番だな。木の匂いがする」
今までありきたりだった、地元の風土が素敵だと思えるようになった。
仁朗も志乃も、郷里を離れて少し大人になったのだ。
釣藤鈎を採り終え、仁朗は石に腰を下ろした。
「俺さ、医頼館で春からも修行を続ける」
神近について行かない、という意味だろう。神近はやはり話をしたようだ。
「それで、いいの?」
「兄さんは家のために縁組した。俺だけ自由ってわけにはいかない。いずれ戻ってこないと」
志乃は、はっとした。
自分はずっと「女だから」という理由で壁を感じてきた。
けれど、家を継ぐ男にも、別の重さがある。
――みんな、それぞれの事情を抱えているのだ。
そして私は……迷っていた。
神近先生について行くか、もう一つの選択肢を取るかで。
そのもう一つというのは、万知について産婆の修業をするという選択肢だ。
早矢のお産の後、万知に言われた。「あんたが本気なら、いいよ。」と。
産婆になるという事は正直考えていなかった。
でも、お産で亡くなる命を少しでも救えるようになるのなら……
ただ、私の最初の気持ちはどうであったか。
神近先生に少しでも近づきたかったのではないだろうか。あの姿に憧れていたのではなかったか。
「神様さ、お前があそこを去ってから大変だった。お前の無実を訴えて、大康堂を出るって聞かなくて。藤木殿がなだめに来るは、大康堂の主人が頭下げるは……」
そんな事、全然知らなかったし、第一にそんな神近の姿が想像できなかった。
「礼介様の申し出があって、やっと治まった感じ。あと、俺の学ぶ環境も考えて、最終的に大康堂に残ることを考えてくれたみたいだったけど……そんな感じだったからさ……」
仁朗がまっすぐ志乃を見つめた。
「志乃行きたいなら、神様について行け」
何と答えればいいのか。
沈黙が続く。
「俺も行きたい。でも、神様は俺には残れと言った。正直、このまま医頼館で学べば俺はそれなりの医者にはなれる。お前は……なりたいんだろう。神様みたいな医者に」
神近先生みたいな医者……
自分の知識、技術が人の苦痛を取り除き、笑顔を作ることができる。
もちろん力の及ばないことも多いだろう。失われていく命のままで立ち尽くすしかないこともいっぱいあるだろう。
人は生まれたからには必ず死ぬ。それに抵抗はできない。
そうであってもやれることをやりたい。必要とされる存在になってみたい。神近先生のように……
そして、その師匠である父もそうなのだと思う。神近先生を通して父を感じたいのかもしれない、私は。
そのとき、幹太の声が響いた。
なんと、遠くから見てもわかるくらい巨大なミミズを手に向かってくるではないか。
「志乃が好きなやつー!」
「好きなわけないでしょ!」
志乃は逃げ回り、反撃でくすぐって、お互い笑い合う。
森に、子どもたちの声が弾けた。
別れ際、志乃はもう少し森に残ると言う仁朗を振り返った。
「ありがとう」
「おう」
短く、晴れやかに答える。
明日、また二人で和総へ戻る。
それぞれの思いを胸に。
*
その夜、志乃と母は、湯飲みを手に語り合った。
「私、迷ってる。これからどうするか……」
「人生は一回きりだよ。やらないで後悔するより、やって後悔した方がいいんじゃない?私が言えたことじゃないかもしれないけど……」
そういったあと、母はしばらく湯飲みを両手で包んだまま、言葉を探していた。
湯気が細く立ちのぼり、やがて消える。その様子を、志乃は息を詰めて見つめていた。
「……話さなきゃ、と思ってたの。ずっと」
母――なつは、ぽつりとそう言った。
「志乃、私はね、十七のときに家を出たの」
なつは、足楢を出て中畑の飯屋に住み込みで働き始めたという。
家出ではなかったが、親は賛成していなかった。それでも「一、二年の社会勉強だ」と言って、半ば押し切った。
隣町とはいえ、酒蔵の家で育ったなつにとって、飯屋の暮らしはまるで別世界だった。
毎日、違う客が来て、違う話をする。人の顔を見て、声を聞いて、その心を想像する。
すべてが新鮮で、刺激に満ちていた。
そんなある日、なつに声をかけてきた男がいた。
和総で医者をしているというその男は、実家が中畑にあり、たびたび店を訪れた。
何度も顔を合わせるうちに、距離は自然に縮まった。
贈り物をもらい、誘われて出かけ、夕暮れの美しさを教えられた。
「……私は、すっかり恋をした」
和総に来ないか、と誘われたとき、なつは迷わなかった。
もっと一緒にいられる時間が増える。それだけが、ただ嬉しかった。
だが、和総へ行ってから、その男は奇妙な願いを口にした。
――別の男と、恋仲になってほしい。
なつは言葉を失った。
愛している相手から、そんなことを頼まれる理由が、どうしても理解できなかった。
当然、受け入れられるはずもなかった。
その後、男は中畑へ戻り、代わりに男の弟が現れた。
弟は、あくまで「仕事」として、同じ依頼をなつに告げた。
「……私は、やけになってた」
恋した男に捨てられ、訳のわからないことを頼まれ、心はずたずただった。
茶屋で働きながら、ならば言われた通りにしてやろう、と意地になった。
その“恋仲になるよう頼まれた男”――
それが、志乃の父、二条信勝だった。
二条は医頼館で学びながら医業を行っており、茶屋の近くに住んでいた。
だが、驚くほど恋愛に興味がなかった。
近づこうとしても、簡単には距離を縮められない。
それでも、なつは時間をかけ、誘い続けた。
そして、いつしか二人で過ごす時間が自然に増えていった。
無口で、とっつきにくいと思っていたが、実は底抜けに優しかった。
多くを語らずとも、なつの心の痛みを察し、静かに寄り添ってくれた。
捨てられた恋。わけの分からない役目。
傷だらけだった心を、二条は何も言わずに癒してくれた。
なつは、いつしか純粋に二条を愛するようになっていた。
ある日、なつはすべてを打ち明けた。
最初は、人に頼まれて近づいたこと。だが今は、心から愛していること。そして、もう二度とあの男たちとは関わらないと。
二条は静かに言った。
――途中から、気づいていた。それでも、一緒にいたいと思った。
なつは、その言葉に救われた。
やがて、身ごもった。その子が、志乃の姉、佳乃だった。
喜びの中で、なつは気づいてしまった。
――それこそが、あの男たちの狙いだったのだと。
二人はなつの両親に会いに行った。
最初は反対されたが、二条の人柄を知り、佳乃の誕生を待ってくれるようになった。
だが、佳乃が生まれたあとも、危険は消えなかった。
どこで嗅ぎつけられたのか、佳乃と共にさらわれそうになった。
なつは、佳乃とともに足楢へ戻った。
二条は仕事のため、月に一度ほど足楢へ通う生活となった。
それでも、次第に足楢にも魔の手が伸びてきた。
二条が何をされ、何が起きたのか――
なつには詳しいことは分からない。
ただ、志乃が一歳になる頃、二条は言った。
――家族みんなで足楢を離れよう、と。
しかし、なつは幼い子どもを抱えて見知らぬ土地に行くことが何より不安だった。
二条の申し出にうなずくことができなかった。
そして、彼は一人、去った。
はじめは時々、手紙が届いていた。
だが、異国へ行くという知らせを最後に、便りは途絶えた。
「……私が悪いの」
母の声が、かすれる。
「父さんに、あなたたちに、ずっと申し訳なくて……」
母のまぶたが、静かに光っていた。
「だからね、志乃。あなたが父さんと同じ医者を目指すって言ったとき……いつか話さなきゃ、って思ったの」
――父さんは。
逃げたのではなく、私たちを守るために去った。
「今まで言えなくて、ごめん」
志乃は答えた。頬を伝う涙をぬぐいながら。
「話してくれて、ありがとう。……私、もう少し頑張ってみる」
母の過去と、父の背中が、今の自分につながっている。
志乃は、はっきりと感じていた。
この道は、偶然ではない。
選び取った「途」なのだ、と。




