郷
大きく息を吸い込む。
土の匂い、たき火の残り香、どこか甘い麦の気配。
――町にも、確かに匂いがあるのだと、志乃はあらためて知る。
胸の奥で、何かがゆっくりとほどけていく。
このままでいい。
欠けたままの心も、迷いを抱えた体も、今はそのままでいい。
そう思える場所。
それが、志乃にとっての郷里だ。
*
京極家に戻った、昨日のことが脳裏によみがえる。
庭の掃除をしていると、佐郷がたき火の前に立ち、紙束を一つずつ火にくべていた。
炎が紙を飲み込み、ぱちりと音を立てる。
近づいた拍子に、文字がちらりと視界に入った。
――「礼介様」
これは……手紙?
しかも、一通や二通ではない。束だ。
一瞬、思考が凍りついた志乃を、佐郷が振り返った。
「一年分の恋文だ」
「え……?」
本当に、山のようにある。こんなにも礼介を想う人がたくさんいるのか。
「捨てられずに取っておくがな。どうにもならんので、年の瀬にこうしている」
佐郷が手を合わせたので、志乃もつられて手を合わせる。
「たたられたくないからな。女の怨念は怖いぞ……
気付いているだろうが、うちには若い女中がほとんどおらん。なぜか分かるか?」
言われてみれば、屋敷にいるのは佐郷の母・万津をはじめ、皆、子を育て終えた世代ばかりだ。ただ理由はというと……
志乃が首を横に振ると、佐郷の声が低く落ちた。
「――五年前のことだ」
その声は、たき火よりも静かに、深く胸に入り込んできた。
紅という、十代後半の女中がいた。よく気がつき、よく働く娘だった。
数年の奉公の中で、礼介に恋をした。
だが、もちろんその思いを告げることはできなかった。
礼介は若くして多くの女性に言い寄られ、時に強引な接触も受けていた。
そのせいで、女性に対して壁を作るようになっていた。
当然、紅にも心を開かなかった。
それでも、年頃の娘の恋心は止まらない。逆に思いはつのっていくばかり。
夜、眠れない。
胸が焼けるように痛い。
この想いを、どうすればいいのか分からない。
心も体も追い詰められたある日、紅は屋敷の壺を、不注意で割ってしまう。
日頃の働きもあり、善悦様からおとがめはなかった。
だが、それは――礼介の母の壺だった。
悲しむ礼介の姿を見て、紅は決断した。
住み込みの者が使う風呂場で――
彼女は手首を切り、血を流して死んだ。
血はおびただしく、風呂脇の枇杷の木にまで及んだ。
それ以来、この時期になると、白い花に混じって、血のように赤い花が咲くようになった。
そして――
冬、風呂の窓から赤い枇杷の花を見た者は……
次々と、不幸な死を遂げた。
「あの風呂には気をつけろ。特にお前は危ない……」
――無理だ。
もう、絶対に、あの風呂には入れない。
枇杷葉。吐き気や炎症をしずめる薬効がある。
今の自分の恐怖も、しずめてくれるだろうか。
「わっ!」
「ぎゃあ!!」
佐郷の大声に、志乃はほうきを落としてのけぞる。
突然、佐郷は腹を抱えて笑った。いつもはかわいらしく思える佐郷の笑顔も、今は憎らしく思える。
「全部、真っ赤な嘘だ。安心しろ。そんな女中はおらんし、死者も出ていない」
「佐郷様……ひどいです!」
「だがな、若い女中を雇わなくなった理由は、礼介様の心が休まらないからだ。泰介様もある意味、休まらないのだがな……」
志乃は黙り込む。
泰介の名前を出したことを佐郷は反省したのか、慌てて言った。
「とにかく、早矢様のはからいで若い女中を雇わなくなった」
もてる、というのも罪なのかもしれない。
そして、若い男女が近くにいることで自制心が欲望に負けることがあるのも事実だ。
「それにしてもだ。女が苦手な礼介様がお前を連れてきた。――大丈夫、ということなんだろう」
それは、女らしくないという意味だろうか。
「ほめ言葉ではありませんね」
唇を尖らせる志乃に、佐郷は珍しく真顔で言った。
「また戻ってこい。礼介様には、お前が必要だ」
本当によくできた付き人だ。早矢が恋した、と言っていた理由が少しわかる気がした。
*
志乃は今日、仁朗と二人で船に乗りこんだ。本当は和総を離れる前に神近に会いたかった。
師匠にも一緒に来てほしかったからだ。
だが、医に休みはないといって、仁朗の誘いも断ったそうだ。
なぜ、あの人はあんなにも強いのだろう。
なぜ、私を見捨てずに導いてくれるのだろう。
――そんなことを考え、感傷に浸っていたのは最初だけだった。
船は波にもてあそばれている。
木材を積んでいる船のため、そんなに揺れないという話は嘘ではないかと思うほどだ。
込み上げるものを必死に抑え、ただ時間が過ぎるのを耐える。
楽なはずの船旅が、地獄に変わる。
……もう、無理だ。
春にも同じ状況になり、もう船に乗らない!と思ったことをたった今、思い出した。
横を見ると、仁朗は涼しい顔で本を読んでいる。
その強さが、少し恨めしかった。
*
志乃が家に着くころには、うどん屋ののれんはすでに下ろされていた。
土間を抜け、奥へ進むと、かわいらしい声が耳に届いた。
志乃の胸がトクンと弾んだ。
居間の障子を開けた瞬間、赤子を抱いた佳乃の姿が目に飛び込んできた。
「ただいま!」
「おかえり」
姉と母が、ほぼ同時に応える。
その声を聞いた途端、足楢に着いてからこらえていたものが、堰を切ったように込み上げた。
涙腺が、もう言うことをきかない。
志乃は慌てて顔を伏せる。
何も言わず、母が志乃の荷物を受け取ってくれた。
その仕草のやさしさが、かえって胸にしみる。
「……姉さん、名前は?」
絞り出すように訊くと、佳乃は少し照れたように笑った。
「栄一っていうの。伊作さんがね、仏壇の前で生まれた報告をしたら、この名前がどこからか聞こえてきたって言うの。本当かどうかは分からないけどね」
ころころと、鈴を転がすように笑う。
「いい名前だね」
志乃は、そっと赤子の顔をのぞき込む。
さっきまで泣いていたはずなのに、今はもう、何事もなかったように眠っている。
柔らかな頬、わずかに開いた唇。そこから、言葉にならない幸福がにじみ出ていた。
湯気の立つ茶を囲み、話は自然とお産のことへ移った。
「どんな感じだった?」
「最初はね、下腹が痛くなって。通じかな、なんて思ってた。でも、だんだん強くなってきて……あ、これが産気づくってやつか、って」
そう言って、佳乃は栄一を布団に寝かせる。
背中が布団に触れた途端、まぶたが、ぱちりと開いた。
「失敗ね」
今度は母が、慣れた手つきで抱き上げた。
「痛みが強いのに、さらに強くなっていくの。いつまで続くんだろう、どこまで痛くなるんだろうって……正直、怖かった。でもね、半日くらいで、この子に会えた。最初に声を聞いたとき……生きてきて、一番幸せだって思ったよ」
語る佳乃の顔は、志乃の知る姉とは、どこか違って見えた。
強くなったのだ。
けれど、それは硬く尖った強さではない。
苦しみをくぐり抜け、命を抱いた者だけが持つ、しなやかな強さだった。
――そうか。
人は、ただ幸せが訪れただけでは、それに気づけないことがある。
その前に、恐れや痛みや、投げ出したくなるほどの苦労があるからこそ、幸せは輪郭を持つ。
今の私は……その手前にいるのかもしれない。
そう思うと、不思議と、道を外れず、このまま歩いてみようと思えた。
「でも今は毎日ばたばたよ。寝顔を見るたび、また幸せになるけどね。母さんも、向こうのお義母さんも手伝ってくれるから、この子に専念できてる」
母は、黙ってほほえんでいる。
今回は、きちんと着地できたようだ。
栄一の穏やかな寝息が、部屋いっぱいに広がっていた。
そこには、ただ、満ち足りた空気だけがあった。
*
あと二日で、この一年が終わる。
今日は毎年恒例の餅つきの日だ。
正直、志乃は参加をためらっていた。
和総でのことを聞かれるのは、目に見えている。
嘘は苦手だ。だからといって、正直に話せる内容でもない。
誰かの顔が曇るのを見るくらいなら、最初から出ないほうがいい。
――そう思っていたが、世の中は、そう都合よくはできていない。
祖母の衰えが目立ち、餅の下準備を仕切るのは母の役目になっていた。
手伝わないわけにはいかない。
今年も、庭はにぎやかだった。
子どもたちの声が弾み、大人たちの顔には、一年を無事に過ごせた安堵が浮かんでいる。
平蔵の子が、おぼつかない足取りで歩いている。去年の今ごろ生まれたばかりだったので、数えで一つだろう。
平蔵と妻が、その一歩一歩を、まるで宝物を見るように見守っている。
台所へ戻ると、ほどなくして、赤子を抱いたかおるがやってきた。
「志乃、おかえり!」
「ただいま!」
いつも通り話せている自分に、志乃はほっとする。
かおるの後ろには、たえがいた。三歳。背が伸び、歩き方もしっかりしている。
志乃のことは、すっかり忘れているらしく、はにかんで母の後ろに隠れた。
「で? 好きな人くらい、できたんでしょうね」
――やっぱり来た。
長い付き合いだ。最初にこれを聞くのが、かおるだということは分かっている。
今まで一度も、期待される答えを返せたことはなかった。
けれど、今回は。
一瞬迷い、あの人の横顔と、穏やかな声が胸に浮かんだ。嘘をつくのは、失礼な気がした。
「……まあ、ね」
「え、ええー! やだー!」
何が「やだ」なのか分からず、志乃は思わず口を尖らせる。
「どんな人?」
「……かしこい人」
「何それー! で、かっこいいの? どこまで進んだ?」
質問が止まらない。言ってよかったのだろうか、と志乃は思う。
礼介は、境遇に苦しむ自分に手を差し伸べてくれた。
最初は、人としての情だと思っていた。
けれど、最近は……それだけではない気がしてしまう。
だって、そうでなければ、手なんてつなぐだろうか。
けれど、冷静になって考えると、彼のような人が、自分に恋をするなんて。
そして、何も、はっきりとは言われていない。
分からない。彼の本当の気持ちは。
分からないけれど、自分の気持ちは、分かってきた。
手をつないだとき、胸が高鳴った。
寂しいと言われ、早く帰ってこいと言われたとき、嬉しかった。
これが、恋なのかもしれない。
同時に、怖くもなる。
人の気持ちは、変わる。炎のように燃え上がったと思っても、突然消えることもある。
恋とは、こんなにも狂おしく、切ないものなのだろうか。
そして彼もまた、神近の弟子になるようだ。
恋と、医の道。
私は、両立できるほど器用だろうか。
かおるの質問攻めに、やっぱり嘘をつけばよかったかと後悔しかけたとき、母の声が飛んできた。
助かった……
「じゃ、行くね」
「続きはあとで、だからね」
「はいはい」
志乃は、軽やかにその場を離れた。
*
餅つきが一段落した。
裏方の志乃は、臼に湯を注ぎ、後片付けを始める。
今日は、冷え込みが厳しい。雲が増え、日差しもない。
子どもたちと母が、数人、母屋へ戻っていた。
「誠太郎!」
叫び声が聞こえた。ただ事ではない、と直感が告げる。
志乃は、すぐに走った。
居間には、子どもを抱きかかえた女性――平蔵の妻がいた。
誠太郎の胸が、激しく上下している。明らかに、息が苦しそうだ。
「喘病は?」
「……いえ」
顔色が、白い。
視線を巡らせると、部屋の端に、たえの姿。手にはお手玉。
足元には、糸のほどけたお手玉と、こぼれた大豆。
――まさか。
「ここに、ずっといましたか」
「厠から戻ったら、もう……」
志乃は大豆をつまみ、言った。
「飲み込んだかもしれません」
母が、反射的に口に指を入れようとする。
「だめ!」
逆効果だ。
神近が言っていた。腹部に力をかけて、異物を吐き出させる――。
けれど、今回は子どもだ。
「すみません」
志乃は誠太郎を膝に乗せ、うつ伏せにした。
片腕を胸と腹の下に差し込み、背中を強く叩く。
バン、バン。
……出ない。
バン、バン。
……誠太郎の息が、弱くなっている。
――急がないと。
誠太郎の体の角度を変え、もっと顔が下がるように支える。
バン、バン。
……お願い。
誠太郎が激しくせき込み、白いものがコトリ、と床に落ちた。
出た。やはり、大豆だ。
すぐに仰向けにする。
誠太郎は、息を何度も激しく吸い込み、少しずつ顔に赤みが戻ってきた。
次の瞬間、泣き声が部屋に響いた。
顔をくしゃくしゃにして泣く母に抱き渡したところで、志乃の全身から力が抜けた。
立ち上がれず、その場に座り込む。
命が、志乃の手の平からすり抜けて消えてしまうところだった。
本当に、本当に怖かった。
*
駆けつけた親類たちが、口々に言った。
「ありがとう!」
「さすが、医者見習いだ」
「神近先生の弟子はすごい!」
神近に付いて和総へ行くことを良く思っていなかった者たちの目も、変わったようだ。
命を救えた。それは、確かに良かった。
けれど、胸の奥が、ちくりと痛む。
今、自分は神近のもとで修業ができていない。
――みんな、順調だと思っている。
母にすら、言っていない。
だが、仁朗の母を通じて、母にはもう伝わっている気もする。
言わなければならない。
今の状況も、これからのことも。
感謝の涙を流す平蔵と妻の礼を聞きながら、志乃は遠い和総の空を思った。
思い出すのは雲一つない青空。
その美しさがなぜか恨めしく思えた。




