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さんさ 志乃の医薬譚〜恋せよ乙女、医の道をゆけ〜  作者: 朝久野智秋
和総編

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 真千が、早矢の腹に静かに手を当てている。

臨月に入ってからというもの、数日おきにこうして診察に訪れていた。


「逆子ではない。ここを触れれば、わかる」


そう言って、志乃を呼び寄せる。

志乃は真千の仕草をなぞるように、大きく張り出した早矢の腹部へ、恐る恐る手を伸ばした。


「……あまり、押しすぎないように。」


 導かれるまま、そっと触れる。

ここがお尻、そして、ここが背中。

確かに、お尻のほうは下へたどっても、しばらく滑らかな感触が続く。今、指先に伝わっているのは、赤子のお尻から背中なのだろう。

お尻が上、頭が下。

それが、お産のときにもっとも安全な向きだという。

――そんなことすら、少し前まで志乃は知らなかった。

下向きになって、頭に血は上らないのだろうか。ふと浮かぶ疑問に、読んだ医書の一節が重なる。

赤子は母の腹の中で、水に浮かぶように存在している。上も下もない――。

人の体の奥深さを、志乃は改めて思い知った。



 そして、その日は突然やって来た。

朝方、少量の出血。

続いて、波のように押し寄せる痛み。

陣痛が始まったのだ。

真千を呼びに走ったが、他のお産が重なり、すぐには来られないという。

義母と女中の一人が千鶴の世話を引き受け、志乃ともう一人の女中で、早矢を産屋うぶやへと連れていくことになった。


不安そうな正勝が、早矢の手を強く握る。


「二回目だもの。大丈夫よ。」


その言葉は、夫に向けられたもののようでいて、どこか自分自身に言い聞かせているようでもあった。

歩くことはできる。

だが、強い痛みが来るたびに、早矢は足を止める。

志乃にできるのは、ただ背をさすることだけだった。

一人目よりも、二人目以降のほうが進みは早い――

そんな話を思い出す。

痛みの間隔は確かに短く、そして強くなっている。

年かさの女中が、にこりと笑って言った。


「もうすぐ、会えますよ。」


そうだ。

お産は痛みを伴うが、病ではない。

新しい命が生まれる、尊い出来事なのだ。

志乃は、強張っていた肩と呼吸を、意識して緩めた。


産屋。

痛みに顔をゆがめる早矢。

背をさする志乃。

声を掛け続ける女中。

そして、扉が開き、真千が現れる。

病の人のもとに神近が現れたときのような、深い安堵が、志乃の胸に広がった。

だが、それとは裏腹に、早矢の声は次第に激しさを増していく。

真千は手早く診察し、状況を把握した。


「……もうすぐだ。」


強い痛み。

無になる。

また強い痛み。

無になる。

本当に、波のようだ。


「いた――い!」


耐えきれず、早矢が叫ぶ。

真千は、その波に合わせるように声をかける。


「力を入れて-」

「……うぅっ」


早矢が腹に力を込める。


「とても上手ですよ。」


痛みが引いた一瞬に、さりげなく真千はそう告げる。

志乃は指示されるまま、水をくみ、手ぬぐいを用意し、女中たちとともに動き回る。

やがて、真千が志乃を手招きした。

志乃が目を凝らすと――

そこに、黒いものが見えている。

(……赤子の、頭……!)

痛みの中で早矢が力を込めるたび、見える範囲が広がり、痛みが引くと、また引っ込む。

真千は周囲を押さえている。裂けないようにするためだという。

何度、それを繰り返しただろう。

志乃も無意識のうちに、早矢の腕や脚をさすりながら、共に力を込めていた。

(頑張って……早矢様も……赤ちゃんも……)

そして――

頭と、顔が出てきた。

あとは、あっという間だった。

真千が、素早く、しかしこの上なく優しく、赤子を取り上げる。

赤子は背をさすられると――

はじめはか細く、やがて割れんばかりの声で泣いた。

早矢の頬を、涙が伝う。

志乃は、自分の視界が揺らいでいることに気づいた。

次から次へと、涙があふれ落ちる。


「体、拭いて。」


真千の声は、驚くほど冷静だった。

志乃は慌てて涙をぬぐう。

それは、壊れてしまいそうなほど繊細な生き物だった。

生まれた直後は、くすんだ赤から紫に近い色をしていたが、今はしっかりと、命の色を帯びた「赤い子」になっている。

志乃は膝に乗せ、震える手で、そっと体を拭いた。

女中が布にくるみ、赤子を早矢のもとへ運ぶ。

早矢は、たまらなく愛おしいものを見る眼差しで、赤子に触れた。

――ああ。

出産というのは、なんと素晴らしいのだろう。


その余韻に浸る間もなく、真千が志乃を呼ぶ。

へその緒につながる、赤紫の板状のもの。

胎盤。

野生の動物は産後、それを食べるという。赤子を育ててきた、栄養の塊だ。

紫河車しかしゃ……生薬になる……)

不謹慎にも、そんな考えがよぎる。


それにしても――

出血が、多い。

まだ、流れ続けている。

志乃には初めての事のため、それが異常かどうかは分からない。

真千を見ると表情が、硬い。

真千は腹部に触れ、内側からも診察する。

早矢に聞こえぬ声で女中にささやいた。


「先生を呼ぶ準備を。」


やはり、ただ事ではない。

志乃は、背筋が冷たくなるのを感じた。


「早矢様。後産に、少し難があります。……頑張ってください。」


早矢は、赤子をなでていた手を止め、顔をこわばらせる。


「痛みますよ。」


真千は、迷いなく指を差し入れた。


「あぁ……!」


早矢の体が、ぐったりとかたむく。

そして――

出血は、止まった。

志乃は、肺の奥から息を吐き出した。


静寂……


「お医者を呼ばずに済みました。」


腹部を確認した後、真千は初めて、達成感をにじませた笑みを見せた。

手を清めながら、真千は言う。


「赤子の入っていた袋が、一部戻りきっていなかった。手で戻せる程度でよかった……」


あの感動に満ちた場が、一瞬で奪われかねなかった。

志乃は、そこで初めて思い知る。

――安産だった、と早合点してはいけない。

お産は、命がけ。

早矢と真千が、身をもって教えてくれた。

笑顔の早矢。

元気な赤子の声。

真千のねぎらいの言葉。

それらに包まれ、志乃は、言葉にできない高揚感に満たされていた。



二人目ということもあり、早矢の乳の出は悪くなかった。

だが元々乳母は用意されていたため、早矢は乳をやる合間にしっかり休息が取れた。

出血が多かったため、産後しばらく早矢の顔色は白かった。

しかし、食事をよく取り、よく笑い……

そして血を補う薬、地黄じおう川芎せんきゅう当帰とうき芍薬しゃくやくを含む四物湯しもつとうを飲みながら、日ごとに回復していった。


 

産後七日目。

早矢は産屋を出る。

赤みを帯びた頬で赤子を抱く姿は、見る者すべてに、幸福を分け与えるようだった。


「勉強になったかしら。」

「……本当にありがとうございました。」


これほどの機会を与えられながら、何も返せていない。

志乃は、胸の奥でそう思う。


「千鶴が寂しがるけど……あちらの家でも、寂しがっている子がいるでしょう。戻ってちょうだい。」


志乃は、深く頭を下げた。

 


冬の庭。

寂しさはあるが、落ち葉の色は様々で、志乃は嫌いではなかった。

ほうきを動かしていると、ふと視線を感じた。

顔を上げると、帰宅した礼介が、静かに歩み寄ってきた。


「おかえり。」

「……ただいま戻りました。」


居場所があること。

待ってくれる人がいること。

その温かな感謝は、冬の凛とした空気の中に、静かに溶けていった。


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