産
真千が、早矢の腹に静かに手を当てている。
臨月に入ってからというもの、数日おきにこうして診察に訪れていた。
「逆子ではない。ここを触れれば、わかる」
そう言って、志乃を呼び寄せる。
志乃は真千の仕草をなぞるように、大きく張り出した早矢の腹部へ、恐る恐る手を伸ばした。
「……あまり、押しすぎないように。」
導かれるまま、そっと触れる。
ここがお尻、そして、ここが背中。
確かに、お尻のほうは下へたどっても、しばらく滑らかな感触が続く。今、指先に伝わっているのは、赤子のお尻から背中なのだろう。
お尻が上、頭が下。
それが、お産のときにもっとも安全な向きだという。
――そんなことすら、少し前まで志乃は知らなかった。
下向きになって、頭に血は上らないのだろうか。ふと浮かぶ疑問に、読んだ医書の一節が重なる。
赤子は母の腹の中で、水に浮かぶように存在している。上も下もない――。
人の体の奥深さを、志乃は改めて思い知った。
*
そして、その日は突然やって来た。
朝方、少量の出血。
続いて、波のように押し寄せる痛み。
陣痛が始まったのだ。
真千を呼びに走ったが、他のお産が重なり、すぐには来られないという。
義母と女中の一人が千鶴の世話を引き受け、志乃ともう一人の女中で、早矢を産屋へと連れていくことになった。
不安そうな正勝が、早矢の手を強く握る。
「二回目だもの。大丈夫よ。」
その言葉は、夫に向けられたもののようでいて、どこか自分自身に言い聞かせているようでもあった。
歩くことはできる。
だが、強い痛みが来るたびに、早矢は足を止める。
志乃にできるのは、ただ背をさすることだけだった。
一人目よりも、二人目以降のほうが進みは早い――
そんな話を思い出す。
痛みの間隔は確かに短く、そして強くなっている。
年かさの女中が、にこりと笑って言った。
「もうすぐ、会えますよ。」
そうだ。
お産は痛みを伴うが、病ではない。
新しい命が生まれる、尊い出来事なのだ。
志乃は、強張っていた肩と呼吸を、意識して緩めた。
産屋。
痛みに顔をゆがめる早矢。
背をさする志乃。
声を掛け続ける女中。
そして、扉が開き、真千が現れる。
病の人のもとに神近が現れたときのような、深い安堵が、志乃の胸に広がった。
だが、それとは裏腹に、早矢の声は次第に激しさを増していく。
真千は手早く診察し、状況を把握した。
「……もうすぐだ。」
強い痛み。
無になる。
また強い痛み。
無になる。
本当に、波のようだ。
「いた――い!」
耐えきれず、早矢が叫ぶ。
真千は、その波に合わせるように声をかける。
「力を入れて-」
「……うぅっ」
早矢が腹に力を込める。
「とても上手ですよ。」
痛みが引いた一瞬に、さりげなく真千はそう告げる。
志乃は指示されるまま、水をくみ、手ぬぐいを用意し、女中たちとともに動き回る。
やがて、真千が志乃を手招きした。
志乃が目を凝らすと――
そこに、黒いものが見えている。
(……赤子の、頭……!)
痛みの中で早矢が力を込めるたび、見える範囲が広がり、痛みが引くと、また引っ込む。
真千は周囲を押さえている。裂けないようにするためだという。
何度、それを繰り返しただろう。
志乃も無意識のうちに、早矢の腕や脚をさすりながら、共に力を込めていた。
(頑張って……早矢様も……赤ちゃんも……)
そして――
頭と、顔が出てきた。
あとは、あっという間だった。
真千が、素早く、しかしこの上なく優しく、赤子を取り上げる。
赤子は背をさすられると――
はじめはか細く、やがて割れんばかりの声で泣いた。
早矢の頬を、涙が伝う。
志乃は、自分の視界が揺らいでいることに気づいた。
次から次へと、涙があふれ落ちる。
「体、拭いて。」
真千の声は、驚くほど冷静だった。
志乃は慌てて涙をぬぐう。
それは、壊れてしまいそうなほど繊細な生き物だった。
生まれた直後は、くすんだ赤から紫に近い色をしていたが、今はしっかりと、命の色を帯びた「赤い子」になっている。
志乃は膝に乗せ、震える手で、そっと体を拭いた。
女中が布にくるみ、赤子を早矢のもとへ運ぶ。
早矢は、たまらなく愛おしいものを見る眼差しで、赤子に触れた。
――ああ。
出産というのは、なんと素晴らしいのだろう。
その余韻に浸る間もなく、真千が志乃を呼ぶ。
へその緒につながる、赤紫の板状のもの。
胎盤。
野生の動物は産後、それを食べるという。赤子を育ててきた、栄養の塊だ。
(紫河車……生薬になる……)
不謹慎にも、そんな考えがよぎる。
それにしても――
出血が、多い。
まだ、流れ続けている。
志乃には初めての事のため、それが異常かどうかは分からない。
真千を見ると表情が、硬い。
真千は腹部に触れ、内側からも診察する。
早矢に聞こえぬ声で女中にささやいた。
「先生を呼ぶ準備を。」
やはり、ただ事ではない。
志乃は、背筋が冷たくなるのを感じた。
「早矢様。後産に、少し難があります。……頑張ってください。」
早矢は、赤子をなでていた手を止め、顔をこわばらせる。
「痛みますよ。」
真千は、迷いなく指を差し入れた。
「あぁ……!」
早矢の体が、ぐったりとかたむく。
そして――
出血は、止まった。
志乃は、肺の奥から息を吐き出した。
静寂……
「お医者を呼ばずに済みました。」
腹部を確認した後、真千は初めて、達成感をにじませた笑みを見せた。
手を清めながら、真千は言う。
「赤子の入っていた袋が、一部戻りきっていなかった。手で戻せる程度でよかった……」
あの感動に満ちた場が、一瞬で奪われかねなかった。
志乃は、そこで初めて思い知る。
――安産だった、と早合点してはいけない。
お産は、命がけ。
早矢と真千が、身をもって教えてくれた。
笑顔の早矢。
元気な赤子の声。
真千のねぎらいの言葉。
それらに包まれ、志乃は、言葉にできない高揚感に満たされていた。
*
二人目ということもあり、早矢の乳の出は悪くなかった。
だが元々乳母は用意されていたため、早矢は乳をやる合間にしっかり休息が取れた。
出血が多かったため、産後しばらく早矢の顔色は白かった。
しかし、食事をよく取り、よく笑い……
そして血を補う薬、地黄、川芎、当帰、芍薬を含む四物湯を飲みながら、日ごとに回復していった。
*
産後七日目。
早矢は産屋を出る。
赤みを帯びた頬で赤子を抱く姿は、見る者すべてに、幸福を分け与えるようだった。
「勉強になったかしら。」
「……本当にありがとうございました。」
これほどの機会を与えられながら、何も返せていない。
志乃は、胸の奥でそう思う。
「千鶴が寂しがるけど……あちらの家でも、寂しがっている子がいるでしょう。戻ってちょうだい。」
志乃は、深く頭を下げた。
*
冬の庭。
寂しさはあるが、落ち葉の色は様々で、志乃は嫌いではなかった。
ほうきを動かしていると、ふと視線を感じた。
顔を上げると、帰宅した礼介が、静かに歩み寄ってきた。
「おかえり。」
「……ただいま戻りました。」
居場所があること。
待ってくれる人がいること。
その温かな感謝は、冬の凛とした空気の中に、静かに溶けていった。




