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さんさ 志乃の医薬譚〜恋せよ乙女、医の道をゆけ〜  作者: 朝久野智秋
和総編

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佐郷さごうが、上手くやってくれたわね。」

そう言って早矢が笑った、その瞬間だった。

志乃は、不意に胸の奥を突かれたような感覚を覚え、息をわずかにつめる。

その目元――

柔らかく細められた眼差しの奥に、はっきりと礼介の面影がある。


 ここは、礼介の姉・早矢さやの住まう屋敷だった。

京極善悦の弟・正光の息子、正勝に嫁いだ早矢は、義父母と夫、そして三歳になる娘・千鶴ちづと共に暮らしている。

いとこ婚とはいえ、正勝は養子であり、血のつながりはない。

本家から分家へ――それが、早矢にある種の自由と、しなやかな立ち位置を与えているように、志乃には感じられた。

嫁の身でありながら、これほど自然に、ためらいなく志乃を屋敷へ迎え入れられる。

それは立場の強さだけではなく、早矢という人の気質ゆえだろう。

早矢は志乃の耳元へ顔を寄せ、声を落とす。


「佐郷とは乳兄妹ちきょうだいなの。幼いころはね、私、本気で佐郷と結婚するつもりだったのよ。――夫には内緒。」


くすり、と屈託なく笑う。

その笑みには、過去を懐かしむ軽やかさと、人を試すような気配が混じっていた。


「で? あの子、渋ったでしょう。あなたがここへ来ること。」


あの子――

言うまでもなく、礼介のことだ。


「……礼介様は、私が行きたいなら行ってよいと。」


そう答えた瞬間、早矢の表情がわずかに揺れた。

ほんの一瞬のことだったが、確かに驚いたのが分かる。

佐郷が押し切ったのだと、思っていたのだろう。


部屋には品のある香が焚かれ、火鉢の熱が部屋を心地よく包んでいる。

千鶴は初対面の志乃にも物怖じせず、膝元へ寄って遊びをせがんだ。

別の女中がお手玉で相手をし、部屋には小さな笑い声が満ちている。

その和やかな空気の中で、早矢は口を開いた。


万津まつに、産婆の知り合いがいないか聞いたそうね。」


志乃の胸が、静かにざわめく。

――このままではいけない。

礼介の好意に甘え続けていては、自分の道は拓けない。

助けられるばかりの存在でいることが、何よりも苦しかった。

そして、脳裏によみがえる神近の言葉。

――お産で亡くなる命を、ひとつでも減らしたい。


「だから、あなたを呼んだのよ。」


早矢は、迷いなく言い切った。


「私のお産で、まず学びなさい。」

「……え?」


言葉が、喉で止まる。

思考が追いつかず、ただ胸の奥が熱くなる。

この人といい、礼介といい。

なぜ、ここまで人を信じ、託すことができるのだろう。


「私の産婆、真千まちには、もう話を通してあるわ。」


にこり、と笑うその表情には、決断の跡があった。

和総はさすが都会だ。お産専門の医者もいるという。しかし、出産前から出産時に至るまで実際の多くは産婆に委ねられている。医者は何かあったら呼ばれる程度だ。

もちろん、和総でもお産の時に医者に頼れるのは、ごく一握りの女性だが。もちろん、早矢には担当の医者もいるようだ。

そして真千は、腕利きと名高い産婆のようだ。

志乃は思う。

医頼館で学んだ医者が“選ばれた者”なら、この姉弟は、生まれや立場に甘えることなく、それを背負うことを選び続けている。

――「本物」は、やはり違う。


「……そんな……よろしいのですか。」


志乃はためらいながらも早矢の申し出に応える。


「もちろん。そのつもりで呼んだのだから。」


早矢の声には、疑いがなかった。


「あなた、以前うちの父が屋敷に呼んだことがあったでしょう?」


大康堂たいこうどうで「まゆ」が奔豚ヒステリーで倒れた時の事だろう。

結局、神近が一人で京極家を訪問したようだ。その際の事は特に聞いていない。


「あれ、私が父に頼んだの。泰介が屋敷に戻ってきて、あなたの事をぼそりと言ったもんだから。親が医者でもない女性が医者を目指している……そんなあなたを礼介に会わせたかったのよ。」


確かに今となっては善悦と泰介が、わざわざ志乃に会いたがるとは思えない。それは京極家に来てみて分かった事ではあるが。


「でも結局、礼介は往診に行っていて不在。あなたも来なかったようだから、縁がなかったのかと思っていたら……今、こんな感じ。」


早矢は両手を広げた。情熱的な人なのだろう。

確かに以前礼介は、姉から様々な人の話を聞いて視野を広げるよう言われて育ったと言っていた。こういう事なのかもしれない。


やがて千鶴が眠気にぐずり始める。

早矢が抱き上げ、背をやさしく叩くと、小さな体はほどなく静かな寝息を立て始めた。


「……あの子はね。」


早矢は、遠い目をして語り出す。


「私が八つの時に生まれて、そのすぐ後に母様は逝ってしまった。だから、私が礼介の母代わり。母様は、困っている人を放っておけない人だった。屋敷に知らない人がいることも、珍しくなかったわ。」


その声は、低く、穏やかだった。


「だから礼介にも、いろんな人の話を聞きなさい、と言い続けてきたの。あの子は、与えられたことには全力だけど、自分から踏み出す子じゃなかったから。」


わずかに、笑みが滲む。


「剣術は泰介の影響。茶の湯は夫の勧め。どれも真面目に続けている。……でもね。」


泰介の名を聞いた瞬間、志乃の胸に冷たい影が差す。

蔵の暗闇、息を殺したあの夜。

志乃がここに呼ばれたのは、どう考えてもタイミングが良すぎる。

――だが、早矢はそれに対して何も言わない。


「そんなあの子が、あなたを屋敷に連れてきた。それが、一番の驚きだったの。」


視線が、静かに志乃へ戻る。


「女中が一人、里に帰ってしまってね。そこで、あなたが産婆を探していることを思い出したの。しばらく、よろしくね。」


その一言に、志乃は深く頭を下げる。

この人は、家を出てもなお、京極本家と、そこにいる男たちを支えている。

その凛としたたたずまいに、志乃は静かな畏敬の念を抱いた。



数日後、泰介の祝言の日。

臨月の重い腹を抱えながら、早矢は駕籠かごで本家へ向かった。

志乃は、誰も止めないことが不思議でならなかった。

日が暮れる前に戻ったものの、案の定、腹の張りを訴えて真千が呼ばれる。

鋭い眼差しとは裏腹に、言葉は穏やかで、早矢との深い信頼がすぐに伝わった。


「問題ありません。ただ――無理は禁物です。」


帰り際、真千は志乃を一瞥する。


「あんたのことは聞いてる。邪魔するんじゃないよ。」


蛇ににらまれた蛙のように、志乃は息をひそめた。

それでも、診察に同席する許しは得られたようだ。

そうと決まればお産の勉強がしたい……でもそんなつもりもなかったため何も準備してこられなかったことが悔しい。書物があれば……

ただ、そんなお金もなければ、書物を求めて町をふらふら歩く勇気もまだない。

真千の一挙手一投足から学ぶしかないだろう。



翌日、届け物があると礼介と佐郷が訪れる。


「こんな時期に……」


早矢が驚いたのは、北国から届いたあわびだった。


「今朝、届きました。姉上が以前喜ばれていたので、もう一度お産前に食べさせたいと父が言っていました。」


その高級な貝を志乃は口にしたことはなかった。

妊娠の中ごろに食べると「目がきれいな子」が生まれるという言い伝えがあるそうだ。

この辺りの旬は夏だが、北の地方ではこの時期も採れるという。

その後も礼介と早矢はにこやかに会話を続ける。

母代わりの姉。やはり、この姉弟は心が通っている、志乃は横に控えていてそう感じた。


早矢と佐郷が部屋を出ていき、礼介と志乃は二人になる。

こちらに来て1週間も経っていないが、礼介とはずいぶん会っていないような気にもなる。


「姉上に、志乃をこちらへ呼んだ理由を聞いた。」


そう言って差し出されたのは、『産論』と記された書。


「……買ってくださったのですか?」


京極家にそんな本は無かったように思ったからだ。


「俺の、勉強だ。」


視線をそらす、その横顔。

志乃が深く礼をして顔を上げると、礼介の手が、そっと髪に触れた。


「お前がいないと……家に帰る楽しみがない。」


吐息が、額にかかる。

唇が触れようとした、その刹那――


カタリ。

礼介は音がしたふすまの方を見やり、近づいていく。

スッとふすまを開けると、早矢と佐郷がそこにいた。

仲良くこちらに好奇の目を向けていたが、二人ともとっさに視線を逸らす。

音は聞こえても、さすがに中を見ることはできなかっただろうに。

その割に楽しそうなのは気のせいだろうか。


「何か用でしたか。」


乾いた声で言った礼介が、ちらりと早矢に視線を合わせると、


「お茶でも用意させるわね。」


二人は背を向け、話しながら行ってしまった。


「佐郷が音をたてるから……」

そんな早矢の声も最後に聞こえたが。さすが乳兄妹だ。仲よく歩いていく。


ふすまが閉じられ、礼介は戻ってくる。

志乃の手に、そっと自分の手を重ねる。

温かく、大きな手。


「姉上のお産が終わったら……戻ってこい。」


その声は、言葉以上の意味を含んでいた。


「……待ってる。」


志乃は、確かにうなずいた。

胸の奥で、小さな兆しが、静かに、しかし確かに芽吹いていた。


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