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さんさ 志乃の医薬譚〜恋せよ乙女、医の道をゆけ〜  作者: 朝久野智秋
和総編

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42/48

 和総かずさの町を、木枯らしが一気に吹き抜けていく。

乾いた音を立てて、冬の気配が路地から路地へ走り抜ける。

灰色の雲が低く垂れこめ、今にも雪へと変わりそうな冷気が肌を刺した。

往診先へ向かい、神近と仁朗は足早に道を進んでいる。


「和総の冬って、こんなに厳しいんですね……子どもは風の子、って言いますけど……寒すぎます!」


仁朗は肩をすくめ、息を白くしながらぼやいた。

見れば、相変わらず少し薄着だ。

(今日は寒いと出る前に言ったのに、聞いてなかったな……)

そう思いながら、神近はわざと軽く言った。


「仁朗さん。自分のこと、まだ子どもだと思っているんですか?」


からかうような口調に、仁朗は両手をこすり合わせ、にやりと笑う。


「半分は大人、半分は少年。その方が男として魅力的でしょう。」


よく分からない理屈だが、とにかく寒いのは確かなようだった。

そう思った矢先、仁朗はふらりと近くの店に吸い寄せられるように立ち寄る。

戻ってきた彼の手には、湯気を立てる甘酒が二つあった。


「おごりです。温まりましょう。」


診療所での仕事が軌道に乗り、懐にも心にも、少し余裕が生まれてきたようだ。


「では、遠慮なく。ただし急ぎましょう。お待たせしてはいけません。」


神近はそう言って甘酒を口に含み──すぐに、ちりちりとした痛みが舌を刺した。

猫舌であることを、また忘れていた。



 屋敷では、顔色の冴えない二十歳すぎの若い男と、その母が二人を待っていた。

男は城務めで、吐き気と下痢が続き、仕事がままならないという。

特に朝、症状が強くなる。

前回、仁朗が半夏瀉心湯はんげしゃしんとうを処方したところ、一時は軽快した。

しかし、仕事に復帰した途端、再び体調を崩したらしい。

ここ数日は腹部の張りと痛みが強く、やはり朝がつらいという。

男の顔色は冴えず、目の奥に疲労と不安が沈んでいる。

そして、その隣で母親の焦りは隠しようがなかった。


昇進したばかりなのに──

腹の具合が悪い割には食欲がある──

それは仮病ではないのか──

仕事が嫌になり、怠けているのではないのか──

言葉は次々とあふれ、刃のように息子へ突き刺さる。


男の顔はさらに曇っていく。

(……本人の前で言うのは、逆効果だ。)

神近は胸の内で、静かに息をつく。

腹部に触れると、上下に走る筋が強く緊張し、下腹にはわずかな張りがあった。

身体の冷えと、心の滞りが、確かにそこに重なっている。



 帰り道、いつもの問答が始まる。


「仁朗さん。今回は、どうしますか。」

「腹の緊張が強いですね。桂枝加芍薬湯けいしかしゃくやくとうに替えようと思います。」


神近は、歩きながら静かにうなずいた。


「それにしても、症状がコロコロ変わりますね。下痢だったり、便秘だったり……」


仁朗は足を止め、しばし考え込む。


「……便秘か。確かに腹も張っていました。では、大黄だいおうも加えましょうか。」


その言葉に、神近はわずかに微笑んだ。


「賛成です。下痢しないよう、さじ加減は必要ですが……では、大黄の働きを言えますか。」

「便を出す。炎症を抑える。血の滞りを改善する……」


神近は優しい視線を向け、さらに促す。


「他には?」

「……心を、落ち着かせる。」


神近は指で丸を作った。


「そうですね。あの方の腹の不調の裏には、心の問題があります。大黄は、そこにも届く。仁朗さん、よく勉強していますね。」


その一言に、仁朗の顔がぱっと明るくなる。

師に認められることは、何より嬉しいことだ。



 かつお出汁の香りに誘われ、二人はそば屋に入った。


「今回は私が。」

「ありがとうございます!」


新そばの香りが口いっぱいに広がる。

丈原のそばだと聞き、神近の脳裏にそこで出会った医師、松下宗三まつしたそうざの顔が浮かぶ。

そして、ある疑問にたどり着く。

──なぜ、自分には牙が向けられないのか。なぜ、志乃なのか。


「この前、茶谷朔太郎ちゃやさくたろう殿が言ってましたよ。先生は不思議な人だって。」


心当たりは……ある。

神近は、丈原の山でキハダを見つけたため、黄柏おうばくを採った話を簡単に説明した。


「……先生、子どもじゃないんですから。いきなり樹皮を剥ぐのはやめましょう。」


仁朗は笑って続ける。


「そんな姿を見て驚かないの、俺か志乃くらいですよ。」


キハダを見つけてあまりにも嬉しかったのと、待たせてはいけないという一心で説明を省いたのが良くなかったようだ。

神近は苦笑した。


「でも、先生が周りを忘れて時々突っ走るところ……嫌いじゃないです。」


「それは……告白ですか?」

「違います!神様といい、志乃といい……俺が好きなのは触れて柔らかい女の子だけですよ!」


二人の笑い声が、店に溶けた。



 そば湯をすすりながら仁朗は、少し真顔になって言った。


「朔太郎殿から聞いたのですが、医頼館を継ぐための朱印があるって噂……聞いたことありますか。」


噂か……ただ、それは長に聞けば分かるのではないか。


「……山鹿元医先生は何とおっしゃっているんでしょうね。」


「それが有るとも無いともはっきりされない……それで、一部の人間が探しているらしいです。先生の師匠が持っている、なんてことは無いかなと思って。」


神近の頭の中で、色んな糸が絡み合っていることは分かった。

しかし、朔太郎が言うからには何か茶谷家に何らかの情報があるのだろう。しかし、この情報の真偽すらはっきりしない。

そこで神近はハッとした。

神近自身に危害が加わらないのは……藤木の根回しか。

神近がゆくゆく大都の高貴なお方へ仕える事が伝わっていれば皆、変な手出しはしないだろう。

しかし、志乃まではその威光が届かない可能性もある。

むくれている藤木の顔が思い浮かんだ。


「約束守って、大都に来てくださいよ。」

そう聞こえた気がした。



 そば湯を飲み干し、神近は意を決する。


「仁朗さん。次の春からのことですが。」


「はい。」


「しばらく医頼館で学びを続けてください。」


仁朗の表情が、目に見えて硬くなる。


「それは……先生と離れて、ということですか。」


「はい。仁朗さんは今、めざましく成長している。そして、まだここで学ぶべきことがある。」


「……嫌です。俺は、先生の弟子です。」


「だからこそです。」


神近は、静かに、しかし揺るぎなく告げた。


「学ぶべき時に、学ぶべき場所があります。そして仁朗さんは、いずれ足楢に戻らねばならない。お父様との約束です。」


机を叩く音が、冷たい冬の空気に鋭く響いた。


二人は、そのまま無言で大康堂へ戻った。

別れは、まだ先だ。

だが、その輪郭は、もうはっきりと見えていた。



 その日、志乃の朝は重く始まっていた。

泣き腫らした目と顔を、冷たい井戸水で洗い、不安を押し込める。


 あの出来事を、礼介が知ったら──

そう思うだけで、胸が締めつけられる。

きっと、自分をここに連れてきたことを悔いるだろう。

そして、もともと良好とは言えない兄弟関係。

今はかろうじて保たれている京極家の均衡。


志乃は、この家にとって一人の下女に過ぎない。

ちっぽけで、いくらでも替えのきく存在だ。

だが、もろく積み上げられた積み木を崩すには、蝶が羽ばたくほどの、かすかな風で十分なのだ。


 事情を知る平左へいざ宇女うめは、かしこい人だ。

家のために、何が最善かを分かっている。

だからこそ、あの出来事については、無言を貫くだろう。

でも……


 礼介に悟られないように、礼介の兄である「彼」とはできるだけ顔を合わせないように。

そう考えながら、志乃は日々をやり過ごした。



 数日後、志乃は礼介に呼ばれる。

そこには佐郷もいた。


 外では、初雪がはらはらと舞っている。

まるで、音を失った白い花びらのように。


「志乃、御指名だ。」


佐郷の言葉は、以前にも聞いた覚えがあった。

指名先は違うが、その響きは同じだった。


横に座る礼介は、美しい眉をひそめ、付け加える。


「行ったら、年末に家へ帰れなくなるかもしれない。断ってもいいんだぞ。」


断ってほしい──

そんな思いが、その目ににじんでいた。


それでも、志乃は静かに首を縦に振った。


行き先は、礼介の姉──早矢さやのもと。


雪は、音もなく、降り続いていた。


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