闇
最近、京極家は不思議と浮き立っていた。
善悦の弟子が出入りする、いつもの温かな喧騒とは違う。
泰介の嫁入りが決まったことで家中がどこか慌ただしく、華やいでいるのだ。
肝心の泰介本人は相変わらず不在がちだったが──。
その日、志乃は万津に頼まれ、善悦の部屋へ茶と菓子を運ぶことになった。
ふすまの前で足が止まる。
めったに聞かぬ、善悦の笑い声が中から響いてきたのだ。
あの険しい眉がほころぶ姿など、想像もできなかった。
「失礼いたします。」
「入って。」
返ってきたのは、澄んだ女の声だった。
ふすまを開けると、凛と背筋を伸ばして座る女性の姿があった。
くっきりとした目鼻立ち。丸みを帯びた腹は、彼女が命を宿していることを物語っている。
「お茶をお持ちしました。」
「そこに置いておいて。」
お針子の手を止めた女性が、志乃をまっすぐ見た。
その目が柔らかく揺れる。
「あなた……礼介の……」
礼介の姉──早矢なのだと、すぐに悟った。
志乃は丁寧に頭を下げる。
「志乃と申します。」
善悦は孫娘とお手玉をして楽しげに笑い、早矢はその横顔に何かをささやきかける。
その幸福な空間は、志乃がそっと退くまで、温かさで満ちていた。
靜日庵で神近と再会した数日後、礼介に連れられて仁朗が京極家へ姿を見せた。
普段あれほどのびのびした仁朗が、珍しく緊張で体を縮めている。
礼介が部屋を離れると、彼は待ちきれないように口を開いた。
「志乃、あの人といて平気だなんて……お前、すごいな。俺は胸のドキドキが止まらん。」
頬を赤くして言う様は、まるで恋する娘そのものだった。
もしや……仁朗は男女どちらもいけるのか?
「仁ちゃん、まさか……」
「ち、違う!変なこと言うな!あくまで……あこがれだ!恋愛対象は女だけ!」
その言葉を聞きながら、志乃はふと気づいた。
最近、自分は礼介の前でも“恐れ”が少なくなっている。
時折、胸が妙に熱くなる瞬間はあるけれど──それは、彼の顔立ちのせいではない。
優しさがにじむ声音、遠くを見つめる瞳に宿る覚悟、ふと向けられる温もり。
そうした“内側の色”が、胸の奥をそっと揺らすのだ。
あの日――手を握られたことを思い出す。
強く、だけど乱暴ではない、不思議な力のこもった手。
思い返すだけで頬が熱くなる。
仁朗は照れ笑いのまま、ぶっきらぼうに包みを差し出した。
「兄さんからのと……俺からのだ。」
包みを開くと本や菓子、講義を書き写した紙が丁寧に納められている。
「“一対一”であの人から手ほどきを受けているなら、いらんかもしれないが。」
“一対一”という言葉に、少しだけ嫉妬の香りが混じっていた。
紀一の笑顔が胸に去来する。そして、紀一の義母に言われた言葉も。
それでも──今の自分の居場所はここだ、と志乃は静かに胸に刻んだ。
神近は仁朗に大都の事を話せただろうか。一瞬迷って、聞くのは辞めた。
「仁ちゃん、年末、足楢に帰る?」
「帰るつもり。志乃も一度帰った方がいいぞ。みんな、お前に会いたがってる。」
珍しく仁朗が優しい言葉をかけてきたため、志乃はくすぐったく感じた。
「船、一緒に乗っていけばいい。兄さんは奥さんの事もあるし、帰るか分からんが。」
その後、神近の書物で部屋がどんどん狭くなるだの、いつもと変わらぬ他愛のない会話が続く。
神近と仁朗と3人で、また堂々と和総の道を歩きたい。
そんな日が来ることを祈りながら、志乃は仁朗を見送った。
屋敷へ戻る途中、礼介が二人の男と話しながら歩いているのが見えた。
志乃に気づいた礼介はすぐに男たちと別れ、自然に歩み寄ってきた。
「ゆっくり話せたようだな。」
「はい……ありがとうございます。」
「志乃に渡したいものがあると言っていたからな。気づいて声をかけてやっただけだ。」
あの仁朗の様子を見る限り、礼介が先に気づいて助け舟を出したに違いない。
それを“当然”のような顔で言うところが、また彼らしかった。
「志乃……薬、作るか。」
薬──。
その言葉に胸が締めつけられる。
大康堂を出てから二月、薬研を握らない日々が続いていた。
柔らかくなった手の平を見つめ、心が強く揺れる。
礼介はまた、自分が前に進めるよう手を引いてくれている──優しく、そっと、志乃が離そうと思えば離せる程度の優しい強さで。
この前、実際に手を握られた時は振りほどくことができないくらい強く握られていたが。
彼は何を考えているのか……。余計なことまで考えてしまう。
「……はい。」
その返事に、礼介はまるで“分かっていた”と言わんばかりの穏やかな笑みを向けた。
屋敷の門から入ってすぐ右手に、善悦の弟子が出入りする一角がある。
奥の部屋に進むと、百味箪笥と薬研、生薬を刻む包丁など薬づくりに必要なものがある。
弟子たちは礼介にお辞儀をしつつ、後ろを歩く志乃に興味の目を向ける。
礼介はさじで生薬を選び、器に入れていく。
石膏、大棗、甘草、生姜、蒼朮。
そして違う器に入れたのは麻黄だ。
懐かしい香りが志乃の胸を締めつけた。
麻黄──泰斗がよく笑っていたあの頃の記憶が、ふと甦る。
礼介が問いかける。
「どう思う?」
「処理がもう一歩かと。」
「そうだな。では整えてくれ。」
志乃は手慣れた手つきで、残っていた節を丁寧にとる。そして、刻んでいく。
「何の薬を作っていると思う?」
「越婢加朮湯でしょうか。」
「効能は?」
「浮腫と発汗があり、尿が出にくく節々の痛む者の……」
答える志乃を、礼介は目を細めて見つめた。
どこか誇らしげで、安心したような、そんな眼差しだった。
志乃は決心した。
自分で一歩、踏み出してみよう。
薬を届けに行く役を志乃が志願すると、礼介はほんの一瞬だけ目を見開き──すぐに、静かにうなずいた。
「……行ってこい。」
その一言が胸に染みた。
薬を無事に届け、志乃は大きな達成感を抱えて夕暮れの家へ戻った。一人で屋敷の外に出る事ができたのだ。
縁側の行燈を頼りに医学書を読みながら、洗濯物をたたむ。
そして、礼介に今日教わりたいことを思い浮かべていた。
「本は好きか?」
その声は礼介のものではなかった。
振り向くと、泰介が暗がりに立っていた。
切れ長の目、薄い唇。
笑ったところは見たことがない。
志乃は崩した姿勢で本を読んでいたため、慌てて姿勢を正した。
「はい。」
「たくさん本があるぞ。ついてこい。」
泰介様にあまり近づくな――佐蔵の言葉を思い出したが、この状況では断れない。
泰介はどこからか手燭を持ってきた。
屋敷を出ると辺りはすっかり暗い。
手燭の炎に導かれ、志乃は蔵に着いた。
蔵の中にはずらりと本が並んでいる。
志乃が夢中で書物の背表紙をなぞっていた、その背後で──
ガタン。
乾いた音が、まるで合図のように響いた。
胸の奥に、鈍い金槌を打ち込まれたような衝撃が走る。
振り返る。
蔵の戸が閉められていた。
さっきまで確かに外の空気を感じた隙間は、もうどこにもない。
次の瞬間、
ふっ。
風もないのに手燭の火が揺れ、弱々しく消えた。
闇。
目を開いても閉じても同じ、底なしの闇が押し寄せる。
息が詰まる。
触れてはいけない何かの気配が、背後から迫ってくる。
腕をつかまれた。冷たい手だ。
爪が食い込むほど強く、骨ごと握り潰すつもりかと思うほどだった。
そのまま乱暴に引き倒され、背中が固い床に打ちつけられる。
痛い。
痛いのに、声が出ない。
体の上に、重みがのしかかる。
男の体温。
圧迫で肺がつぶされるように苦しい。
足だけが自由で、必死に蹴ろうとするが、空を切るだけだった。
何が起きている?
どうして?
まとまらない思考が、闇の中で散乱する。
その混乱を断ち切るように──
唇がふさがれた。
熱い。呼吸ができない。
肺が悲鳴を上げている。
ようやく理解した。
自分は“狙われた”のだ。逃げ場のないところに閉じ込められて。
耳元に、低い声が落ちる。
「医頼館から礼介を追い出すのは簡単だ……抵抗するな。」
その名前を聞いた瞬間、志乃の体から力が抜けた。
拒めば、礼介が傷つく。
礼介が道を閉ざされる。
それだけは絶対に嫌だ。
闇より恐ろしいのは、自分がその“理由”になることだった。
唇を再び押し付けられる。
今度は力強く、ねじ伏せるように。
呼吸が浅くなる。
視界のない世界で、音だけがやけに鮮明に響く。
男の荒い息。
衣擦れの音。
床のきしみ。
自分の心臓の、荒々しい太鼓のような鼓動。
着物が乱暴に引っ張られ、冷気が肌に触れる。
同時に、熱い指の感触が首筋に、胸元に。
いやだ。
声にしようとするのに、震えた息しか出てこない。
──もう駄目だ。
体から力が抜け、冷たい涙がこぼれる。
心も体も、闇に飲まれそうになったその時。
ドン、ドン、ドン、ドン!
蔵の戸を激しく叩く音が響いた。
怒号のような、恐怖を切り裂く音の後に舌打ちが聞こえた。
重みがすっと消えた。
床の冷たさだけが残される。
足音が遠ざかっていく。
気配が消える。
涙が止まらない。
歯ががちがちと鳴る。
息を吸いたいのに吸えない。
体の端から端まで震えて止まらなかった。
殺される。体を奪われる。
どれもが、ほんの一歩手前だった。
それが去ったと分かった瞬間、全身の力が抜けた。
自分が生きている実感だけが、ひどく遠く感じた。
震える体を抱きしめ、必死に戸を探り当てる。
恐る恐る戸を開けて、周囲を見渡したが泰介はいない。
そこには平左が立っていた。
いつもと変わらぬ険しい顔で、ただひと言。
「大丈夫か。」
その問いを聞いた瞬間、志乃の膝から力が抜けた。
宇女の計らいで休むことを許されたが、布団の中で涙は止まらなかった。
夕食の場に来なかったことを礼介はどう思っているだろうか。
しかしこんな顔、こんな心では彼の前に出ることはできない。
泰介の目に宿っていたのは、怒りの闇。そして底知れぬ寂しさだった。
「善悦先生は後継ぎを礼介先生に、と考えているらしい。」
あの日、耳にした弟子の噂──。
それが、泰介の暴挙につながったのだろうか。
ならば礼介が大都へ行こうとしているのも……。
考えるほど、心は闇に沈んでいく。
ここも、もう安らぎの場所ではない。
そのことだけは、痛いほど分かった。
涙に濡れたまま、志乃は眠りへと落ちていった。




