触
頬にほんのり赤みがさし、少しふっくらとした。
紀一の妻・五月の顔を見て、仁朗は胸をなで下ろした。
神近に相談し、自分が出した「人参湯」が効いた――その確かな手応えに、医者見習いとしての誇りが温かく灯る。
五月は穏やかに微笑んだ。つわりが落ち着いた、それだけではない。
心の影まで晴れたように見える。
「仁朗さん、本当に……ありがとうございます。」
「同じ薬をもう少し続けて下さい。また持ってきます。」
そこで、同席していた五月の母が口を開いた。
「……あの方は、元気にしておられますか。」
“あの方”――表向きの言葉とは裏腹に、探るような眼差し。
つまりは、志乃がもう戻って来ないのか、それが聞きたいのだ。
「……そのように聞いています。」
二人は同時にほっと息をつく。
その笑顔の奥には、安堵が透けて見えた。
――志乃という“懸念”が消えた、と。
仕方のないことだ、と仁朗は思った。彼女らには彼女らの平穏がある。
けれど、志乃には何の罪もない。
存在そのものが“害”と見なされる理不尽を思うと、胸が痛んだ。
自分がここに連れてきたばかりに、肩身の狭い思いをさせたのかもしれない――
仁朗は珍しく深いため息をついた。
それにしても、兄はもっと冷静な人間だと思っていた。
婿入りしてしばらく経つ。さすがに志乃への思いは吹っ切れていたと思っていたのに。
襖を閉める手に力が入り、音がやや荒く響いた。
そのとき、背後から声がした。
「仁朗、ありがとな。五月、だいぶ良くなったって……で、何かあったか?」
“何かあったか”じゃない――仁朗は心の中で吐き捨てる。
そんなに人の気持ちが分かるなら、志乃や妻の気持ちにも気付けよ。
鋭い視線でにらみつけると、兄が戸惑った顔を見せた。
「これ、志乃に。」
書物、紙、そして菓子まで添えられている。丁寧に風呂敷へ包みながら紀一が言う。
「あいつ、元気にしてるか?」
「会ってないから分からん。」
さっきの社交辞令とは違い、事実を答える。
兄の声には、どうしようもなくにじむ優しさがあった。その声音に、仁朗の胸の怒りがふっとしぼんだ。
どこまでも志乃を案じる、その不器用な優しさ。
そして、本来なら次男の自分がこの家に入るはずだった――
兄が犠牲となり、自分は自由にやらせてもらっている。
そう思うと、怒りの矛先は行き場を失った。
……ああ、めんどくせぇ。
そのつぶやきは風に消え、長居しすぎたと気付いた。
このままでは約束の時間に遅れる。
仁朗は大康堂へと急いだ。
*
靜日庵。
礼介の茶の師・綜白が営む茶室である。
ここを再び訪れ、志乃は胸の奥がかすかに震えるのを感じた。
あの日から、いったいどれほど自分の境遇は変わったのだろう。
たった数か月。
けれど、人生が大きくうねるには十分な時間だった。
志乃は綜白の隣に座り、礼介の稽古を見守っている。
綜白の視線は、まるで孫を見つめるように温かい。
時折、手の角度をそっと直すだけで、後は湖の水面のように静かに見守っている。
やがて、「山茶花」をかたどった練りきりが運ばれてきた。
薄紅に染まる花弁が、中心の黄色をそっと抱いている。
可憐で、凛として、美しい――食べるのが惜しいほどに。
ひと口含むと、あんの甘さが静かに広がった。
胸の奥が温かくほどけていく。
――ああ、生きていて良かった。
あの事件以来、食の喜びを感じることが出来ていただろうか。
ただ空腹を埋めるために、感情の色を失ったまま口に運んでいた気がする。
味がしない。心が動かない。
心が傷つくと、世界まで色を失うのか。
でも――今は違う。
甘い。
あたたかい。
生きている、と感じる。
そしてこんなにもおいしい。
そう思える自分に、志乃は気付いた。”心”が、戻ってきている”のだ。
ふと視線を感じて顔を上げると、礼介がこちらを見ていた。
頬がゆるみすぎていたのだろう。慌てて姿勢を正す。
そのとき、気づいた。
礼介の動きが、どこか……違う。
以前、綜白が茶を点てた時より、茶筅の動きがゆっくりで力がこもっている。
「近くで見ても良いですよ。お濃茶です。」
綜白の言葉に身を乗り出し、茶碗をのぞけば、確かに粘りを帯びた深い色。
礼介は志乃をちらりと見るが、すぐ視線を器に落とす。
緊張しているのが一目でわかる。礼介は綜白の膝元へ、丁寧に茶碗を置いた。
綜白が味を確かめ、静かにうなずく。
「良いですよ。」
その一言に、礼介の肩からふっと力が抜けた。
「この前は合格をいただけなかったので、安心しました。」
「湯の温度、茶筅の動かし方……いずれも良くなっています。」
その時。
戸の外から声が聞こえ、綜白が招き入れたのは――
「神近先生!」
志乃は思わず立ち上がる。
いつもの色白で涼やかな顔が、今日は心なしか赤い。
「日に……焼けましたか?」
「ええ。何日も外にいたらこうなりました。」
丈原の野山を歩き続け、日に焼けたらしい。
綜白の勧めで席につく。
神近と向かい合うだけで、話したいことが次から次へと浮かんでくる。
けれど今は稽古の最中。
濃茶を出された神近は、驚くほど自然な所作で茶碗を扱った。
そんな姿に、志乃の心がじんと温まる。
そして、濃茶を口に含んだ志乃は、その力強い味に驚いた。
飲むというより“食べる”感覚。
「おいしい……」
うっとりとつぶやくと、礼介が小さく微笑んだ。
「稽古はここまで。」
綜白は静かに茶室を後にした。
「神近先生、来ていただいてありがとうございます。」
礼介は自分の点てた濃茶の味を確認し、器を置いて言った。
「こちらこそお招きいただきありがとうございます。志乃さんの元気な姿を見ることができて安心しました。先生のおかげです。」
神近が頭を下げたので、志乃も礼介に向かって頭を下げた。
横並びに座っていた神近は志乃の方に向き直った。
「仁朗さんもお招きいただいていたのですが、間に合いませんでした。志乃さんに会いたがっていたのですが……また機会を作りましょう。」
そうは言うが、中々人目のある所では会いにくい。そう考えるとここは安全だ。
礼介はそこまで考えてくれているのだろう。
「京極先生。志乃さんの事、本当にありがとうございます。」
「志乃の働きぶりには、うちの厳しい女中たちも感心していますよ。夜は学びにも励んでいます。」
神近が目を細めて言った。
「勉強を続けているんですね。諦めないでくれて良かった……」
そして目を伏せて、言葉を続ける。
「私は予定通り、春に大都へ行くことになりそうです。」
神近の言葉に、志乃の呼吸が止まった。
またあの背中が遠くへ行く――その想像だけで胸が苦しい。
「志乃さんは……どうしますか?」
ゆっくりと胸の奥に重く沈む問い。
行きたい。
また神近のもとで学びたい。
けれど、あの悪意が、今度は神近に向けられるかもしれない――
そんな恐れが胸に巣を作る。
こぶしを握る志乃を見て、神近は声をやわらげた。
「仁朗さんには和総に残ってもらおうと思っています。彼にはまだ医頼館で学ぶことがある。そして、ゆくゆくは足楢へ戻らなくては。お父上との約束です。」
「……え?」
仁朗も一緒に大都へ行くと思っていた。
「まだ仁朗さんには言っていません。ただ説得に時間がかかりそうなので、早く言わないといけないと思っています。」
神近が時折見せるこの表情が志乃は好きだ。困っているけどちょっと嬉しい、そういったような。
「仁ちゃんの説得、確かに大変そうですね……」
駄々をこねる仁朗の姿を思い浮かべた。
「志乃さんがどちらを選んでも、私は応援します。決めたら教えてください。」
「……ありがとうございます。」
その優しさに、胸がきゅっと痛む。
かつて、神近は仕事以外で深く人と関わらないようにしていると言っていた。
しかし、弟子二人の事をここまで考えてくれている。
本当に情の厚い人だ。
幸せは人それぞれだが、神近には、大事な自分の師にはとにかく幸せになってもらいたい。
そう心より思った。
静けさを破ったのは礼介の声だった。
「私は……先生について行ってもよろしいですか?」
突然の礼介の言葉に、志乃と神近の声が同時に重なった。
「……え!?」
礼介は真っ直ぐだった。
迷いも恐れもなく、ただ正面から神近を見つめていた。
「さっきから思っていたのですが……2人って似ていますよね。言われませんか?」
確かに、志乃の父が神近の師で、神近は志乃の師だ。師弟が似るのであれば……でも、それは医者としての考え方や方針か。
「仁朗さんによく言われますね。」
「そうですね。」
二人は顔を見合わせてうなずく。息ぴったりだ。
「話を戻しますが、京極先生は和総を離れることに抵抗はないのですか?」
何と言っても御上医の御子息だ。
後継ぎは長男の泰介かもしれないが、次男の礼介が御上医に選ばれる可能性も十分ある。
「私の兄も以前、西濱で西医学を学びました。いずれ戻ってこれば、何の問題もありません。そして、父の勧めでもあります。」
礼介はさらりと言った。
向かい合う、二つの美しい顔を志乃は見つめる。
「またお返事いたします。」
神近は答えた。そして志乃の方に向き直る。
「志乃さん、今後の事は一度ご家族とも相談してください。仁朗さんは年末年始、足楢に帰るそうです。許しが出たら、志乃さんも帰省されては……」
そこで神近は礼介に視線を送った。
礼介はうなずく。帰省の許可は下りたようだ。
診療所に戻る用があると、神近は先に靜日庵を後にした。
神近の姿が見えなくなるまで、志乃はその背中を見送った。
*
片付けを終え、二人で春田神宮の参道を歩く。
西日の光が木々の間を縫い、影が寄り添うように伸びていた。
玉砂利を踏む音が、二人の足元でやわらかく響く。
「誰も、見てないぞ。」
礼介が立ち止まり、志乃の右手を握った。
軽く。けれど、逃がさぬように。
振り払う理由が……見つからない。
ギュッ、ギュッ、と礼介は二度、力を込める。
“握り返してほしい”
――その合図だとすぐにわかった。
それでも志乃の指は宙に浮いたまま。
痺れを切らしたように、礼介の指が滑り込み、指と指が絡む。
世界が、音を失った。
志乃は横を見た。
礼介は、前だけを見ている。
見ない。でも、離さない。
その横顔が、夕陽に染まって美しい。
自分は……どうしたいのだろう。
迷いながら、志乃はほんの少しだけ指先に力をこめた。
触れた。
その瞬間、礼介の手が温かく強く応えた。
指先から、胸へ、全身へ――鼓動が広がっていく。
二人はゆっくりと歩き続ける。
誰かの姿が見えれば離れ、また触れ、また離れる。
その切なさと甘さのなか、夕暮れの参道を進んでいった。




