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さんさ 志乃の医薬譚  作者: 朝久野智秋
足楢編

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4/34

 雲ひとつない青空。群れを成した小鳥たちが陽を透かして飛んでいく。

帆を張る船は穏やかな波に揺られ、潮の香が頬をなでた。

――そのとき突然、空が裂け、海が荒れ狂う。白い波が船を呑み、世界が渦を巻く。

命からがらたどり着いたその岸は、かつて夢に見た“幻の島”だった。

 

 志乃は、ぱたりと本を閉じた。

本を読めば、知らぬ誰かになれる。どんな遠い国にも、一瞬で行ける。

まだ読めない字もあるが、それでも物語は心の中で確かに息づいている。

紀一から借りたその本を胸に置くと、心の奥に重たい現実が戻ってきた。

昨日、幼い命がひとつ、静かに消えたのだ。


 数日前。村長である治成はるなりから神近と志乃に、食事の誘いがあった。なぜか仁朗も同席することに。

「男と女ふたりで行くのも何だからな。」

そう言って仁朗が笑う。

(こんな時だけ女扱いするんだから……)

志乃は思いながらも、彼の存在にどこか救われていた。

神近も自分も口数が少ない。三人でいる方が自然だった。

 

 治成の家には、妻と息子夫婦、そして治成の孫である若い娘たち。皆が神近を珍しいものでも見るように囲む。

「神近様は、おいくつで?」

「今年で二十八になります。」

志乃ははっとした。そんなことも知らなかった。問うことさえためらっていたのだ。

神近は語った。

――和総かずさの高名な医者に弟子入りするため旅をしていたが、門が閉ざされ、途方に暮れた。

南へ南へと歩き、力尽きて倒れた先が足楢そくならだった、と。

「ずっといてくればいいのに。」

仁朗がささやく。志乃も胸の内で同じ言葉を繰り返した。

けれど、宴の空気は次第に違う色を帯びていった。

娘を神近に近づけよう――そんな思惑がちらつく。

志乃は自分たちは先に帰るべきだと伝えたが、仁朗が「俺は帰らん」と言い張る。

結局、神近が穏やかに場を収め、ようやくお開きとなった。


「二人とも気を遣わせてしまったね。」

神近が綺麗な形の眉を下げて言った。

「神様、いい話じゃないですか。娘さんたち、目が真剣でしたよ。」

「そうは言っても、あの場では仁朗さんも対象者でしたよ。」

「え、俺も?……ああ、もっと話しておけばよかったなぁ。」

にやける仁朗に、志乃は思わず白い目を向ける。

場を和ませようと神近が話しかけてきた。

「志乃さん、食事おいしかったですね。」

「はい。神近先生のおかげで、ごちそうをいただけました。」

志乃は、この数か月言えずにいた言葉をようやく口にした。

「先生……お暇なときに見ていただきたい本があります。難しくて、私にはまだ……」

「いつでも。志乃さんは、本を読むために、字を勉強しているのですよね。」

「俺が見てやるよ。」

「お断り。」

「志乃さんの方が読み書きは上手ですよ。」

神近が笑うと、仁朗は肩をすくめた。

笑い声とともに、道の木々の緑が輝いて見えた。春の淡さとは違う、夏へ向かう強い生命の色――。

神近が現れてから、志乃の世界はどこか鮮やかになっていた。

明日が待ち遠しい。そう思える日々など、これまでなかったのに。


「志乃ー!」

遠くから呼ぶ声に顔を上げると、姉の佳乃かのが駆けてきた。

その表情は曇っていた。

「……かおるちゃんの子、だめだった。」

胸が締めつけられた。昨日から産気づいていると聞いていた。けれど、まさか――。

佳乃は神近に一礼し、志乃の手を強く握った。

「志乃、行こう。」

二人はそのまま走り出した。


 翌日、神近の小屋は人でにぎわっていた。

最近、材木屋の横に新しい診療所兼自宅ができたのだ。

きっかけは、大工の傷を神近が見事に縫い合わせたこと。その大工が「恩返しに」と建てたのだという。

帳簿の記載を手伝い終えた志乃に、神近が静かに問うた。

「昨日のお産……もし差し支えなければ、どんな様子だったか教えてください。」

神近が人のことを尋ねるのは珍しい。志乃はゆっくり語った。


 かおるの出産には、この地方で名高い産婆がついていた。

逆子ではなかった。だが、赤子の頭は見えても、どうしても最後のひと押しが出なかった。

母の体力が尽き、陣痛が弱まり――生まれたときには、すでに息がなかった。

そういったことは、残念ながら時々ある。誰も悪くない。けれど、胸の奥が痛んだ。

丸いお腹を優しく撫でていたかおるの姿が、脳裏から離れない。

神近は静かに息を吐いた。

「……私に声がかからなかったのは、残念です。結果が変えられたなどとは思いません。ただ、もしかすると助けられたかもしれない。けれど、男の医者にお産を任せることへの抵抗感は、まだ強いのでしょう。」

志乃は、いつになく多弁な神近の豊かなまつ毛を見つめている。

「私は、お産で亡くなる赤子を減らしたいと願って医者になりました。異国で学びもしました。けれどこの国では、男の医者が立ち会うことがない。命がかりの場面でさえも。それが悔しいのです。」

志乃は、胸の奥で何かが震えた。

いつも穏やかで冷静な神近。その奥に、こんなにも熱い思いがあったとは。

光を見たような気がした。

「……私のお産のときは、ぜひお願いいたします。」

自分の口から出た言葉に、志乃は息をのんだ。

「い、いえ! そんな予定はなくて……いつかの話で……。」

顔から湯気が出そうだ。

神近は優しく笑った。

「志乃さんにそんなことを言わせてしまってすみません。でも、ありがとう。志乃さんは賢くて、優しい。私は何度も救われています。そういえば、私はまだ恩返しをしていませんね。何か望みはありますか?」

(願いを言ったら、先生がここを離れてしまうかもしれない……。)

「……考え中です。」

「では、思いついたらいつでも。」

「……あ、本を読んでいただくという件は別でお願いします!」

志乃は慌てて言った。

神近は少し驚いた顔をして、すぐに声を上げて笑った。

「別件ですね。わかりました。」


 神近は庭に下り立ち、白い小さな花に触れた。

川芎せんきゅうです。少し早く咲きました。

この根は血の巡りをよくし、産後の疲れを癒すのです。いつか、お産に携われるようになったとき、役に立つ薬を作りたい。」

白い花弁が風に揺れる。

志乃はその花の先に、まだ見ぬ未来を見た。

命が芽吹き、また失われ、それでも誰かが願い続ける。

その願いに対して自分は何ができるのか――心から、それを見つけたいと思った。


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