産
雲ひとつない青空。群れを成した小鳥たちが陽を透かして飛んでいく。
帆を張る船は穏やかな波に揺られ、潮の香が頬をなでた。
――そのとき突然、空が裂け、海が荒れ狂う。白い波が船を呑み、世界が渦を巻く。
命からがらたどり着いたその岸は、かつて夢に見た“幻の島”だった。
志乃は、ぱたりと本を閉じた。
本を読めば、知らぬ誰かになれる。どんな遠い国にも、一瞬で行ける。
まだ読めない字もあるが、それでも物語は心の中で確かに息づいている。
紀一から借りたその本を胸に置くと、心の奥に重たい現実が戻ってきた。
昨日、幼い命がひとつ、静かに消えたのだ。
数日前。村長である治成から神近と志乃に、食事の誘いがあった。なぜか仁朗も同席することに。
「男と女ふたりで行くのも何だからな。」
そう言って仁朗が笑う。
(こんな時だけ女扱いするんだから……)
志乃は思いながらも、彼の存在にどこか救われていた。
神近も自分も口数が少ない。三人でいる方が自然だった。
治成の家には、妻と息子夫婦、そして治成の孫である若い娘たち。皆が神近を珍しいものでも見るように囲む。
「神近様は、おいくつで?」
「今年で二十八になります。」
志乃ははっとした。そんなことも知らなかった。問うことさえためらっていたのだ。
神近は語った。
――和総の高名な医者に弟子入りするため旅をしていたが、門が閉ざされ、途方に暮れた。
南へ南へと歩き、力尽きて倒れた先が足楢だった、と。
「ずっといてくればいいのに。」
仁朗がささやく。志乃も胸の内で同じ言葉を繰り返した。
けれど、宴の空気は次第に違う色を帯びていった。
娘を神近に近づけよう――そんな思惑がちらつく。
志乃は自分たちは先に帰るべきだと伝えたが、仁朗が「俺は帰らん」と言い張る。
結局、神近が穏やかに場を収め、ようやくお開きとなった。
「二人とも気を遣わせてしまったね。」
神近が綺麗な形の眉を下げて言った。
「神様、いい話じゃないですか。娘さんたち、目が真剣でしたよ。」
「そうは言っても、あの場では仁朗さんも対象者でしたよ。」
「え、俺も?……ああ、もっと話しておけばよかったなぁ。」
にやける仁朗に、志乃は思わず白い目を向ける。
場を和ませようと神近が話しかけてきた。
「志乃さん、食事おいしかったですね。」
「はい。神近先生のおかげで、ごちそうをいただけました。」
志乃は、この数か月言えずにいた言葉をようやく口にした。
「先生……お暇なときに見ていただきたい本があります。難しくて、私にはまだ……」
「いつでも。志乃さんは、本を読むために、字を勉強しているのですよね。」
「俺が見てやるよ。」
「お断り。」
「志乃さんの方が読み書きは上手ですよ。」
神近が笑うと、仁朗は肩をすくめた。
笑い声とともに、道の木々の緑が輝いて見えた。春の淡さとは違う、夏へ向かう強い生命の色――。
神近が現れてから、志乃の世界はどこか鮮やかになっていた。
明日が待ち遠しい。そう思える日々など、これまでなかったのに。
「志乃ー!」
遠くから呼ぶ声に顔を上げると、姉の佳乃が駆けてきた。
その表情は曇っていた。
「……かおるちゃんの子、だめだった。」
胸が締めつけられた。昨日から産気づいていると聞いていた。けれど、まさか――。
佳乃は神近に一礼し、志乃の手を強く握った。
「志乃、行こう。」
二人はそのまま走り出した。
翌日、神近の小屋は人でにぎわっていた。
最近、材木屋の横に新しい診療所兼自宅ができたのだ。
きっかけは、大工の傷を神近が見事に縫い合わせたこと。その大工が「恩返しに」と建てたのだという。
帳簿の記載を手伝い終えた志乃に、神近が静かに問うた。
「昨日のお産……もし差し支えなければ、どんな様子だったか教えてください。」
神近が人のことを尋ねるのは珍しい。志乃はゆっくり語った。
かおるの出産には、この地方で名高い産婆がついていた。
逆子ではなかった。だが、赤子の頭は見えても、どうしても最後のひと押しが出なかった。
母の体力が尽き、陣痛が弱まり――生まれたときには、すでに息がなかった。
そういったことは、残念ながら時々ある。誰も悪くない。けれど、胸の奥が痛んだ。
丸いお腹を優しく撫でていたかおるの姿が、脳裏から離れない。
神近は静かに息を吐いた。
「……私に声がかからなかったのは、残念です。結果が変えられたなどとは思いません。ただ、もしかすると助けられたかもしれない。けれど、男の医者にお産を任せることへの抵抗感は、まだ強いのでしょう。」
志乃は、いつになく多弁な神近の豊かなまつ毛を見つめている。
「私は、お産で亡くなる赤子を減らしたいと願って医者になりました。異国で学びもしました。けれどこの国では、男の医者が立ち会うことがない。命がかりの場面でさえも。それが悔しいのです。」
志乃は、胸の奥で何かが震えた。
いつも穏やかで冷静な神近。その奥に、こんなにも熱い思いがあったとは。
光を見たような気がした。
「……私のお産のときは、ぜひお願いいたします。」
自分の口から出た言葉に、志乃は息をのんだ。
「い、いえ! そんな予定はなくて……いつかの話で……。」
顔から湯気が出そうだ。
神近は優しく笑った。
「志乃さんにそんなことを言わせてしまってすみません。でも、ありがとう。志乃さんは賢くて、優しい。私は何度も救われています。そういえば、私はまだ恩返しをしていませんね。何か望みはありますか?」
(願いを言ったら、先生がここを離れてしまうかもしれない……。)
「……考え中です。」
「では、思いついたらいつでも。」
「……あ、本を読んでいただくという件は別でお願いします!」
志乃は慌てて言った。
神近は少し驚いた顔をして、すぐに声を上げて笑った。
「別件ですね。わかりました。」
神近は庭に下り立ち、白い小さな花に触れた。
「川芎です。少し早く咲きました。
この根は血の巡りをよくし、産後の疲れを癒すのです。いつか、お産に携われるようになったとき、役に立つ薬を作りたい。」
白い花弁が風に揺れる。
志乃はその花の先に、まだ見ぬ未来を見た。
命が芽吹き、また失われ、それでも誰かが願い続ける。
その願いに対して自分は何ができるのか――心から、それを見つけたいと思った。




