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さんさ 志乃の医薬譚〜恋せよ乙女、医の道をゆけ〜  作者: 朝久野智秋
和総編

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39/48

 早朝。

おけとひしゃくを手にした志乃は、静まり返った庭にそっと降り立った。

聞こえるのは、鳥たちが朝を告げる透き通ったさえずりだけ。

季節はゆっくりと秋へ傾き、葉は夜の冷え込みごとに深い色を帯びていく。

志乃は、ふと足を止め、ある花の前にしゃがみこんだ。

白くとがった五枚の花弁が、薄明かりの中できらりと光る。

水を与えると、まるで星が瞬くようにその白さがさらに冴えた。

――センブリ。

「千回振り出してもまだ苦い」――そんな異名を持つほどの薬草。

この草花が、当薬とうやくという生薬になる。

誰が植えたのだろう。この一角だけ、不自然なほど咲き乱れている。

ふと、「生薬図譜」の事を思い出した。

いま藤木が大切に保管してくれているはずだ。

父はかつて、あの本を開きながら足楢の家で草木を世話していたのだろうか――。

そう思うと、胸の奥に微かな温もりが灯った。


 と、肩にやわらかな気配が触れた。

志乃が振り返ると、少し眠たげな顔の礼介が夜着のまま立っている。

「そんなに驚かなくても。目玉、飛び出そうだぞ。」

志乃が慌てて手で顔を覆うと、礼介は目尻を細めて笑った。

彼の笑みには、朝の光より柔らかなものがあった。

立ち上がる志乃は、昨夜遅くまで帰らなかった彼の疲れが顔に残っていることに気づく。

それすらも――美しいと思った。

妬ましさではない。ただ、胸の奥の何かが、そっと葉を広げたようだった。


 礼介に連れられて庭を歩く。

「志乃、屋敷から全然出てないんじゃないか?」

確かに京極家にうつってきてから、一度も門の外に出ていない。

「……はい。」

「出掛けてもいいんだぞ。」

「……怖いのです。」

大康堂の者に会ってしまったら。

彼らの目には今も、志乃は恩知らずの盗人にしか映らない。

無実を証明できる場もなく、証明しようとしても――難しい。

志乃は胸の奥の痛みを押さえるように、そっと左手を添えた。

そのとき。

横に垂れた志乃の右手を、礼介がふいに――しかし驚くほど優しく、包んだ。

温かい手。

驚きに志乃は礼介を見上げる。

「一緒に、出掛けるか。」

その声は、迷い込んだ心をそっと外へと誘う風のようだった。

握られた手が、心臓の鼓動と同じ速さで熱を帯びていく。

どうすればいいか分からず、志乃は息を大きく吸い込む。

「駄目です……まだ死にたくない。」

とっさに言ってから、自分の矛盾に気づく。

あれほど消えてしまいたいと思っていたのに――いまは、違った。

「なんだ、それ。」

礼介がぐっと顔を近づける。

志乃は手をつかまれたまま、思わず身を引いた。

「佐郷様に言われました。礼介様の……追っかけの女性に目をつけられると、命が危ないと……」

礼介は吹き出すように笑った。

朝の冷たい空気まで揺れるほど、明るく。

「冗談に決まってるだろ。」

「佐郷様、怖い顔でしたよ。」

志乃が真剣に言うと、礼介は手を離し、ぽん、と軽く志乃の頭に触れた。

その一瞬のぬくもりが、志乃の胸の奥で小さな芽を震わせた。

「まぁ、考えておいてくれ。」

そう言い残して屋敷へ戻っていく。

志乃の右手には、まだ彼の体温がやさしく残っていた。



 神近は山鹿吉基の往診に同行している。

呉服屋の店主は、貫禄ある体つきの壮年の男性。

彼の症状は不安、不眠、顔のほてり――いずれも強い熱を内に抱える者の症状だ。

七日前、吉基は「黄連おうれん」「黄芩おうごん」「黄柏おうばく」「山梔子さんしし」といった熱を冷ます生薬からなる「黄連解毒湯おうれんげどくとう」を出した。

――黄柏。キハダの樹皮。

神近の脳裏に先日、丈原たけはらの山で剥ぎ取ったキハダの鮮やかな黄色がよみがえる。

仁朗がいればもっと早く見つかっただろう。

和総かずさでは生薬問屋で簡単に手に入るのだが、自分で探して採る楽しみがある。

足楢そくならでの生活がまだ染みついているのだ。

採取の時期は通常、梅雨時。そのため、秋の樹皮が乾燥していて剝ぐのに苦労した。

一緒にいた茶谷朔太郎は、いきなり樹皮を剥ぎ始めた神近を見て、ぎょっとしていた。


 診察を終えた吉基が神近に視線で合図する。

「神近殿も。」

坂上とは違い、神近にも診察を勧めた。

神近は舌、脈、腹を確かめる。

舌は赤く、厚い黄色の苔。

脈は大きく、力がある。

腹は張り、みぞおちには熱が鬱積うっせきしている。

「お通じは?」

「三日ほどありません。」

「頭痛はありますか?」

「時々、重たくなったり、痛くなったりします。」

吉基は挑むような目で問う。

「薬を足すか。」

「はい。三黄瀉心湯さんおうしゃしんとうがよいかと。」

黄連おうれん」、「黄芩おうごん」、に、通じを良くして熱を冷ます「大黄だいおう」を加えた薬だ。

「私もそう思っていた。」

吉基は満足げにうなずいた。

神近は奥方に食事の内容・酒の量、本人に運動についても丁寧に尋ねた。

頭痛もあり、脈もかなり強い。塩分過多を疑っているのだ。

やはり、塩を多く使った食事をよく摂っており、酒も多いようだ。

そして、仕事の時もほぼ座っている。日常で体を動かす場面は少ない。

「恐れながら、塩を控え、体を動かすことも薬になります。」

そう告げると、吉基はふっと息を吐いた。

「やはり、師に似ておるな。……もっとも、二条は何を考えているのか分かりづらかったが。」

……褒め言葉には聞こえない。

吉基と師の関係は未だつかめない。

神近はただ静かに頭を下げた。



 昼前。

志乃は勇気を奮い、京極家の門の外に出た。

門周りを掃くためだけ――それでも外の空気は胸をざわつかせる。

通りを行き交う人々は、志乃に気を留めない。

それなのに、どうしてこんなに怖いのだろう。

早々に切り上げ、門内へ戻ろうとしたとき――泰介たいすけが屋敷から出てこちらへ歩いてきた。

志乃は深く頭を下げる。

初日に挨拶して以来、時折見かける程度であった。

屋敷は広く、志乃の仕事は基本的に裏方だ。泰介も多忙なのか不在が多い。

足音が、目の前で止まる。

しばらく経っても止まったままだ。

志乃は恐る恐る顔を上げた。すると泰介と目が合った。

横に平左へいざ――佐郷の父、と女中の多袈たけの姿も見えた。

「……慣れたか。」

志乃はまた顔を深く下げた。

「……はい。」

すると、また足音が聞こえた。

志乃が顔を上げたころには、泰介と平左の背中が見えた。多袈が門の所で見送っている。

短い言葉。

悪意はない。むしろ気遣いだろう。

それなのに――胸のどこかが、ひどく冷えた。

理由は分からない。

志乃はしばらく、胸の奥のざらつきに身動きできずにいた。

 

 昼下がり。

いつもより早く帰ってきた礼介が、茶の稽古に志乃を誘った。

志乃が返事できないでいると、

「今日の菓子は、紅葉か、山茶花さざんかか……。味も見目も美しいだろうな。」

――ばれている。

志乃が菓子に弱いことなど、どうして彼は分かるのだろう。

けれど。

いつまでも屋敷の中に閉じこもるわけにはいかない。

礼介が背中を押してくれているのだ。

「……行きます。」

言った瞬間、礼介の瞳がぱっと輝いた。

「そう言うと思っていた。で、朝のつづきだが……手、つないで行くか。」

子どものように無邪気な笑顔。

きっと……冗談だ。

でもこんなにキラキラした目で言われると……

志乃はその顔に負けそうになる。視線をそらして言った。

「……遠慮しておきます。」

「それは残念。」

軽口を交わしながら、志乃は身支度を整えた。


 礼介と佐蔵に連れられ、久しぶりに外へ出る。

ーーそうだ、和総かずさは華やかな街だ。

この街のいろどりを一月ほどの間、忘れていた。

志乃の目に映る、あらゆる景色がもやの中に沈んで見えていた。

しかし、今日の和総は、目に痛いほど鮮やかだ。

そして、志乃は無意識に行き交う顔を探してしまう。

出会いませんように。どうか。

このままだと大康堂の前を通ることに気付き、志乃の胸は早鐘を打った。

その瞬間、通りをそのまま進む佐蔵と別れて、礼介はさりげなく道を曲げた。

その背中に――志乃は気づく。

「……ありがとうございます。」

礼介はちらりと振り返り、短くうなずいただけだった。

けれどその一瞬に、志乃にははっきりと見えた。

彼の瞳の底にある、言葉より深い、やわらかな色を。

そして、それは確かに――芽吹きはじめていた。


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