因
神近の姿は今、和総の隣国――丈原の山道にあった。
和総を治める檜山家の若君・勝時が、原因不明の病に伏している。
丈原の高地で鷹狩を行い、和総へ戻って数日後。
初めは膝に小さな発疹が浮かんだ。
それが、まるで地図を描くように広がり、足全体を覆っていった。
ほどなく熱、倦怠、節々の痛み――。
御上医三名が診ても病状は読めぬうえ、投じた薬も効きが悪い。
事態の重さから、ついに医頼館にも声がかかった。
御上医以外は若君を診ることを許されない。
できることはただ一つ――丈原の地を視察し、病の因を探る。
その任が、神近に下された。
志乃が京極家に移り、胸の奥にひび割れたような空白を抱えていた神近は、迷わず引き受けた。
丈原行きは、空気を入れ替えるような機会だった。
とはいえ、大康堂には診療を待つ者がいる。滞在できるのは数日が限度だ。
仁朗に任せてきたが、彼は最後まで同行できないことを悔しがった。
――仁朗は、変わった。
基礎を身につけ、自分で考えより良き治療に応用する力もついてきた。
嬉しい反面、ほんのわずかな寂しさが胸に差す。
これからは、志乃と同じように、仁朗にも自分以外の“医の目”を見てほしい。
人は狭い世界に閉じこもれば、誤る――その痛みを、神近はよく知っていた。
歩き続けて半日。
勝時の一行が鷹狩の際に滞在していたという山麓の集落に着く。
同行しているは谷路寿と、若手の茶谷朔太郎。
集落の長の家へ向かったが、谷路は早々に高圧的な態度で質問を始める。
神近は隣で深いため息をつく。
――これでは誰も本音で話さない。
檜山家の若君の病――不用意な言葉ひとつで縄をかけられる可能性さえあるのだ。
三人はやむなく手分けして聞き込みを始めた。
神近の胸には一つの仮説があった。
――虫が媒介する病ではないか。
ならば、野で働く者に尋ねるのが早い。
畑に立つ農夫たちへ次々と声を掛けたが、同じ症状の情報は得られなかった。
人気の少ない野に出ると、ふいに胸がうずいた。
高い空を渡る風に吹かれ、ここ数年の景色が胸に蘇る。
足楢での日々――。
仁朗と志乃と歩いた帰り道。
三人で採った桂皮の香り。
志乃が摘んだ大棗の優しい甘み。
様々な光景が一気に押し寄せ、足が止まる。
――自分で選んだ道だった。
けれど、もしあのまま足楢で医者を続けていたら。
志乃も、足楢の陽だまりの中で穏やかに生きていたのではないか。
女だからと諦めるなと背中を押し、和総へ連れてきた。
その結果、彼女を孤立へ追いやったのは自分ではないか。
――何が師匠だ。
胸の奥が痛んだ。
遠い昔の痛みと、今の悔いが重なり、深い穴をつくる。
守れなかった声が、過去から静かに忍び寄る。
空を仰ぐと、椋鳥の群れが影を作りながら飛んでいった。
その羽音は、胸の奥に置き去りにした後悔の音のようで、神近はゆっくりと目を閉じた。
――守ると決めたはずだったのに。
世界が静かに夕闇へと沈んでいった。
翌日、隣の集落へ足を伸ばした。
鍬を担ぐ初老の男に声を掛けると、思いがけない答えが返ってくる。
「去年、隣の爺さんがそんなふうな発疹を出してな……」
その老人は、つい先日亡くなったという。
「医者には診てもらいましたか?」
「診てもらったと言っていた。村の先生にな。」
男は淡々と言う。
独り暮らしで家族はいなかったため、それ以上の手がかりはないという。
――いや、ある。
本人が語れないなら、診た者を探すまでだ。
神近は教えられた医者の家を訪ねる。
「ごめんください。」
戸を叩いても反応はない。
帰ろうと踵を返したその瞬間、ガラリ、と戸が開いた。
「誰だ。」
三白眼。白い髪と髭。まるで山の仙人のような男だった。
「和総から参りました、医者の神近義道と申します。ある病についてお伺いしたく――」
神近が事情を話す間、男は何も言わず睨むように見つめている。
「……入れ。」
男の名は松下宗三。
畳の部屋に通されると、百味箪笥が重々しく鎮座し、嗅ぎ慣れた生薬の匂いが鼻を打つ。
松下が座り、その向かいに神近は腰を下ろした。
「ある病、とは?」
「檜山家の御子息が先日、この近くの山野で鷹狩をされました。その後、足に広がり続ける皮疹、熱、倦怠感などの症状が出たとの事です。そのような病を先生が見られたことはあるか、お聞きしたかったのです。」
松下は返事をしない。眉が少しぴくりと動いただけだ。
神近は言葉を待つ。
「……このあたりでは時々ある。発疹の中心に虫にかまれた痕はないか。」
「実際にお体を診ていないので……ですが、真蜱を疑っております。」
「ほう。」
その一言で、松下の瞳に生気が宿った。実際は思った以上に若いかもしれない。
「お主、その病を診たことが?」
「いえ。西の国に行っていたときに、そのような病があると耳にしただけです。」
「西の国……」
松下は少し遠い目をした。よく見ると、仙人というほどの年ではなさそうだ。
松下は黙り、神近をじっと見つめ続けた。
「治療法を……ご存じですか?」
その時、戸が激しく叩かれた。
「先生、診てくれ!」
松下は、立ち上がって言った。
「すまん、出直してくれ。」
神近は深々と頭を下げ、家を後にした。
夕方、再度訪ねたが松下は不在だった。
谷路と茶谷はいずれも有力な情報は得られなかったようだ。
最初の集落にいるからだろう。
今日の事を話すと谷路が松下の所に押しかけかねない。
神近は黙っていることとした。
翌朝。松下はまた不在。
近所の者に「川で釣りをしている」と教えられ、神近は冷え込む朝の川へ向かった。
流れに糸を垂らす白髪の背中。
松下は横目で神近を見た。
「昨日の続きか。」
「はい。ご存じの事があれば何でも教えていただきたいです。」
「治療は分からん。ただ、熱と節々の痛みに対しては薬を出す。大方は時が治す。」
神近は安堵した。
西国で聞いた病のなかには、気が触れたり、手足が痺れたままになるものもあったからだ。
「ただし、弱っている者は死ぬ。」
神近の胸に冷たい風が吹いた。
「貴殿、どこで医をやっている。」
「異国に長く滞在し、今は“医頼館”という医術の学び舎で修行をしております。」
医頼館――その名を聞いた瞬間、松下の眉間の皺が深く刻まれた。
松下は何かを知っている……神近の第六感が働いた。
「わしは戻る。」
松下は立ち上がり、釣竿を持って足早に立ち去っていく。
神近は追いかけて声を掛けるが、松下は振り向かない。
松下の背へ、神近は衝動的に呼びかける。
「二条信勝先生をご存じでは。」
松下は、ぴたりと止まった。振り向いた目に宿った光は、先ほどとはまるで違っていた。
「私の師です。」
「……ついてこい。」
松下の家へ戻る途中、道すがら神近は矢継ぎ早に質問を受けた。
二条信勝は今どこにいるのか。何をしているのか。
そして、家の前には数人の患者が待っていた。
神近は座敷の端で松下の診察を見守る。
松下は言葉こそ荒いが、診察は丁寧で、判断は速い。
薬研を神近に放り、薬を作れと促す手つきも、どこか信頼に満ちていた。
一段落した頃、松下は唐突に言った。
「……二条には、悪いことをした。」
静かな部屋に、その言葉だけが沈んで落ちた。
そして語られた――
重い鉛のような沈黙を割って、溢れる懺悔。
欲と嫉妬と策謀が渦巻いた、医頼館の暗くて深い闇。
二条信勝、矢神宗敬、茶谷徳治。
かつて、医頼館の未来を担う若い三名がいた。
矢神家は中畑の古い医家。
金と権勢で他の医者を抱き込み、勢力を広げていた。
対抗する茶谷徳治。
御上医を務める茶谷家の次男だ。
松下は徳治の「手足」として、裏の仕事を任されていた。
そして二条信勝――。
大都の商家出身。山鹿元医にその才を認められ、医頼館へ迎えられた。
地位にも名誉にも興味を示さず、ただ医の道を歩いた二条。
静かで、まっすぐで、どこまでも純粋な男。
だからこそ、二人は苛立ち、嫉妬した。
山鹿家の長女の婿候補――一番手は二条だった。
しかし、二条が妻子を持ったことで候補から外された。
その妻子が、なつと佳乃。志乃の母と姉だ。
やがて流れた噂――
二条の妻子の件は、矢神の差し金だったのではないか。
真相は誰も知らない。
それでも、山鹿元医は自分の娘を、二条の「本妻」にすることを諦めなかった。
そこで、二条を排除するために、茶谷徳治は松下に命じた。
具体的に何をしたか――松下は語らない。
だが結果、二条の妻子は追われるように足楢へ。二条は足楢と和総を往復する生活。
そして茶谷徳治も理由は分からないが、医頼館を出て大都へ移ることになった。
それと同時に、松下は医頼館から放逐された。
残ったのは、徳治の弟・茶谷吉基と矢神宗敬。
二人は手を組み、権力を固めた。
――その渦に巻き込まれ、潰された男が、二条だった。
「……わしは、償うこともできず、ここへ流れ着いた。」
松下は静かに言った。
松下は今、山村の医として静かに生きている。
好きな時に釣りをし、山に入り、集落の人間に頼られながら過ぎていく日々。
医者として、悪くない人生だ――神近は思った。
だがその陰に、消えない悔恨と罪がある。
そしてその罪は、二条信勝の家族――志乃の胸にも影を落とし続けている。
神近は目を伏せた。
師が、どれほどの孤独に耐えてきたのか。
そして、その娘がどれほど寂しい思いをしてきたのか。
心の奥の古傷がずきりと痛む。
守れなかった声が、また胸に帰ってくる。
因はまだ終わっていない。
誰かが断たねば――二条にも、志乃にも、また牙をむく。
神近は拳を握った。
もう二度と、守れなかったあの日のようにはしない。
絶対に。




