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さんさ 志乃の医薬譚〜恋せよ乙女、医の道をゆけ〜  作者: 朝久野智秋
和総編

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38/48

 神近の姿は今、和総かずさの隣国――丈原たけはらの山道にあった。

和総を治める檜山家の若君・勝時が、原因不明の病に伏している。

丈原の高地で鷹狩を行い、和総へ戻って数日後。

初めは膝に小さな発疹が浮かんだ。

それが、まるで地図を描くように広がり、足全体を覆っていった。

ほどなく熱、倦怠、節々の痛み――。

御上医三名が診ても病状は読めぬうえ、投じた薬も効きが悪い。

事態の重さから、ついに医頼館にも声がかかった。

御上医以外は若君を診ることを許されない。

できることはただ一つ――丈原の地を視察し、病のもとを探る。

その任が、神近に下された。

志乃が京極家に移り、胸の奥にひび割れたような空白を抱えていた神近は、迷わず引き受けた。

丈原行きは、空気を入れ替えるような機会だった。

とはいえ、大康堂には診療を待つ者がいる。滞在できるのは数日が限度だ。

仁朗に任せてきたが、彼は最後まで同行できないことを悔しがった。

――仁朗は、変わった。

基礎を身につけ、自分で考えより良き治療に応用する力もついてきた。

嬉しい反面、ほんのわずかな寂しさが胸に差す。

これからは、志乃と同じように、仁朗にも自分以外の“医の目”を見てほしい。

人は狭い世界に閉じこもれば、誤る――その痛みを、神近はよく知っていた。


 歩き続けて半日。

勝時の一行が鷹狩の際に滞在していたという山麓の集落に着く。

同行しているは谷路寿たにみちひさしと、若手の茶谷朔太郎。

集落の長の家へ向かったが、谷路は早々に高圧的な態度で質問を始める。

神近は隣で深いため息をつく。

――これでは誰も本音で話さない。

檜山家の若君の病――不用意な言葉ひとつで縄をかけられる可能性さえあるのだ。

三人はやむなく手分けして聞き込みを始めた。

神近の胸には一つの仮説があった。

――虫が媒介する病ではないか。

ならば、野で働く者に尋ねるのが早い。

畑に立つ農夫たちへ次々と声を掛けたが、同じ症状の情報は得られなかった。

人気の少ない野に出ると、ふいに胸がうずいた。

高い空を渡る風に吹かれ、ここ数年の景色が胸に蘇る。

足楢そくならでの日々――。

仁朗と志乃と歩いた帰り道。

三人で採った桂皮けいひの香り。

志乃が摘んだ大棗たいそうの優しい甘み。

様々な光景が一気に押し寄せ、足が止まる。

――自分で選んだ道だった。

けれど、もしあのまま足楢で医者を続けていたら。

志乃も、足楢の陽だまりの中で穏やかに生きていたのではないか。

女だからと諦めるなと背中を押し、和総へ連れてきた。

その結果、彼女を孤立へ追いやったのは自分ではないか。

――何が師匠だ。

胸の奥が痛んだ。

遠い昔の痛みと、今の悔いが重なり、深い穴をつくる。

守れなかった声が、過去から静かに忍び寄る。

空を仰ぐと、椋鳥むくどりの群れが影を作りながら飛んでいった。

その羽音は、胸の奥に置き去りにした後悔の音のようで、神近はゆっくりと目を閉じた。

――守ると決めたはずだったのに。

世界が静かに夕闇へと沈んでいった。


 翌日、隣の集落へ足を伸ばした。

くわを担ぐ初老の男に声を掛けると、思いがけない答えが返ってくる。

「去年、隣の爺さんがそんなふうな発疹を出してな……」

その老人は、つい先日亡くなったという。

「医者には診てもらいましたか?」

「診てもらったと言っていた。村の先生にな。」

男は淡々と言う。

独り暮らしで家族はいなかったため、それ以上の手がかりはないという。

――いや、ある。

本人が語れないなら、診た者を探すまでだ。

 

 神近は教えられた医者の家を訪ねる。

「ごめんください。」

戸を叩いても反応はない。

帰ろうと踵を返したその瞬間、ガラリ、と戸が開いた。

「誰だ。」

三白眼。白い髪と髭。まるで山の仙人のような男だった。

「和総から参りました、医者の神近義道と申します。ある病についてお伺いしたく――」

神近が事情を話す間、男は何も言わず睨むように見つめている。

「……入れ。」

男の名は松下宗三まつしたそうざ

畳の部屋に通されると、百味箪笥(ひゃくみだんす)が重々しく鎮座し、嗅ぎ慣れた生薬の匂いが鼻を打つ。

松下が座り、その向かいに神近は腰を下ろした。

「ある病、とは?」

「檜山家の御子息が先日、この近くの山野で鷹狩をされました。その後、足に広がり続ける皮疹、熱、倦怠感などの症状が出たとの事です。そのような病を先生が見られたことはあるか、お聞きしたかったのです。」

松下は返事をしない。眉が少しぴくりと動いただけだ。

神近は言葉を待つ。

「……このあたりでは時々ある。発疹の中心に虫にかまれた痕はないか。」

「実際にお体を診ていないので……ですが、真蜱マダニを疑っております。」

「ほう。」

その一言で、松下の瞳に生気が宿った。実際は思った以上に若いかもしれない。

「お主、その病を診たことが?」

「いえ。西の国に行っていたときに、そのような病があると耳にしただけです。」

「西の国……」

松下は少し遠い目をした。よく見ると、仙人というほどの年ではなさそうだ。

松下は黙り、神近をじっと見つめ続けた。

「治療法を……ご存じですか?」

その時、戸が激しく叩かれた。

「先生、診てくれ!」

松下は、立ち上がって言った。

「すまん、出直してくれ。」

神近は深々と頭を下げ、家を後にした。

夕方、再度訪ねたが松下は不在だった。

谷路と茶谷はいずれも有力な情報は得られなかったようだ。

最初の集落にいるからだろう。

今日の事を話すと谷路が松下の所に押しかけかねない。

神近は黙っていることとした。


 翌朝。松下はまた不在。

近所の者に「川で釣りをしている」と教えられ、神近は冷え込む朝の川へ向かった。

流れに糸を垂らす白髪の背中。

松下は横目で神近を見た。

「昨日の続きか。」

「はい。ご存じの事があれば何でも教えていただきたいです。」

「治療は分からん。ただ、熱と節々の痛みに対しては薬を出す。大方は時が治す。」

神近は安堵した。

西国で聞いた病のなかには、気が触れたり、手足が痺れたままになるものもあったからだ。

「ただし、弱っている者は死ぬ。」

神近の胸に冷たい風が吹いた。

「貴殿、どこで医をやっている。」

「異国に長く滞在し、今は“医頼館”という医術の学び舎で修行をしております。」

医頼館――その名を聞いた瞬間、松下の眉間の皺が深く刻まれた。

松下は何かを知っている……神近の第六感が働いた。

「わしは戻る。」

松下は立ち上がり、釣竿を持って足早に立ち去っていく。

神近は追いかけて声を掛けるが、松下は振り向かない。

松下の背へ、神近は衝動的に呼びかける。

「二条信勝先生をご存じでは。」

松下は、ぴたりと止まった。振り向いた目に宿った光は、先ほどとはまるで違っていた。

「私の師です。」

「……ついてこい。」


 松下の家へ戻る途中、道すがら神近は矢継ぎ早に質問を受けた。

二条信勝は今どこにいるのか。何をしているのか。

そして、家の前には数人の患者が待っていた。

神近は座敷の端で松下の診察を見守る。

松下は言葉こそ荒いが、診察は丁寧で、判断は速い。

薬研やげんを神近に放り、薬を作れと促す手つきも、どこか信頼に満ちていた。

一段落した頃、松下は唐突に言った。

「……二条には、悪いことをした。」

静かな部屋に、その言葉だけが沈んで落ちた。

そして語られた――

重い鉛のような沈黙を割って、溢れる懺悔。

欲と嫉妬と策謀が渦巻いた、医頼館の暗くて深い闇。


 二条信勝、矢神宗敬、茶谷徳治。

かつて、医頼館の未来を担う若い三名がいた。

矢神家は中畑の古い医家。

金と権勢で他の医者を抱き込み、勢力を広げていた。

対抗する茶谷徳治。

御上医を務める茶谷家の次男だ。

松下は徳治の「手足」として、裏の仕事を任されていた。

そして二条信勝――。

大都の商家出身。山鹿元医にその才を認められ、医頼館へ迎えられた。

地位にも名誉にも興味を示さず、ただ医の道を歩いた二条。

静かで、まっすぐで、どこまでも純粋な男。

だからこそ、二人は苛立ち、嫉妬した。

山鹿家の長女の婿候補――一番手は二条だった。

しかし、二条が妻子を持ったことで候補から外された。

その妻子が、なつと佳乃。志乃の母と姉だ。

やがて流れた噂――

二条の妻子の件は、矢神の差し金だったのではないか。

真相は誰も知らない。

それでも、山鹿元医は自分の娘を、二条の「本妻」にすることを諦めなかった。

そこで、二条を排除するために、茶谷徳治は松下に命じた。

具体的に何をしたか――松下は語らない。

だが結果、二条の妻子は追われるように足楢へ。二条は足楢と和総を往復する生活。

そして茶谷徳治も理由は分からないが、医頼館を出て大都へ移ることになった。

それと同時に、松下は医頼館から放逐された。

残ったのは、徳治の弟・茶谷吉基と矢神宗敬。

二人は手を組み、権力を固めた。

――その渦に巻き込まれ、潰された男が、二条だった。


「……わしは、償うこともできず、ここへ流れ着いた。」

松下は静かに言った。

松下は今、山村の医として静かに生きている。

好きな時に釣りをし、山に入り、集落の人間に頼られながら過ぎていく日々。

医者として、悪くない人生だ――神近は思った。

だがその陰に、消えない悔恨と罪がある。

そしてその罪は、二条信勝の家族――志乃の胸にも影を落とし続けている。

神近は目を伏せた。

師が、どれほどの孤独に耐えてきたのか。

そして、その娘がどれほど寂しい思いをしてきたのか。

心の奥の古傷がずきりと痛む。

守れなかった声が、また胸に帰ってくる。

因はまだ終わっていない。

誰かが断たねば――二条にも、志乃にも、また牙をむく。

神近は拳を握った。

もう二度と、守れなかったあの日のようにはしない。

絶対に。


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