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さんさ 志乃の医薬譚〜恋せよ乙女、医の道をゆけ〜  作者: 朝久野智秋
和総編

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16.嘘

――あれは、生まれて初めて見る父の顔だった。

「否」と告げた瞬間、父の目に浮かんだのは、怒りでも驚きでもない。

静かな――興味。

まるで、今まで一度も抵抗を見せたことのない息子が、いきなり未知の姿を見せたかのように。

肩透かしを食うほどあっさりと、意見は通った。

世間から見ればまたとない縁談を、自ら断ったのだ。


生まれたときから――いや、生まれる前から、自分の道は定められていた。

父と兄の背を追い、年の離れた姉に導かれ、決められた枠の中で生きてきた。

姉がよく言った言葉を思い出す。

――自分とは違う境遇の人の話を、積極的に聞きなさい。

変わった教えだと子どもの頃は思った。

だが今思えば、唯一、自分を“人”としてつなぎとめてくれた言葉だった。


幼いころ、兄と喧嘩したときのことは忘れられない。

「お前のせいで、母上が死んだ。」

その言葉は刃のように胸に突き刺さった。

……だが、否定はできなかった。

母は病弱で、それでも「家のため」と命をかけて自分を産んだのだから。

姉によれば、その後、寡黙な父が兄を激しく叱ったという。

ただ一度きりの、出来事。

だが、胸に開いた大きな穴はふさがらず、心の奥底から笑えた試しはない。

風が通り抜けるような空虚さを、ずっと抱えて生きてきた。

「逸材」、「秀才」

周囲がどれほど賞賛しても、心は空っぽだった。

父譲りの聡明さ、母譲りの美貌――そんなもの、自分にはどうでもよかった。

だから、本来なら縁談を断る理由などなかったのだ。

次男でありながら山鹿家を継ぎ、御上医ごじょういに手が届くほどの好機。

――それでも、断った。

やるべきことを、見つけてしまったからだ。


あの日。

腐臭と血の色が混じり合い、医者たちの心までもが荒みきっていた場所に、

彼女はふいに現れた。

冬の荒野に、凍える風の中に、ぽつりと咲く山茶花さざんかのように。

このままでは、吹き荒ぶ風に散ってしまう。

気づけば、体が勝手に動いていた。

自分が――風よけになればいい。

医者として人を救うのは当然だ。

だが、彼女に抱いた感情はそれとは違った。

初めてだった。

誰かを“守りたい”と心から思ったのは。

その理由がわからず、戸惑った。

初対面の彼女に対して、そこまで感じたこと――。

ただ、胸の奥に開いた空洞に、彼女の存在がそっと温かさを流しこんでいった。

永く吹き荒れていた風はぴたりと止んだ。

――その温もりを、離したくなかった。



 とっ、とっ、とっ。

板間を滑る音が心地よく響く。

志乃は額に汗をにじませ、雑巾がけに励んでいる。

掃除は、努力がそのまま形になる。

料理は相手の笑顔で完成するが、掃除の満足は自分の中に静かに灯る。

志乃は磨きあげられた板間に息をつき、微笑んだ。

「次はこっちだよ。」

「はい!」

宇女うめに導かれ、広大な京極家の屋敷を進む。

宇女は志乃を振り返って、言った。

「最近、若い人がすぐ辞めちゃうから。あんたのおかげで助かってるよ。」

志乃は叱られながらも可愛がられていた。

仕事を終え、庭へ出ると――

青紫のりんどうが揺れていた。

最近は志乃が水をやり、周りの草を抜いて世話をしている。

手をかけていると、花はまるで自分の心の一部のように思えてくる。

(……笑止草えやみぐさ

根が生薬の竜胆りゅうたんになる。美しい花から想像できないほど苦い。笑いが止まるほどの。

別名といわれを教えてくれた神近の笑顔が脳裏に浮かび、胸がきゅうと痛む。

彼は、仁朗は、元気にしているだろうか。

ふと覚えた寂しさを胸に、志乃は宇女の呼ぶ声に振り返った。

 

 礼介は今日も多忙だ。

医頼館で講義をし、往診に出向き、教養として行っている茶の湯、剣術も怠らない。

完璧すぎるほどの青年――だが、その孤独に志乃は気づいていた。

「志乃、礼介様がお呼びだ。」

佐郷さごうが告げた。

彼は礼介とともに、よく大康堂に訪れていた。

彼に罪はないが、顔を見ると大康堂での辛い記憶がよみがえってくる。

今はやっと少し痛みが薄れかけてきたが。

佐郷が真剣な顔で一言添えた。

「志乃……。泰介先生にはあまり近づくな。」

「……はい。」

理由は聞けなかった。ただ、従うべきだと直感した。


 礼介の部屋へ向かう途中、風を裂く音が聞こえた。

木刀が空を切る鋭い音。

礼介は、何かを振り払うように力強く刀を振っている。

(……邪魔してはいけない。)

志乃が引き返そうとした瞬間。

「志乃か。」

振り返った礼介の声は、驚くほど柔らかかった。

「はい。お邪魔して……申し訳ありません。」

「いや、私が呼んだんだ。」

礼介が笑うと、汗に濡れた頬が西日を受けてほのかに光る。

「慣れたか。」

「はい。皆さん、よくしてくださいます。」

礼介が上衣を脱ぎ、汗を拭う。志乃は思わず視線を逸らした。

どんどん頬が熱くなっていく。きっと耳まで赤くなっているだろう。

「すまない。……でも、医者の見習いだろ。」

それくらいで恥ずかしがるな、と言いたげな礼介も少し照れている。

その“少年めいた表情”に、志乃の心がふわりと揺れた。


 礼介は基本的に食事を一人で摂っている。

多忙なため、父や兄と時間が合わない……だけではないようだ。

志乃には、彼の孤独が伝わってきていた。

そんな礼介の夕食の席に、志乃も呼ばれるようになって七日が過ぎた。

医術書の疑問を尋ねる時間――そして志乃にとっては、静かな安らぎの時間。

その夜、いつもと違うことがあった。

女中の万津まつが志乃の分の膳を運んできたのだ。

彼女は意味ありげにウインクを残して去っていく。

どういう意味なのか……分からなくもない自分がいる。

膳をはさんで向かい合う形に、志乃は緊張で背筋が固くなる。

「一緒に食べよう。……その方が美味しいだろう。」

微笑む礼介の声は、静かに心へ落ちてくる。

こんなに穏やかな時間は久しぶりだった。

しばし無言のまま箸を進め――

「志乃。」

礼介の声は、水面に落ちる石のように空気を震わせた。

志乃は箸を置き、真っ直ぐに礼介を見る。

「なぜ、私がお前を助けるのか……気にならないか。」

胸が少し痛んだ。

自分は礼介にとって、価値のある存在だとは思えない。

そして、ただ手を差し伸べてもらえるほど世の中は甘くない。

「……気にならないと言えば、嘘になります。」

「そうだろう。」

礼介は静かに続けた。

「一つは、前に言ったとおりだ。志乃の境遇を放っておけなかった。」

あの茶室での告白。

医家に生まれたわけでもない。そして女であるため医頼館いらいかんへの出入りも認められなかった。そんな私を助けたい……そう言っていた。でもその理由は何なのか。

「もう一つは……俺も神近殿の弟子になりたい。」

「……えっ!」

志乃は目を見開いた。

礼介が優しく笑う。

「そんなに驚かなくても。」

その笑顔に、志乃の心は和らいだ。

「礼介様、西医学にもご興味があるんですか。」

「……志乃と同じだ。あの人に学びたい。視野が広く、知識も果てしない。西医学というより、神近殿の元で学びたいと思った。つまり、志乃と同じだな。」

「……神近先生を、ほめてくださって……ありがとうございます。」

礼介は視線を落とした。その目の奥に、わずかに苦い色が滲む。

「本当に……神近殿が好きなんだな。……少し妬ける。」

その言葉に、志乃の鼓動が跳ね上がった。

礼介の声はどこか拗ねていて、甘い苦みを帯びている。

「以前、神近殿に師になっていただけないか頼んだことがある。しかし、志乃たちの事で精いっぱいだと断られた。」

「そうですか……」

「で、交渉をしたわけだ。」

「交渉……?」

「志乃を預かる代わりに……再度弟子入りをお願いした。」

確かにそれなら合点がいく。悪い言い方だが、自分が「交渉材料」になったようだ。

そして、そういう理由がある方がこちらとしても正直頼りやすい。

でも……

「そうだったんですね。」

志乃の顔がわずかに曇ったのを見て、礼介はそっと目を伏せた。

礼介の胸の奥で、別の言葉が静かに息を潜めていた。

(本当は……弟子入りの方が、理由としては“おまけ”なんだがな。)

志乃を助けたい。

ただ、その気持ちだけだった。

しかし、それを告げれば、彼女を苦しめる。

ならば――嘘のままでいい。

彼女が重荷を感じずに済むのなら。


「よし。食べ終えたら、今日はいつもより長めにやるぞ。」

礼介が言うと、志乃はぱっと顔を明るくして答えた。

「はい!お願いします!」

その声が重なった瞬間――

二人の距離は、確かにひとつ、音もなく近づいた。


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