光
志乃は走っている。
白い霧がかかる中、その先に――神近、仁朗、紀一、佳乃そして母がいる。
みんなが、いつもの優しい笑顔で待っている。
なのに。
どれほど足を速めても、その距離だけが永遠に埋まらない。
伸ばした指先は、いつまでも空をつかむばかりだった。
つまずき、倒れ込む。
顔を上げたとき、もう誰の姿もない。
世界は無音で、ただ自分だけが取り残されていた。
頬を伝う涙の冷たさで、目が開いた。
――夢。
昨日とまったく同じ悪夢だった。
布団をたたみ終えると、志乃はその場に膝を抱えて座り込んだ。
やることも、やりたいことも……何もない。
和総に来てからの日々は、いつも全力だった。
与えられた仕事以上に働いた。
忙しさの中、必死で食らいつきながらも、確かに自分が変わっていく実感があった。
誰かの役に立てている気がして、胸が少しずつ明るくなるような。
――あんなまぶしい毎日は、生まれて初めてだった。
なのに。
全部消えた。
居場所も、信頼も、目指す道も。
生きる意味さえ、指の隙間からすり抜けていった。
店主も、才司も、店のみんなも。
自分を信じてくれていたと思っていたのに。
なぜ、誰が、何のために自分を盗人に仕立てたのか……
どれだけ考えても、答えは出ない。
分かっているのに。
それでも「なぜ」が頭の中で渦を巻き続けた。
そのとき。
部屋の外から、聞き慣れた声がした。
「志乃、入っていいか。」
「……はい。」
入ってきたのは紀一だった。
昨晩から志乃は、仁朗の計らいで紀一の店の一室に身を寄せている。
志乃は姿勢を正そうとしたが、身体が重く動いてくれない。
「そのままでいい。」
紀一はそっと隣に腰を下ろす。
「迷惑かけて、ごめんね。」
「大変だったな。こちらの事は気にするな。部屋はまだいくらでもある。」
「……うん。」
沈黙が落ちる。
言葉を探そうとしても、胸の奥に沈んでしまって出てこない。
ふいに頭に温かいものが触れた。
紀一が、優しく髪をなでていた。
「……足楢に帰るか?」
問いの意味を理解するまで、しばらくかかった。
頭の中が霧に包まれたようで、考えがゆっくりしか進まない。
――そうだ、帰ればいい。
自分がここにいる限り、神近、仁朗、そして紀一にも迷惑をかける。
やっぱり無理だったのだ。
医学の学び舎にさえ入れなかった自分が、医者を目指すなんて。
神近が優しいだけで、自分に特別な力なんてない。
負けん気が強いわけでもない。
真面目なだけの、中途半端な小娘。
だから恨まれる。
だから標的にされる。
そうだ。
地元に帰って、うどん屋の娘に戻ればいい。
「私は……」
言おうとした途端、胸が痛みでいっぱいになった。
声が震え、涙だけが勝手にあふれ出した。
――この涙と一緒に、自分なんか消えてしまえばいいのに。
翌日から、志乃は紀一に頼み、店の掃除や炊事を手伝うようになった。
足楢に帰ることも真剣に考えた。
しかし、仁朗が訪ねてきて言った。
「神様と動いているから、もう少し待ってほしい。」
迷惑をかけている気がして、それも苦しい。
だが、神近と仁朗の頼みを無下にはできなかった。
そしてなにより……
胸の奥底で、ほんのわずかに「負けたくない」という火がまだ消えていなかった。
やることがない時間は、涙ばかり出て苦しい。
誰かの目がある場所では泣けない。
仕事に集中しているときだけ、少し楽になれる。
この数週間、誰よりも長く働いた。
最初は突然現れた志乃に、店の者たちの多くは警戒しているようであった。
しかし、志乃がひたむきに働く姿を見て声を掛けてくれるようになってきた。
神近はというと、一度も来ない。
仁朗は数日おきに訪れる。
仁朗によると、神近は今まで何度も訪れたが、紀一が会わせなかったらしい。
志乃をこの状況に追い込んだのは神近だ、と紀一は許していない。
医頼館。
神近は思索の渦の中にいた。
志乃の部屋を物色するのが目的。
追い出しは嫉妬や恨みが副次的に働いただけ――そう考えると腑に落ちる。
純粋でひたむきなあの娘が、こんな目に遭うくらいなら……
いっそ自分も大康堂を出てしまいたい。
だが藤木、そして背後のお人。
彼らの力添えがあるからこそ、今の立場がある。
勝手に出るわけにはいかない。
そして、診療所を訪れる病人たちを放り出すこともできない。
すでに、医頼館での内紛に巻き込まれている可能性も十分ある。
早めに大都へ行くべきか――
しかし、答えは出ない。
結局、弟子ひとり守れない、自分の不甲斐なさ。
そこが一番、胸を締めつけていた。
その日の往診の後。
神近は講義を聞きに来た。
京極礼介――医頼館の逸材と称される人物の講義をだ。
本来はそんな気分ではなかったが、今はここで学べるものを早く学びきりたい。
志乃を連れて大都へ行く、その日のために。
澄み渡る声が部屋いっぱいに響く。
話は論理的で、古典を現代に応用していく鋭さがある。
仁朗は、自分が「一番目」で、礼介を「二番目」と言った。どう考えても、それは失礼だ。
男でも目を奪われるほどの端麗さと、確かな才覚。
――そう感じた。
講義が終わって神近が立ち上がったとき、背後から声がかかった。
「少し、お時間よろしいですか。」
振り向いた先に、艶やかに微笑む顔。
――京極礼介が立っていた。
夕刻。
神近が紀一の店を訪れた。
大康堂を出て以降、初めての再会。
何度も足を運んでくれていたのに会えなかった。
志乃の胸いっぱいに申し訳なさが広がった。
神近が口を開いた。
「私としては……志乃さんに、道を諦めてほしくない。」
深緑の瞳。
吸い込まれそうな光に、志乃は思わず目をそらした。
「私……もう分からないんです。足楢に帰ればいいと思うのですが、それもなぜができない。でも、皆さんに迷惑をかけるだけの私なんて……本当は……消えてしまいたい……」
声が震え、うつむく。
「今は、分からなくていいんです。ただ、あなたを大切に思っている人がたくさんいる。それだけは知っていてほしい。そして……志乃さんが望むなら、また学べる環境を作ることができます。」
「……え?」
顔を上げた志乃の瞳に、かすかな光が戻った。
「志乃さんの居場所を提供する、と申し出てくれた人がいます。」
「でも……ご迷惑が……」
大康堂での出来事は、ただの嫉妬ではない。
大きな力が動いている――志乃にもようやくそれが分かってきていた。
「よかったら、話を聞いてみますか。」
神近の言葉に、志乃の胸がわずかに震えた。
隣室へ案内される。
そこに、麗しい顔立ちの青年が待っていた。
京極礼介。
――どうして、この人が?
罠かもしれない。
でも、神近が信頼しているのなら……理由があるはずだ。
何より志乃には、もう退く場所はなかった。
昨日、紀一の義母に言われた。
「今、うちの子は大事な時期なんです。申し訳ないのですが、志乃さん。そろそろここを出てはもらえませんか。」
店の従業員から、紀一の妻が身ごもっていることは聞いていた。
紀一が志乃の元を頻繁に訪れている事、妹のような存在だとしても度を越している。
それは志乃も分かっている。
そして、妻も義母も良くは思わないだろう。
自分の存在が、人に迷惑をかけている。
必死に働いた数週間で忘れかけていた現実を、その一言で思い知らされた。
志乃は礼介の顔を見つめる。
礼介は柔らかなまなざしを向けている。
やはり……
逃げるのは嫌だ。
だから、飛び込むしかない。
この差しこむ光のほうへ。




