壊
志乃は突き刺すような視線の中、立っていた。
誰の目も刃のように光り、皮膚を切り裂くほど痛い。
それでも――うつむかない。
今、目を伏せたら、自分が負けてしまう気がした。
(私は……何もしていない。何も……)
ふいに甘い香りが風にのった。
金木犀。懐かしい花の匂い。
足楢の隣人、小なつの家の庭に咲き誇っていたのを思い出す。
香りと共に志乃は一瞬、故郷へ引き戻される。胸の奥が温かく満たされる。
志乃は神近の往診に同行していた。妊娠中の婦人の診察だ。
長らく子を授からなかったその婦人に、神近は当帰と芍薬を含む薬を処方していた。血のめぐりをよくし、冷えを改善する薬だ。
そしてつい先日、懐妊を知り喜んだばかりだという。
だが――最近、だらだらと続く出血。
婦人の顔色は白く、腹部は冷え、押せば数か所が痛んだ。
志乃は慎重に指を滑らせ、冷たい皮膚の奥を探っていく。
(どうか……流れていませんように)
帰り道、神近が問う。
「志乃さんなら、どうしますか。」
「……出血を止め、血を補うために艾葉を含む薬が良いかと。」
神近の深緑の瞳がわずかに震え、静かにうなずく。
「よいと思います。」
その瞬間、志乃は胸の奥に小さな光を感じた。
神近の考えに、少しずつ近づいている――それが嬉しかった。
店の戸を二人でくぐる。
(え……?)
志乃は空気が張り詰めているのを感じた。ざわり……胸が騒ぐ。
そして、全員の視線が一斉に志乃へ向けられた。
いつもと同じはずの店が、今日は何か異様だ。
そして、奥から飛び出してきた才司が、神近に目もくれず志乃の腕を乱暴につかむ。
「来い。」
そのまま引きずるように連れていかれたのは、志乃が借りている六畳間。
ふすまは開け放たれ、整えてあったはずの部屋が――荒らされていた。
克之助が、螺鈿のほどこされた櫛と紅い縁どりの手鏡を握っていた。
「母上の櫛と、まゆの手鏡だ。……お前の部屋から出てきた。」
克之助の言葉に合わせて、店主の妻とまゆの視線が突き刺さる。
志乃は目を見開く。
(疑われている……どうして……)
才司が尋ねた。
「無くなっていた金子は?」
佐久弥が巾着を見せつけるように持ち上げた。
「恩知らずめ。」
吐き捨てる言葉は、毒そのものだった。
「私は……何も盗っておりません……!」
声が震える。
志乃の叫びは、誰の胸にも届かなかった。
「じゃあ、何で“お前の部屋”にあるんだ?」
克之介の声は怒りではなく、“勝ち誇り”に満ちていた。
「言い訳など許さん。父上と兄上が戻られたら報告する。すぐに出ていけ。」
志乃は、足元が崩れていくような錯覚を覚えた。
積み重ねてきた日々が、信頼が、努力が、全て――音もなく壊れていった。
才司が志乃の腕を引っ張り、床にたたきつける。
「見損なったぞ。」
その瞬間からの記憶は、ところどころ途切れていた。
ただ、泣くことだけはできなかった。
神近が気づけばそばにいた。
志乃は風呂敷に荷物を包み、神近の部屋へと連れられた。
夕刻。
泰斗が改めて店主の言葉を伝えに来た。
「……すぐに出ていくように、との事だ。」
そして、誰よりも信じてくれている奏斗の一言。
「お前……本当にやったのか? 違うよな?」
その瞬間、せきを切ったように涙と感情があふれ出た。
「盗ってなんか……いません……全然意味が……分からない……」
神近がそっと肩に手を置いた。
「分かっています。」
仁朗が怒りをあらわにする。
「志乃がそんなもん盗るわけないだろ! そんな櫛だの、鏡だの、志乃が興味あるわけないし。何にもわかってない。本なら……分からなくもないけど……」
神近は仁朗を制しながら言った。
「志乃さんは、何も盗っていません。誰かが仕組んだことです。」
その声音だけが、志乃を支えていた。
――けれどもう、居場所は失われていた。
「志乃さん……私もここを出ます。」
志乃は思わず顔を上げた。
「……駄目です。そんなこと……そんなことになったら……先生の学びを邪魔してしまう……それだけは……!」
涙があふれ、頬を伝った。
「医頼館には通えますよ。」
神近は優しく言う。
「でも……それだと、相手の思うつぼかもしれませんよ。」
仁朗が低く言った。
泰斗は険しい顔で言う。
「しばらく、おきよの家に身を寄せるか。潔白が証明されるまで。」
志乃は首を激しく振る。
「泰斗様は、あと少しで番頭になるんです……迷惑を……かけられません……」
その言葉を聞いた仁朗が突然立ち上がった。
「あそこしかない。」
そう言い残して部屋を飛び出した。
数日後。医頼館。
谷路が神近へ近づいてきた。
「聞いたぞ。貴殿の弟子が大康堂を追い出されたらしいな。」
言葉は憐れみだが、瞳は獲物を狙う狐のようだった。
「良かったら、富貴堂に紹介しようか。」
神近は柔らかい笑みを浮かべる。
「ご親切にどうも。一度考えさせていただきます。」
――違う薬問屋へのあっせん。やはり、これが“誰かの思惑”なのだ。
神近は確信した。




