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さんさ 志乃の医薬譚〜恋せよ乙女、医の道をゆけ〜  作者: 朝久野智秋
和総編

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35/48

 志乃は突き刺すような視線の中、立っていた。

誰の目も刃のように光り、皮膚を切り裂くほど痛い。

それでも――うつむかない。

今、目を伏せたら、自分が負けてしまう気がした。

(私は……何もしていない。何も……)

 

 ふいに甘い香りが風にのった。

金木犀きんもくせい。懐かしい花の匂い。

足楢あしならの隣人、小なつの家の庭に咲き誇っていたのを思い出す。

香りと共に志乃は一瞬、故郷へ引き戻される。胸の奥が温かく満たされる。

志乃は神近の往診に同行していた。妊娠中の婦人の診察だ。

長らく子を授からなかったその婦人に、神近は当帰とうき芍薬しゃくやくを含む薬を処方していた。血のめぐりをよくし、冷えを改善する薬だ。

そしてつい先日、懐妊を知り喜んだばかりだという。

だが――最近、だらだらと続く出血。

婦人の顔色は白く、腹部は冷え、押せば数か所が痛んだ。

志乃は慎重に指を滑らせ、冷たい皮膚の奥を探っていく。

(どうか……流れていませんように)

帰り道、神近が問う。

「志乃さんなら、どうしますか。」

「……出血を止め、血を補うために艾葉がいようを含む薬が良いかと。」

神近の深緑の瞳がわずかに震え、静かにうなずく。

「よいと思います。」

その瞬間、志乃は胸の奥に小さな光を感じた。

神近の考えに、少しずつ近づいている――それが嬉しかった。


 店の戸を二人でくぐる。

(え……?)

志乃は空気が張り詰めているのを感じた。ざわり……胸が騒ぐ。

そして、全員の視線が一斉に志乃へ向けられた。

いつもと同じはずの店が、今日は何か異様だ。

そして、奥から飛び出してきた才司が、神近に目もくれず志乃の腕を乱暴につかむ。

「来い。」

そのまま引きずるように連れていかれたのは、志乃が借りている六畳間。

ふすまは開け放たれ、整えてあったはずの部屋が――荒らされていた。

克之助(かつのすけ)が、螺鈿らでんのほどこされたくしあかい縁どりの手鏡を握っていた。

「母上の櫛と、まゆの手鏡だ。……お前の部屋から出てきた。」

克之助の言葉に合わせて、店主の妻とまゆの視線が突き刺さる。

志乃は目を見開く。

(疑われている……どうして……)

才司が尋ねた。

「無くなっていた金子は?」

佐久弥(さくや)が巾着を見せつけるように持ち上げた。

「恩知らずめ。」

吐き捨てる言葉は、毒そのものだった。

「私は……何も盗っておりません……!」

声が震える。

志乃の叫びは、誰の胸にも届かなかった。

「じゃあ、何で“お前の部屋”にあるんだ?」

克之介の声は怒りではなく、“勝ち誇り”に満ちていた。

「言い訳など許さん。父上と兄上が戻られたら報告する。すぐに出ていけ。」

志乃は、足元が崩れていくような錯覚を覚えた。

積み重ねてきた日々が、信頼が、努力が、全て――音もなく壊れていった。

才司が志乃の腕を引っ張り、床にたたきつける。

「見損なったぞ。」

その瞬間からの記憶は、ところどころ途切れていた。

ただ、泣くことだけはできなかった。

神近が気づけばそばにいた。

志乃は風呂敷に荷物を包み、神近の部屋へと連れられた。


 夕刻。

泰斗が改めて店主の言葉を伝えに来た。

「……すぐに出ていくように、との事だ。」

そして、誰よりも信じてくれている奏斗の一言。

「お前……本当にやったのか? 違うよな?」

その瞬間、せきを切ったように涙と感情があふれ出た。

「盗ってなんか……いません……全然意味が……分からない……」

神近がそっと肩に手を置いた。

「分かっています。」

仁朗が怒りをあらわにする。

「志乃がそんなもん盗るわけないだろ! そんな櫛だの、鏡だの、志乃が興味あるわけないし。何にもわかってない。本なら……分からなくもないけど……」

神近は仁朗を制しながら言った。

「志乃さんは、何も盗っていません。誰かが仕組んだことです。」

その声音だけが、志乃を支えていた。

――けれどもう、居場所は失われていた。

「志乃さん……私もここを出ます。」

志乃は思わず顔を上げた。

「……駄目です。そんなこと……そんなことになったら……先生の学びを邪魔してしまう……それだけは……!」

涙があふれ、頬を伝った。

「医頼館には通えますよ。」

神近は優しく言う。

「でも……それだと、相手の思うつぼかもしれませんよ。」

仁朗が低く言った。

泰斗は険しい顔で言う。

「しばらく、おきよの家に身を寄せるか。潔白が証明されるまで。」

志乃は首を激しく振る。

「泰斗様は、あと少しで番頭になるんです……迷惑を……かけられません……」

その言葉を聞いた仁朗が突然立ち上がった。

「あそこしかない。」

そう言い残して部屋を飛び出した。


 数日後。医頼館。

谷路たにみちが神近へ近づいてきた。

「聞いたぞ。貴殿の弟子が大康堂を追い出されたらしいな。」

言葉は憐れみだが、瞳は獲物を狙う狐のようだった。

「良かったら、富貴堂に紹介しようか。」

神近は柔らかい笑みを浮かべる。

「ご親切にどうも。一度考えさせていただきます。」

――違う薬問屋へのあっせん。やはり、これが“誰かの思惑”なのだ。

神近は確信した。


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