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さんさ 志乃の医薬譚〜恋せよ乙女、医の道をゆけ〜  作者: 朝久野智秋
和総編

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13.相

 この季節、空は途切れなく雨雲をまとう。

ひとつ雨が降るごとに暑さが遠のき、季節がわずかに進んでいく。


久しぶりに、志乃は神近の診察に付き添うことができた。

いつもは互いの休みがうまく合わず、今日はようやく巡り会えた機会だった。

診察に訪れたのは、気分が沈み、夜も眠れないという若い奥方だった。

その面差しはかげりを帯び、胸の奥に言葉にしきれぬ不安を抱えているのが伝わる。

神近が診察を終えると、志乃に目配せをする。

志乃はそっと腹部に触れた。

全体に力がなく、それとは対照的に上下に走る筋が硬く緊張している。

さらに、へその上で力強い拍動が指先に触れた。

「心が衰弱している時に触れやすい拍動です。」

神近の帰り際の言葉に、志乃は静かにうなずいた。

帰り道、神近が問う。

「志乃さんなら、この方にどんな薬を選びますか。」

「……酸棗仁さんそうにんを含む薬はいかがでしょうか。心を穏やかにし、眠りを助ける力があります。」

「確かに一つの手ですね。ただ、あの方は根の体質が弱い。そこを立て直さねば、心の安らぎは持続しないかもしれない。本医学は“その人に合うか”が、最も肝要ですからね。」

そう言って神近が選んだのは、牡蛎ぼれい竜骨りゅうこつで気の高ぶりを落ち着かせ、さらに桂皮(けいひ)で温めて気のめぐりを良くする薬。

そして薬だけでなく、奥方の胸に巣くう「不安」の源をも探り、姑との関係、家にいる窮屈さ、人との距離の難しさについて、そっと語りかけていった。

「花を世話するのもいいですよ。小さなことが、心を支えてくれます。」

ただ薬を与えるのではない。

志乃は神近の背中から、医者とは“心の寄る辺”にもなるものだと感じ取った。


 志乃の一日は、瞬く間に過ぎていく。

最近は泰斗と共に新しい薬を考案しており、時間がいくらあっても足りない。

夜に医書を広げても、気づけば眠りに落ちてしまうほどだった。

昼下がり。客に茶を出して戻ろうとしたとき、一人の客の視線がふと志乃を追った。

どこかで見たことがあるような――。

気に留める間もなく、奏斗が駆けつけてきた。

「志乃を御指名……だそうだ。」

「は……?」

何のことだか分からぬまま、湯飲みを片付けようとした矢先、

「いいから、来い。」

泰斗に手を引かれた。

その先に腰掛けていたのは――京極礼介。

志乃は思わず息をのむ。

数週間前、才司が志乃の不在を演じた、あの青年。

礼介は微笑んでいた。

見惚れるほど艶やかな、しかしどこか少年めいた笑みで。

「やっと会えた。」

志乃の耳に確かに届いた。小さく、それでいて確かな声で。


「彼女に、薬の話を聞きたい。」

礼介の一言で店主は丁寧に応じ、志乃は礼介に連れられて店内を歩いた。

「これは?」

酸棗仁さんそうにんです。」

「効能は?」

「心を安定させる作用、血を補う力があります。」

何……?試されている?志乃は内心動揺しながらも、色には出さず淡々と答えていく。

「どんな薬に用いるか。」

酸棗仁湯(さんそうにんとう)……心身が疲れ弱って眠れない方に良い薬です。」

問いが次々と飛ぶ。効能、薬方、用途――。

「知識はしっかりあるようだ。」

満足げに礼介がうなずく。

その瞳は、まるで新たな宝物を見つけた少年のように輝いていた。


「この娘、一刻(いっとき)ほど借りたい。」

泰斗が店主へ確認に向かう間、志乃はただその隣で立ち尽くすしかなかった。

ふいに耳元へ、礼介の息が触れた。

「聞きたいことがある。少し付き合ってくれ。」

志乃は驚きつつも、静かにうなずいた。


 店を出る前、不安な志乃が振り向くと、泰斗が“売られていく子牛”を見るような顔をしていた。

京極と付き人の男性、その後ろに志乃が付いて行く。

店を少し離れたところで、付き人の男性が苦笑して言った。

「もう少し、いい誘い方があったんじゃないですか。」

礼介は答える。

「そうだな……でも仕方ない。」

「じゃあ、私は先に話を通しに行きますよ。」

「頼む。その後は先に帰っていてくれ。」

付き人の男性は先を急ぎ、見えなくなった。


志乃は礼介と二人だ。

大通りでは人々の視線が礼介へ集まる。

特に女性たちの眼差しは熱い。

だが礼介はまるで気づかぬふりで、志乃の歩みに合わせ、時に肩が触れそうなほど近く寄る。

大通りを抜け、春田神宮へ続く参道を二人は進む。

玉砂利が雨に湿り、遠くの喧騒を断つように静かだった。


 礼介が立ち止まったのは、一軒の茶屋の前だった。

「少し待っていてくれ。」

礼介は店の中に消えて行った。

空を見上げると低い雲が立ち込めている。

やんでいた雨がまた降ってきそうだ。

戸が開き、顔をのぞかせたのは礼介ではなく店の者だった。

「こちらへ。」

店の中には数名の客。

そこを通り抜けて離れへ。

志乃が案内された離れの座敷には、礼介と初老で品のある男性がいた。

美しい(ひげ)、穏やかな眼差し。

「礼介殿が女性を連れてくるのは初めてですな。」

男性は笑う。

釜では湯が立っている。

かすかに湯が沸く音。それ以外に音はない。

志乃は座敷に座る礼介に、手招きされた。

志乃は隣にちょこんと座った。

男性は礼介と志乃に、懐紙に載せた菓子を差し出した。

月見兎をかたどった愛らしいものだ。

志乃の緊張した気持ちが少しほぐれていく。

礼介が黒文字で食べる仕草をぼんやり横目で見ていると、手で促された。

真似をして志乃も食べる。

こしあんの甘さが何とも上品だ。

気持ちが穏やかになっていく。

男性は流れるような所作で、茶を点てていく。

抹茶椀を目の前に置かれた礼介は、慣れた手つきで椀の正面を避け、抹茶の香りと味を楽しんでいる。

次が自分の番だろう。

志乃の心はまた硬くなってきた。

男性は柔らかな笑顔で、志乃の膝元に抹茶椀を差し出した。志乃は否が応でも肩に力を入れてしまう。

「作法は気にしなくて結構です。」

志乃は手を付いてお辞儀をする。

椀を少し回していただく。

深い苦みの後、口に広がる茶の甘み。

初めての抹茶は一口ごとに味わいを増した。

志乃が飲む間、男性と礼介は掛け軸の話、一輪挿しの桔梗(ききょう)について話をしていた。


 やがて初老の男性が席を立ち、座敷は二人きり。

礼介は静かに口を開いた。

「強引に連れて来て、すまない。こうでもしないと、そなたと話す機会が得られなかった。」

謝りながらも、その声音には後悔がない。

むしろ小さく満足の色がある。

志乃は黙って耳を向けた。

礼介の声は穏やかで、しかし真剣だった。

「俺は気になったことは、とことんやる。……気になった人も、同じだ。志乃――そう呼んでもよいか。」

小さく志乃はうなずく。

「困難の多い中、志乃がどうして医を志すのか知りたかった……俺は医家に生まれて、何の疑いもなく医者になった。何か信条があるわけでもない。なるのが当たり前だったからだ。」

志乃はゆっくり、しかし力強く答えた。

「私は元々、村の小さなうどん屋の娘で、医術とは無縁でした。でも、神近先生と出会って……医者という仕事が、人の命だけでなく「心」を救える仕事だと思いました。今も、医者になれるかは分かりません。でも挑みたいんです。自分の気が済むまで。」

礼介はゆっくりとうなずく。

「志乃の事は父から聞いていた。会うまでは、男勝りの女丈夫だろうと思っていた。だが、実際の志乃はずっと……柔らかい人だな。初めて会ったとき、思わず頭をなでたくなったぞ。」

志乃は戸惑いに首をかしげる。

「だがやはり芯は強い。神近殿の下で学び、西医学と本医学の両方を吸収できる環境にはあるが、思うようにいかないことも多いだろう。……志乃、そこで俺はお前を応援しようと思う。」

沈黙の中、心臓の鼓動ばかりが大きく響いた。

「応援……?」

「医頼館の講義、自宅にある多くの医書……俺にできることは多い。役立ててほしい。」

長いまつ毛に縁どられた、美しく真剣な瞳――。

志乃の心に、温かな灯がともった。

そして、志乃は抑えきれず顔をほころばせた。

「……ありがとうございます。」

礼介は嬉しそうに息をこぼす。

「やっと笑ったな。そちらの方が、ずっといい。」


 別れ際、礼介は律儀に志乃を店まで送り届けた。

道すがら浴びる周囲の視線の鋭さは相変わらずだったが、それでも志乃の心は驚くほど軽かった。

店の前、礼介は立ち去る前に志乃をじっと見た。

「また、会おう。」

志乃は答えにつまる。

礼介は、わずかに微笑んだ。

「……その顔だ。また、見たくなる。」

そう言い残して去っていく後ろ姿に、志乃はしばらく動けなかった。


 店の入り口で礼介に深々と頭を下げ、中へ入ると、泰斗たちが駆け寄る。

「大丈夫か。」

心底案じている表情だった。

志乃は小さく笑って、「はい」とだけ答え、茶器を片付け始めた。

今日は、何とも不思議な一日だった。

夢だったのではないか、とさえ思えてくる。

けれど――この出会いは、志乃の運命を大きく動かしていく。


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