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さんさ 志乃の医薬譚〜恋せよ乙女 医の道をゆけ〜  作者: 朝久野智秋
和総編

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32/35

 母から便りが届いた。

もっとも、手紙そのものではなく、仁朗への荷物にそっと忍ばせるようにして、桃色の浴衣とかんざしが添えられていたのだ。

淡い桃花を散らしたその浴衣は、若き日の母なら誰もが息を呑むほど似合っただろう。

だが、自分のようにぼんやりした顔立ちには、どうだろう。

母の好意だと分かっているのに、胸の奥に小さな不安が沈んだ。

――似合わない、と笑われる気がする。

けれど、母の温もりが布の一枚一枚に染み込んでいる気がして、そっとたたみ直してしまった。

「かのはあんざん。からだにきをつけて。」

添えられていた、たった二言の文が胸にぽっと灯りをともした。

「よかった……」

姉の出産が無事に終わったらしい。そろそろかと気にしていた。

年末、帰れるだろうか――ふと足楢(そくなら)の方角を見やる。

南の空には、わき立つ入道雲がまるで生き物のように伸び上がっていた。


 その日は店の手が足りていたため、志乃は久々に千香とともに洗濯をしていた。

千香は最近、手代の一人と急速に仲を深めている。友達以上、恋人未満。

けれど、どこか幸せを隠しきれない顔つきだ。

「“君が一番かわいい”って言ってくれるの。それに応えられるよう、ちゃんとしなくちゃ。」

顔を赤くしながら千香が笑う。

――千香は、もう十分可愛いよ。

志乃は心の内だけでつぶやき、静かにうなずいた。

「で、志乃は? 好きな人いないの?」

好き。

その言葉に、志乃は少しだけ目を伏せた。

紀一の顔が頭に浮かんだが……

もう終わったことだ。

今、素敵だと思う人ならたくさんいる。

神近、才司そして泰斗、

けれど、恋とか愛とか、そうした色を帯びた感情ではない。

「……いないかな。」

「えー! 男の人ばっかりに囲まれてるのに。恋しようよ!」

恋する人たちの姿は、楽しげでまぶしい。

千香も、仁朗も。

いや、仁朗は“落とす”こと自体を楽しんでいるだけらしいが。

今はきっと、恋に対する不応期(ふおうき)だ。

「まあ、そのうち、ね。」

「ふーん。」

千香は頬を膨らませて視線をそらした。


 店に戻った志乃は、客に出す茶の支度をしていた。

茶葉に湯を落とし、ふわりと立ち上る香気を待つ――わずかだが豊かな時間。志乃はこのひとときが好きだった。

奥では、店主と勢之助(せいのすけ)、才司と手代の四人が上客らしき男を相手にしているのが、ちらりと見える。

薬の話が終わったのか、客が静かに言った。

「志乃という娘に会いたいのだが。」

一瞬だが、皆が止まる。

最初に口を開いたのは才司だ。

落ち着いた声で応じる。

「残念ながら、今は店におりません。何かお伝えしましょうか。」

「いや……直接話したい。また出直そう。」

「ですが、京極様がわざわざ会うほどの者ではないかと……」

男は返答せず、ただ一言だけ残した。

「では、また。」

足音が遠のく。

志乃は奥で息をひそめていたが、気配が消えたのを感じてそっと顔を出した。

すぐに才司が近寄ってくる。

「なんで、あの方がお前を知っている?」

「……どなた、ですか?」

「京極礼介様だよ!」

京極――まゆの一件で往診に来た医者の家だ。

「まゆ様の時の……先生?」

「違う。この前は泰介先生。今のはその弟、礼介様だ」

言われても、どのような方か。

面識があるのかも志乃には分からない。

「お前のために居ないことにしてやった。あの方に会ったが最後、惚れてしまうからな。」

「……惚れる?」

「見りゃ分かる!」

分かるも何も、見る機会は過ぎてしまった。が、医頼館にいる先生のようだ。

とにかく、あとで神近か仁朗に聞いてみるしかない。


 仁朗は最近、数日に一度だけだが、先輩医師の往診に同行できるようになっていた。

初学者二人一組で、薬作りや記録の手伝いをしながら学んでいく。

自然と仲間との距離も縮まった。

往診から戻り、生薬を刻んでいると、同行していた坂上善久(さかがみよしひさ)が声を掛けてきた。

「この前、木本殿の家に来た娘、医者を目指しているらしいな。」

「はい。」

善久は家柄も年齢も上。仁朗も丁寧な言葉を選ぶ。

「どんな女なんだ?」

どんな、と言われても……

仁朗はほんの少し、言葉に迷った。


――以前は、志乃が好きではなかった。

足楢(そくなら)の美人親子、なつと佳乃(かの)

その影に添うような存在。

明朗でもなく、華やかでもない。

何より、紀一が兄妹のように志乃を大切にする姿が、幼い頃の仁朗には(しゃく)だった。

仁朗には一つ上の姉がいたそうだ。つまり志乃と同い年だ。

しかし、二歳の時に他界した。

それもあって、紀一が志乃を妹のようにかわいがっているのだと分かっていたが。

そして、大きくなってからは、佳乃が紀一を、紀一が志乃を好いていることは明らかだった。

ただ、当の志乃はその紀一の気持ちを分かっているような、分かっていないような。

傍から見ていてもどかしく、そして仁朗が思うに紀一には佳乃の方が明らかに似合っている。

だがここ一、二年、志乃と共に過ごす時間が増えるにつれ見えてきた。

まっすぐで、静かで、芯がある。

誰より誠実で、妙に気丈なところもあり、思いやりもある。


「……するめ、みたいな奴です。」

「は? 何か好きなものとかないの?」

「うちの師匠と、本くらいです。」

善久はつまらなそうに眉をしかめ、生薬を運んでいった。

そうだ、するめみたいな奴だ。

一見おいしそうには見えない。そして、初め口に入れてもそうおいしくない。ただ、噛むほどに味が出てうまみが口に広がる。

志乃はそういう奴だ。

今なら、紀一や神近が志乃に一目置く理由がわかる。

とにかく、今の自分にとっては大切な存在だ。


「仁朗。」

声に顔を上げると、茶谷朔太郎(ちゃやさくたろう)が立っていた。

山鹿吉基の甥で、こちらも生まれの良い学徒だ。

「はい。」

「……あの子、気をつけた方がいい。」

それだけ言い残し、去っていった。

医頼館のどこかで、何かが静かにうねりはじめている。


 この時期は胃腸の病が増える、と神近が言っていた。

暑さで食材が傷みやすく、胃腸も疲れやすいのだ。

志乃自身、子どもの頃は夏も冬も腹を壊し、よく寝込んだものだ。

その日、診療所に向かうと、十歳ほどの子どもとその両親が並んでいた。三人とも腹痛と吐き気を訴え、みぞおちを押さえると痛むという。

神近は一人一人の体質に合わせて薬を選んだ。

父には、半夏(はんげ)乾姜(かんきょう)黄芩(おうごん)などの入った半夏瀉心湯(はんげしゃしんとう)

母には、茯苓(ぶくりょう)蒼朮(そうじゅつ)陳皮ちんぴなどが入った茯苓飲(ぶくりょういん)

子には、桂皮(けいひ)、蒼朮、乾姜などの入った桂枝人参湯(けいしにんじんとう)

どれも胃腸機能を高める「人参」を含むが、症と体により処方はまるで違う。

その人に合った薬が体に寄り添えた時、効果を発揮する――志乃はその奥深さを改めて学んだ。


 夜。

志乃は神近と仁朗に、昼間の京極礼介の件を話した。

「礼介先生……医頼館で一番の秀才と言われてますよ。」と神近。

一方、仁朗は勢いよく声を上げた。

「志乃、会ってるだろ! 木本殿の家で!」

志乃が首を傾げると、仁朗は苛立ったように言った。

「薬を渡した、あの人だよ!」

「ああ……」

志乃はようやく思い出し、手を打った。

つまみ出されそうになった時、かばってくれた背の高い男性。

「でも……どんな顔してたっけ。」

途端に仁朗の眉が跳ね上がる。

「お前、本当に女か!? あんなかっこいい人の顔忘れるなよ! 俺の中じゃ、一位神様、二位兄貴を抜いて礼介様なんだぞ!」

神近が苦笑しながら言う。

「気を遣わなくていいですよ。礼介さんは、ほんと綺麗な顔立ちですから。和総でも有名ですし。」

仁朗は志乃を睨んだ。

「ていうか、なんで志乃が気に入られてるんだよ。」

――それは、こっちが聞きたい。

その後しばらく、志乃は仁朗の礼介談義と説教に耳を塞ぎたくなるほど付き合う羽目になった。


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