炎
朝から蝉の声が空を満たしている。
志乃は店の前を箒で掃いていた。湿った風が頬をなで、額にはすぐに汗がにじむ。
夏の匂いは嫌いではない。命のざわめきのようで、どこか胸を震わせる。
けれども、蚊だけは勘弁してほしい。どういうわけか、みなでいても刺されるのはいつも志乃ばかりだ。
「血が有り余ってそうだからじゃないの」と仁朗が笑った顔を思い出し、志乃は鼻をふくらませた。そして、ふと空を見上げる。
――神近が、三日も戻らない。
仁朗の話では、重症の病人に付きっきりだそうだ。医頼館からの要請で別の医院の手伝いに出ているという。
この国の医術には、大きく三つの流れがある。
一つはこの国に古くから伝わる「本医学」だ。
次に、隣国から伝わったものと、この国の医術を融合させたものが「東医学」。
三つめは、西の遠方の国々の学問である「西医学」。
神近は西医学を実際に学んだ、稀な医者だった。
この国にも西医学の医者はいる。
しかし、ほとんどが異国から来た医者の弟子、または弟子の弟子である。
実際に異国で学んだ者は、神近以外に全国に数人しかいないだろう。
そして今、その神近の手は血に染まっている。
三日前のこと。
医頼館で神近が薬を作っていると、山鹿吉基が慌ただしく駆け込んできた。
「神近殿、急ぎ来ていただきたいところがある。」
連れて行かれた先は、茶谷本家のそばにある診療所。吉基の義兄、半沢玄丈の営む場所だった。
診療所に足を踏み入れた瞬間、鼻をつく腐臭。
神近は息を詰めた。――これは、いけない。
奥の部屋に進むほど、臭いは濃く、重くなる。
寝台には、身分の高そうな男が横たわっていた。
右の指先から肘近くまで赤黒く腫れあがり、ところどころ紫に変色し、水疱も見られる。
皮膚の下で炎が暴れているのが、目に見えるようだった。
「ご足労、かたじけない」
傍らに控える半沢が言った。表情が曇っている。
数日前、釣り針で指先を傷つけたらしい。
翌日には手に痛みが広がり、次の朝には腫れが腕まで及んでいた。
神近は傷口から腕を入念に観察し、そして男の腕のまだ腫れていない部分を強く握った。
男が顔を歪める。そこに痛みが走るということは――毒が、すでに肉の奥を這い始めている。
別室に移り、三人は話し合った。
「木本殿はお上の重臣だ。どうにか助けられぬか。」と吉基。
「肝を患っておられる。近頃は食も細かった。」と半沢。
神近は眉をひそめた。
「……厳しい状況です。命を取るか、腕を取るかの選択を迫られています。」
「つまり、腕を切らねば命が危ういと?」
「はい。ただ、切ったとしても助かる保証はありません。」
木本の家人にその説明をしたとき、誰も言葉を発せなかった。
腕を失えば家の誇りを失う。
家の名を守るか、命を守るか。沈黙が部屋を満たした。
木本本人は、痛みに顔をゆがめながらもきっぱりと言った。
「腕がなくなるくらいなら、死んだ方がましだ。」
妻がその傍らで、音もなく涙をこぼした。
半沢と吉基は神近に視線を向けた。
「腕を残すにしても、悪い部分は取り除かねばなりません。最善を尽くしましょう。」
神近の声は静かだが、決意が宿っていた。
仁朗も手伝いに呼ばれた。
吉基の権限で医頼館からも医師が派遣されたが、肉を切り取る光景に多くが青ざめ、何もできなかったという。
「結局、俺の方がよっぽど役に立ったぞ。」
仁朗は胸を張っていたが、その顔には恐怖と尊敬が入り混じっていた。
夕刻。
ようやく神近が戻ってきた。
わずか数日で、頬が少しこけて、唇の血の気も失われていた。ほとんど休めなかったのだろう。
志乃は胸が詰まる。何もできぬ自分が悔しかった。
神近は淡々と報告した。
熱を冷ますために、柴胡、黄芩、桂皮などを含んだ「柴胡桂枝湯」を今は用いている。
さらに吉基の助言で、新しい処方を試すという。
一つは芍薬、大棗、桂皮、生姜などに皮膚を強くする黄耆を加えた薬。
もう一つは芍薬、大棗、桂皮、生姜などに血を補い、巡りをよくする当帰を加えた薬だ。
それらを組み合わせて、体を立て直し、傷の治りを促す――そう話しながらも、神近の手はわずかに震えていた。
志乃はその手を見つめ、思わず言った。
「先生、今はお休みください。よろしければ私が薬を届けます。」
神近は少し驚いたように志乃を見つめたが、やがて筆を取り、家までの地図を書いた。
「……頼みます。」
「はい。薬が出来次第、お届けします。」
木本の屋敷には、男たちの緊張した声が満ちていた。
志乃が入ると、いぶかしげな目が向けられた。空気が張り詰めている。
「ここは女の来るところではない」と誰かが言った。
一人の男が志乃の腕を掴もうと手を伸ばしてきた。
体がこわばる。声が出ない。
薬を届けに来た、と一言いえばいいのに……
そのとき、男が間に割って入った。
「君、神近先生のところの人?」
志乃は息を整えた。こちらの男に敵意はないようだ。
「はい。薬をお届けに参りました。」
男は穏やかに頷いた。背の高い、涼やかな瞳の男性だ。
そこへ騒ぎを聞きつけた仁朗が駆けつけてくる。
志乃は薬を手渡そうとして、男と仁朗に渡すか迷った。
先ほどの男が笑みを浮かべて、手を差し出した。
薬を受け取り、力強く言った。
「ありがとう。必ず届ける。」
志乃は深々と頭を下げた。
その時――「木本様!」
誰かの叫び。空気が変わる。
志乃は振り返ったが、もう何も言えなかった。
自分の役目は終わった。そう思い、屋敷をあとにした。
西の空が茜に染まり、街がゆっくりと夜に溶けていく。
志乃は足早に帰路を急いだ。
「志乃!」
後ろから仁朗の声。
「木本の意識がなくなった! 先生に知らせないと!」
「私が行く! 仁ちゃんは戻って!」
志乃は風を切って走った。
――だが、神近が駆けつけたときには、すでに木本は息絶えていた。
人の命は、誰もがいつか尽きる。
けれども、その命の炎を少しでも長く、明るく燃やしたい――その願いを後押しできるのが医術だ。ただ、いつでも応えることができるわけではない。
救える命と、救えぬ命。
その境に立ち続ける医者たち。
もし自分の前で命の炎が消えるとしたら、私は何を思うのだろう――
志乃は筆を取ろうとした。
その時、「ドン」と外から音がした。
花火の夜だ。神近と仁朗と、見に行く約束をしていたのに。
二人とも、疲れ果てている。
志乃は窓の外に広がる闇を見つめ、遠くの光の音に耳を澄ませた。
――空の花火が散り、地上の炎が消えた夜。
志乃は思いを馳せる。
父は今、人のために自分の命を燃やしているのだろうか。




