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さんさ 志乃の医薬譚  作者: 朝久野智秋
和総編

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31/34

 朝から蝉の声が空を満たしている。

志乃は店の前を箒で掃いていた。湿った風が頬をなで、額にはすぐに汗がにじむ。

夏の匂いは嫌いではない。命のざわめきのようで、どこか胸を震わせる。

けれども、蚊だけは勘弁してほしい。どういうわけか、みなでいても刺されるのはいつも志乃ばかりだ。

「血が有り余ってそうだからじゃないの」と仁朗が笑った顔を思い出し、志乃は鼻をふくらませた。そして、ふと空を見上げる。

――神近が、三日も戻らない。

仁朗の話では、重症の病人に付きっきりだそうだ。医頼館からの要請で別の医院の手伝いに出ているという。


 この国の医術には、大きく三つの流れがある。

一つはこの国に古くから伝わる「本医学」だ。

次に、隣国から伝わったものと、この国の医術を融合させたものが「東医学」。

三つめは、西の遠方の国々の学問である「西医学」。

神近は西医学を実際に学んだ、稀な医者だった。

この国にも西医学の医者はいる。

しかし、ほとんどが異国から来た医者の弟子、または弟子の弟子である。

実際に異国で学んだ者は、神近以外に全国に数人しかいないだろう。

そして今、その神近の手は血に染まっている。


 三日前のこと。

医頼館で神近が薬を作っていると、山鹿吉基が慌ただしく駆け込んできた。

「神近殿、急ぎ来ていただきたいところがある。」

連れて行かれた先は、茶谷本家のそばにある診療所。吉基の義兄、半沢玄丈の営む場所だった。

診療所に足を踏み入れた瞬間、鼻をつく腐臭。

神近は息を詰めた。――これは、いけない。

奥の部屋に進むほど、臭いは濃く、重くなる。

寝台には、身分の高そうな男が横たわっていた。

右の指先から肘近くまで赤黒く腫れあがり、ところどころ紫に変色し、水疱も見られる。

皮膚の下で炎が暴れているのが、目に見えるようだった。

「ご足労、かたじけない」

傍らに控える半沢が言った。表情が曇っている。

数日前、釣り針で指先を傷つけたらしい。

翌日には手に痛みが広がり、次の朝には腫れが腕まで及んでいた。

神近は傷口から腕を入念に観察し、そして男の腕のまだ腫れていない部分を強く握った。

男が顔を歪める。そこに痛みが走るということは――毒が、すでに肉の奥を這い始めている。


 別室に移り、三人は話し合った。

「木本殿はお上の重臣だ。どうにか助けられぬか。」と吉基。

「肝を患っておられる。近頃は食も細かった。」と半沢。

神近は眉をひそめた。

「……厳しい状況です。命を取るか、腕を取るかの選択を迫られています。」

「つまり、腕を切らねば命が危ういと?」

「はい。ただ、切ったとしても助かる保証はありません。」

木本の家人にその説明をしたとき、誰も言葉を発せなかった。

腕を失えば家の誇りを失う。

家の名を守るか、命を守るか。沈黙が部屋を満たした。

木本本人は、痛みに顔をゆがめながらもきっぱりと言った。

「腕がなくなるくらいなら、死んだ方がましだ。」

妻がその傍らで、音もなく涙をこぼした。

半沢と吉基は神近に視線を向けた。

「腕を残すにしても、悪い部分は取り除かねばなりません。最善を尽くしましょう。」

神近の声は静かだが、決意が宿っていた。


仁朗も手伝いに呼ばれた。

吉基の権限で医頼館からも医師が派遣されたが、肉を切り取る光景に多くが青ざめ、何もできなかったという。

「結局、俺の方がよっぽど役に立ったぞ。」

仁朗は胸を張っていたが、その顔には恐怖と尊敬が入り混じっていた。


 夕刻。

ようやく神近が戻ってきた。

わずか数日で、頬が少しこけて、唇の血の気も失われていた。ほとんど休めなかったのだろう。

志乃は胸が詰まる。何もできぬ自分が悔しかった。

神近は淡々と報告した。

熱を冷ますために、柴胡、黄芩、桂皮などを含んだ「柴胡桂枝湯」を今は用いている。

さらに吉基の助言で、新しい処方を試すという。

一つは芍薬、大棗、桂皮、生姜などに皮膚を強くする黄耆おうぎを加えた薬。

もう一つは芍薬、大棗、桂皮、生姜などに血を補い、巡りをよくする当帰とうきを加えた薬だ。

それらを組み合わせて、体を立て直し、傷の治りを促す――そう話しながらも、神近の手はわずかに震えていた。

志乃はその手を見つめ、思わず言った。

「先生、今はお休みください。よろしければ私が薬を届けます。」

神近は少し驚いたように志乃を見つめたが、やがて筆を取り、家までの地図を書いた。

「……頼みます。」

「はい。薬が出来次第、お届けします。」


 木本の屋敷には、男たちの緊張した声が満ちていた。

志乃が入ると、いぶかしげな目が向けられた。空気が張り詰めている。

「ここは女の来るところではない」と誰かが言った。

一人の男が志乃の腕を掴もうと手を伸ばしてきた。

体がこわばる。声が出ない。

薬を届けに来た、と一言いえばいいのに……

そのとき、男が間に割って入った。

「君、神近先生のところの人?」

志乃は息を整えた。こちらの男に敵意はないようだ。

「はい。薬をお届けに参りました。」

男は穏やかに頷いた。背の高い、涼やかな瞳の男性だ。

そこへ騒ぎを聞きつけた仁朗が駆けつけてくる。

志乃は薬を手渡そうとして、男と仁朗に渡すか迷った。

先ほどの男が笑みを浮かべて、手を差し出した。

薬を受け取り、力強く言った。

「ありがとう。必ず届ける。」

志乃は深々と頭を下げた。

その時――「木本様!」

誰かの叫び。空気が変わる。

志乃は振り返ったが、もう何も言えなかった。

自分の役目は終わった。そう思い、屋敷をあとにした。


 西の空が茜に染まり、街がゆっくりと夜に溶けていく。

志乃は足早に帰路を急いだ。

「志乃!」

後ろから仁朗の声。

「木本の意識がなくなった! 先生に知らせないと!」

「私が行く! 仁ちゃんは戻って!」

志乃は風を切って走った。

――だが、神近が駆けつけたときには、すでに木本は息絶えていた。


 人の命は、誰もがいつか尽きる。

けれども、その命の炎を少しでも長く、明るく燃やしたい――その願いを後押しできるのが医術だ。ただ、いつでも応えることができるわけではない。

救える命と、救えぬ命。

その境に立ち続ける医者たち。

もし自分の前で命の炎が消えるとしたら、私は何を思うのだろう――

志乃は筆を取ろうとした。

その時、「ドン」と外から音がした。

花火の夜だ。神近と仁朗と、見に行く約束をしていたのに。

二人とも、疲れ果てている。

志乃は窓の外に広がる闇を見つめ、遠くの光の音に耳を澄ませた。

――空の花火が散り、地上の炎が消えた夜。

志乃は思いを馳せる。

父は今、人のために自分の命を燃やしているのだろうか。


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