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昨夜、仁朗の兄の紀一が3か月振りに家に帰ってきたそうだ。紀一は和総かずさの商家で働いている。材木屋の後継ぎとして、商売の勉強に行っているのだ。志乃たちが住む足楢そくならまでは健脚でも10時間はかかる。明るい仁朗の母だが、自慢の息子が帰ってきたからか、いつも以上に楽し気に厨房に立っている。

 朝に志乃が材木屋に行くと、薬研を軽快に動かす仁朗がいた。

「神様は長に呼ばれて出かけているよ。」

ここ最近の仁朗は薬研でひたすらニガキを粉末にしている。

「平助さん達、もう少しで薬を飲み終われそうだな。」

初めに神近が診てから3週間が経つ。神近について何回か仁朗と志乃も平助の家に行っているが、最近は皮膚の掻き傷も減り、夜も眠れるようになっている。

もともと同じ薬を神近は持っていたが、近くの町の皮癬の人に薬を使ったらしい。材木屋の面々とニガキを探して、薬を一から作っている。

「平助さん、よかったね。」

「志乃、俺は神様に弟子入りさせてもらおうと思っている。」

薬研の手を止めて言った。

「仁ちゃん、医者になるの?」

手先が器用であること、興味があることに邁進できる仁朗には確かにあっていると志乃は思った。

「わからん。でも、神様を見ていたら手伝いたくなる。とにかく、神様の近くにいたら自分のやりたいことが見つかりそうな気がする。」

「いいね。」

自分と同じことを思っているが、それを口に出せる仁朗と口に出せない私がいる。仁朗の性格、そして性別をうらやましくも思った。


ガラガラ、と戸が開く音に二人が目を向けると、神近ではなく紀一が入ってきた。

「ただいま。」

「お帰り。」

志乃が答える。

「母さんから聞いたぞ。二人して神様に弟子入りか。」

「まだだよ。」

仁朗がまた薬研を動かし始めた。

「薬作っているんだからすでに弟子だろ。友達と遊んでばかりのお前が、こんな地味な作業を続けられるなんてな。そうそう、父さんが裏庭で呼んでいたぞ。本業もちゃんとやれよ。」にこにこしながらいう紀一を、むくれた顔で見つめて「へいへい」と答え、仁朗は去っていった。何だかんだで仁朗は紀一には逆らえないのだ。

「志乃、変わりなかったか。」

「うん、きいっちゃんも?」

「そうだな。」

紀一は人見知りの志乃が緊張しないで話せる数少ない一人だ。

「字の勉強は続いているか。本、また持ってきたぞ。」

いつも自分の本を貸すといいながら、さりげなく志乃の興味が持てそうな本を用意してくれているのだ。貴重なお給金で用意してくれていると思うと感謝してもしきれない。志乃が勉強の時に見ている紙は、紀一が一枚一枚書き出してくれたものだ。昔から学ぶ機会をくれる唯一の人である。

「いつもありがとう。何もお返しできなくてごめんね。また、うどん食べに来て。」

「おう、おじさんおばさんに会いに行くよ。また後でな。」

優しく志乃の頭をなでて、紀一は家に戻っていった。入れ替わりに神近が戻ってきた。薬を取りに来てまた戻るという。

「神近先生、付いて行ってもいいですか。」

「はい。少し急ぎますよ。」


長の家に駆け足で向かった。朝方から背中の痛みがあり、唸り声を上げて布団の上に這いつくばっているという。奥さんが、不安な表情で長の額の汗をふいている。志乃は耐えきれない痛みと闘う長の姿を見て、身がすくんだ。神近は慣れているのであろう、落ち着いた表情で長の背中をさする。しばらくすると少し痛みが和らいだのであろうか、唸り声がやんだ。それを見計らって、神近が左腰を拳で軽く叩くと「うっ」と長が声を上げた。右腰は叩いても痛くないらしい。そこに、紀一と友人である長の孫が現れた。

「尿路の石でしょう。奥様、水をたくさん用意してください。」妻と孫が水を取りに行った。

また、痛みが強くなり唸り声を上げる長のもとへ、志乃は気持ちを奮い立たせて駆け寄り、右の背中を優しくさすった。神近は薬の準備をし、用意できた水とともに長の口に流し込んだ。

「水をたくさん飲むのも治療です。」

妻が支えて、長は少しずつ水分を口にした。志乃はすかさず湯飲みに水を灌ぐ。

しばらくすると痛みが和らいできた。長い時間のようにも思われたが、実際にはそこまで時間は経っていなかったようだ。長は妻と孫とともに神近に向かい頭を下げる。

「昨日はお酒を召し上がりましたか。」

「集まりがあってたくさん飲んだようです。帰るなりすぐ寝て、起きたら今の状況です。」妻が答えた。

「お酒を飲むと尿がたくさん出ます。今は梅雨ではありますが、気温も高く汗もかきます。体の水が少ないと尿路の石ができやすいのです。」

「以前も石をやったことがあるが、ここまでの激烈な痛みではなかったから同じとは思われなかった。先生のおかげでだいぶ楽になったよ。本当にありがとう。」

神近が志乃の耳元で

「お店大丈夫ですか。こちらは大丈夫です。」

確かにもうすぐお店の始まる時間だ。

「失礼します。」

お辞儀をして、志乃は駆けていった。


 紀一は約束通り、店に来た。長の孫も一緒だ。

「志乃ちゃん、ありがとうね。じいさん、志乃ちゃんがついていてくれて心強かったと、すごく感謝していたよ。」

「私は何も。お背中さすっていただけですから。」

「いやいや。あの後、先生が水分をしっかりとることや、食事の内容など説明していってくれたよ。ずっと足楢にいてくれたらいいけどな。」

会釈をして、志乃は仕事に戻った。自分はあまり何もできなかったという気持ちと、神近の事を認めてもらったようでうれしい気持ちがない交ぜになった複雑な気持ちだ。


 夕方、志乃は母のなつから仁朗の家へ行ってくるよう言われた。到着すると、食卓にみな勢ぞろいだった。

「お礼にと、先生がすごく立派な鯛をもらってきたのよ。なつさんには伝えてあるから志乃ちゃんも食べてって。紀一も喜ぶし。」

おばさんからのお誘いで、夕食をごちそうになることになった。相変わらず神近は浩太と幹太に囲まれている。仁朗は今日の長の一件に携われなくて悔しがっている。

「先生、今日の薬は何だったのですか。」

紀一が志乃の聞きたいことを聞いてくれた。

「芍薬が入っている薬です。筋肉を和らげて、痛みを取る力があります。尿路の石の時、皆に効くわけではありませんが今回は早く効いてくれましたね。」

「芍薬。名前に薬の文字が確かに入っていますね。」

聡い紀一には漢字がわかったようだ。

「「顔佳草かおよぐさ」という別名もあります。きれいな花に、薬になる根。素敵な植物です。」


紀一と神近を中心として会話ははずみ、楽しい食事の席となった。周りはもう暗く、紀一が志乃を家まで送ってくれた。紀一は姉と同い年。実の姉である佳乃とともに紀一は兄のような存在である。志乃が言うのも何だが、足楢で有名な美男美女であり、二人の結婚が取りざたされたこともある。しかし、姉は嫁ぎ、紀一は町へ出た。詳しい事情が有るのか無いのか志乃にはわからない。ただ、二人とも大事な存在であることには変わらない。志乃は幼馴染の仁朗でさえ、話すのに少し緊張するのだから、紀一はやはり特別な存在である。紀一の仕事の話、和総の町の話、志乃にとっては未知の世界の話である。自然と二人の歩みはゆっくりとなる。もういよいよ家に着くという所で、突然紀一が志乃の両肩を掴んだ。

「あの先生は確かにすごいな。」

驚いた志乃はただ頷く。

「ただ、素性などわからないことだらけだ。信用しすぎたら駄目だぞ。」

また、うつむいて頷いた。志乃には正直腑に落ちなかった。紀一が人のことを悪く言うことを聞いたことがなかったからだ。

「次はお盆に帰ってくる。祭に一緒に行こうな。」

肩に置いていた手を移動させ両頬を包み、紀一は言った。ここでやっと志乃は紀一の目を見て頷いた。翌日、紀一は和総へ戻っていった。


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