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さんさ 志乃の医薬譚  作者: 朝久野智秋
足楢編

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3/32

 昨夜、仁朗の兄・紀一が三か月ぶりに帰ってきたという。

紀一は和総かずさの材木商で奉公しており、いずれ家業を継ぐために商いの修行中だ。

足楢そくならまでは健脚でも一日がかり。

母親が台所で鼻歌をうたっているのも、無理はない。自慢の息子が戻ったのだ。


 翌朝、志乃が材木屋に行くと、仁朗が薬研を軽快に動かしていた。

「神様は長に呼ばれて出かけているよ。」

仁朗は最近、ずっと苦木(にがき)を粉にしている。

「平助さん、だいぶ良くなったね。」

「うん。もう少しで薬も終わる。」

三週間前、初めて神近が診て以来、志乃も何度か同行した。掻き傷は減り、夜も眠れるようになった。

「志乃、俺さ……神様に弟子入りしようと思う。」

薬研の手を止め、真っ直ぐに言った。

「医者に、なるの?」

「まだわからん。でも、あの人のそばにいると、自分のやりたいことが見えてくる気がするんだ。」

「いいね……。」

同じ想いを抱きながら、それを声に出せる仁朗と出せない自分。

志乃は、彼のまっすぐさがうらやましかった。


 戸口が開く音。神近かと思えば、紀一だった。

「ただいま。」

「お帰りなさい。」

志乃が微笑むと、紀一も穏やかに笑った。

「神様に弟子入りだって? お前も立派になったな。」

「まだ決まったわけじゃねえよ。」

「でも、友達と遊ぶばかりだったお前が、こんな地味な仕事を続けるなんてな。父さんが呼んでるぞ。」

紀一が冗談めかして言うと、仁朗はむくれて「へいへい」と答え、裏庭へ向かった。

兄弟のやりとりに、志乃は思わず笑みをこぼす。

「志乃、変わりなかったか。」

「うん。きいっちゃんも?」

「あぁ……はい、これ。」

差し出されたのは、何冊かの本だった。

「字の勉強、続けてるんだろう。今回は少し難しいかもしれないけど、志乃なら読める。」

志乃は胸が熱くなった。紀一は、いつも自分のために本を選んでくれる。

きっと多くない給金の中から、少しずつ買ってくれているのだ。

「ありがとう。うどん、食べに来てね。」

「おう。また行く。」

そう言って、志乃の髪を軽く撫でた。

紀一と入れ替わりに神近が戻ってきた。長の家へすぐにまた行くと言う。

「神近先生、付いて行ってもいいですか?」

「いいですよ。ただ、急ぎます。」

二人は駆け足で長の家へ向かった。


 足楢の村長である治成はるなりは布団の上でうつ伏せになり呻いていた。

額に汗をにじませて、もがく治成の姿に、志乃の足は一瞬すくんだ。

神近は静かに治成の背をさすり、呼吸を整えさせる。

痛みは波があるようだ。


最初に神近が来た時、拳で治成の左腰を軽く叩いた。

「うっ……!」

治成が呻いた。右は痛まない。左だけが鋭く響くらしい。

そこで、神近は確信し、薬を持ってまた訪れたのだ。


呼ばれてきたのだろうか、紀一と治成の孫が駆け込んできた。

「尿路の石でしょう。」

神近の声は落ち着いていた。

「奥様、水をたくさんお願いします。」

再び痛みにうなる治成の背に、志乃は思わず手を伸ばした。

背中をそっとさすりながら、心の中で祈る。

(どうか、この痛みが早く去りますように……。)

神近は持ってきた薬湯を、治成の口に少しずつ流し込んだ。

「水をたくさん飲むのも治療です。」

志乃はすかさず湯飲みに水をつぎ足す。

やがて、呻き声が遠のいた。治成の顔が少しずつ穏やかになる。

妻と孫が涙ぐみながら頭を下げた。

「お酒をたくさん飲まれましたか。」

神近の問いに妻が答える。

「昨夜の集まりで……。」

「お酒は尿を多くします。汗もかく季節、体の水が減ると石ができやすいのです。」

治成は力なく頷いた。

その時、神近が小声で志乃に言った。

「お店、開く時間では?」

「あ……はい。」

「こちらは大丈夫です。」

志乃は一礼し、駆け戻った。

 

 昼過ぎ、紀一と治成の孫が店に来た。

「ありがとう。じいさん、志乃ちゃんがいてくれて心強かったって。」

「私は何も……背中をさすっていただけです。」

「それでも十分さ。あの先生にも感謝していたよ。ずっと足楢にいてくれたらいいのにな。」

志乃は胸がいっぱいになった。

自分は何もできなかった気がする。でも、神近を褒められるのは嬉しかった。

 

 夕方、母に言われて仁朗の家へ行くと、食卓には皆が揃っていた。

「神近先生が立派な鯛をもらってきたの。志乃ちゃんも食べてって。」

神近は相変わらず、子どもたちに囲まれている。

「先生、今日の薬は何だったのですか。」

紀一が訊ねた。

「芍薬が入っています。筋肉をゆるめて、痛みを取る力があります。」

「芍薬……名前に“薬”という文字が入っているのですね。」

「“顔佳草かおよぐさ”という別名もあります。花も美しく、根は人を救う。そんな素晴らしい植物です。」

紀一の目がわずかに和らいだ。神近と話すうちに、場の空気が穏やかに満ちていく。


 外はすでに暮れ、紀一が志乃を送ってくれた。

道すがら、和総の話、商家の様子――志乃にとっては遠い世界の話に胸が弾む。

だが、家の灯が見えたころ、紀一がふと立ち止まった。そして、志乃に向き合って両肩に手を添えた。

「……あの先生は、確かにすごい。」

志乃が顔を上げると、紀一の目が真剣だった。

「けど、素性がわからん人だ。あまり信用しすぎるな。」

志乃は、驚いてただ頷くしかなかった。紀一が他人を悪く言うのを、聞いたことがなかったから。

「次は祭りの頃に帰る。一緒に行こうな。」

そう言って、紀一は志乃の両頬を包んだ。

その温もりの中で、志乃はただ小さく頷いた。

 

 翌朝、紀一は再び、和総へと帰っていった。


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