痛
昨夜、仁朗の兄・紀一が三か月ぶりに帰ってきたという。
紀一は和総の材木商で奉公しており、いずれ家業を継ぐために商いの修行中だ。
足楢までは健脚でも一日がかり。
母親が台所で鼻歌をうたっているのも、無理はない。自慢の息子が戻ったのだ。
翌朝、志乃が材木屋に行くと、仁朗が薬研を軽快に動かしていた。
「神様は長に呼ばれて出かけているよ。」
仁朗は最近、ずっと苦木を粉にしている。
「平助さん、だいぶ良くなったね。」
「うん。もう少しで薬も終わる。」
三週間前、初めて神近が診て以来、志乃も何度か同行した。掻き傷は減り、夜も眠れるようになった。
「志乃、俺さ……神様に弟子入りしようと思う。」
薬研の手を止め、真っ直ぐに言った。
「医者に、なるの?」
「まだわからん。でも、あの人のそばにいると、自分のやりたいことが見えてくる気がするんだ。」
「いいね……。」
同じ想いを抱きながら、それを声に出せる仁朗と出せない自分。
志乃は、彼のまっすぐさがうらやましかった。
戸口が開く音。神近かと思えば、紀一だった。
「ただいま。」
「お帰りなさい。」
志乃が微笑むと、紀一も穏やかに笑った。
「神様に弟子入りだって? お前も立派になったな。」
「まだ決まったわけじゃねえよ。」
「でも、友達と遊ぶばかりだったお前が、こんな地味な仕事を続けるなんてな。父さんが呼んでるぞ。」
紀一が冗談めかして言うと、仁朗はむくれて「へいへい」と答え、裏庭へ向かった。
兄弟のやりとりに、志乃は思わず笑みをこぼす。
「志乃、変わりなかったか。」
「うん。きいっちゃんも?」
「あぁ……はい、これ。」
差し出されたのは、何冊かの本だった。
「字の勉強、続けてるんだろう。今回は少し難しいかもしれないけど、志乃なら読める。」
志乃は胸が熱くなった。紀一は、いつも自分のために本を選んでくれる。
きっと多くない給金の中から、少しずつ買ってくれているのだ。
「ありがとう。うどん、食べに来てね。」
「おう。また行く。」
そう言って、志乃の髪を軽く撫でた。
紀一と入れ替わりに神近が戻ってきた。長の家へすぐにまた行くと言う。
「神近先生、付いて行ってもいいですか?」
「いいですよ。ただ、急ぎます。」
二人は駆け足で長の家へ向かった。
足楢の村長である治成は布団の上でうつ伏せになり呻いていた。
額に汗をにじませて、もがく治成の姿に、志乃の足は一瞬すくんだ。
神近は静かに治成の背をさすり、呼吸を整えさせる。
痛みは波があるようだ。
最初に神近が来た時、拳で治成の左腰を軽く叩いた。
「うっ……!」
治成が呻いた。右は痛まない。左だけが鋭く響くらしい。
そこで、神近は確信し、薬を持ってまた訪れたのだ。
呼ばれてきたのだろうか、紀一と治成の孫が駆け込んできた。
「尿路の石でしょう。」
神近の声は落ち着いていた。
「奥様、水をたくさんお願いします。」
再び痛みにうなる治成の背に、志乃は思わず手を伸ばした。
背中をそっとさすりながら、心の中で祈る。
(どうか、この痛みが早く去りますように……。)
神近は持ってきた薬湯を、治成の口に少しずつ流し込んだ。
「水をたくさん飲むのも治療です。」
志乃はすかさず湯飲みに水をつぎ足す。
やがて、呻き声が遠のいた。治成の顔が少しずつ穏やかになる。
妻と孫が涙ぐみながら頭を下げた。
「お酒をたくさん飲まれましたか。」
神近の問いに妻が答える。
「昨夜の集まりで……。」
「お酒は尿を多くします。汗もかく季節、体の水が減ると石ができやすいのです。」
治成は力なく頷いた。
その時、神近が小声で志乃に言った。
「お店、開く時間では?」
「あ……はい。」
「こちらは大丈夫です。」
志乃は一礼し、駆け戻った。
昼過ぎ、紀一と治成の孫が店に来た。
「ありがとう。じいさん、志乃ちゃんがいてくれて心強かったって。」
「私は何も……背中をさすっていただけです。」
「それでも十分さ。あの先生にも感謝していたよ。ずっと足楢にいてくれたらいいのにな。」
志乃は胸がいっぱいになった。
自分は何もできなかった気がする。でも、神近を褒められるのは嬉しかった。
夕方、母に言われて仁朗の家へ行くと、食卓には皆が揃っていた。
「神近先生が立派な鯛をもらってきたの。志乃ちゃんも食べてって。」
神近は相変わらず、子どもたちに囲まれている。
「先生、今日の薬は何だったのですか。」
紀一が訊ねた。
「芍薬が入っています。筋肉をゆるめて、痛みを取る力があります。」
「芍薬……名前に“薬”という文字が入っているのですね。」
「“顔佳草”という別名もあります。花も美しく、根は人を救う。そんな素晴らしい植物です。」
紀一の目がわずかに和らいだ。神近と話すうちに、場の空気が穏やかに満ちていく。
外はすでに暮れ、紀一が志乃を送ってくれた。
道すがら、和総の話、商家の様子――志乃にとっては遠い世界の話に胸が弾む。
だが、家の灯が見えたころ、紀一がふと立ち止まった。そして、志乃に向き合って両肩に手を添えた。
「……あの先生は、確かにすごい。」
志乃が顔を上げると、紀一の目が真剣だった。
「けど、素性がわからん人だ。あまり信用しすぎるな。」
志乃は、驚いてただ頷くしかなかった。紀一が他人を悪く言うのを、聞いたことがなかったから。
「次は祭りの頃に帰る。一緒に行こうな。」
そう言って、紀一は志乃の両頬を包んだ。
その温もりの中で、志乃はただ小さく頷いた。
翌朝、紀一は再び、和総へと帰っていった。




