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さんさ 志乃の医薬譚〜恋せよ乙女 医の道をゆけ〜  作者: 朝久野智秋
和総編

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23/35

 香ばしい醤油の香りが風にのって漂ってくる。

春田神宮の参道は、昼下がりの光を浴びてきらめいていた。

神近と仁朗は、久々に二人で並んで歩いていた。

「毎日座って勉強なんて、気が狂いますよ!神様、何とかして下さい!」

団子を頬張りながら、仁朗が天を仰ぐ。

神近はくすりと笑った。

「仁朗さんには退屈だろうね。でも、基礎が大事だから。」

「とにかく、切ったり縫ったりしたいですぅ。」

「そんなこと大声で言わない。」

仁朗は肩を落としながらも、通りを行く娘たちを目で追う。

「都会は花盛りですね。咲いてる、咲いてる。」

神近は苦笑した。

 

 夕方、大康堂の門をくぐると、番頭の才司が駆け寄ってきた。

「神近先生、旦那様がお呼びです。」

神近と仁朗が座敷に通されると、志乃が茶と菓子を運んできた。

「先生、仁ちゃん、お帰りなさいませ。」

「なさいませ? ……気持ち悪。」

仁朗の小声に、志乃は肘でつついて反撃する。

「口にみたらし、ついてるよ。」

「えっ。」

「子どもじゃないんだから。」

志乃が手ぬぐいを差し出すと、神近と才司が顔を見合わせて笑った。

「先生の弟子たちは、かわいらしいですね。」

「ええ、本当に。……子を持つとこういう温かな気持ちになるんでしょうか。」

「先生とそんな年の差はないですよ!」

「神様はまだまだ若い!」

志乃と仁朗の抗議に、笑いが起きた。

 

 やがて店主・尚彦が現れると、部屋の空気が一瞬で改まった。

彼の背筋の伸びた姿に、和総一の大店を背負う者の重みがあった。

「神近先生、今日はお忙しい中ありがとうございます。」

「いえ、こちらこそ。何から何までお世話になり、頭が上がりません。」

「どうぞ家と思ってお過ごしください。……先生を敬愛する薬師(くすし)から、先生が困らないようになにとぞ、と言われていますので。」

神近は苦笑を浮かべた。藤木のことだ。

「今日、うちの嫁が倒れたのですが、志乃が的確に動いてくれました。」

志乃の背筋がびくりと伸びた。

「その後いらした京極泰介先生が、志乃の見立てに興味を持たれましてな。」

「泰介先生……善悦先生のご子息ですか。」

「はい。そして先程、善悦先生から使いが来まして。志乃さんと神近先生を、屋敷に招きたいとのことです。」

志乃は頭の中が真っ白になった。

そんな大層なことをした覚えはない。

——ただ、目の前の人を助けたいと思っただけ。

神近は一呼吸おいて言った。

「まずは私だけ伺います。後ほど改めて日を決めましょう。」

「承知しました。そして、志乃。」

呼ばれた志乃は、両手をついて頭を下げる。

「今日はありがとう。」

「ご主人様、私は何も……」

「倒れた妻の手を、勢之助に握らせたそうだな。」

「……出過ぎた真似でした。申し訳ありません。」

尚彦は静かに志乃の顔を上げさせた。

「いや、あの夫婦に関しては、わしも思うところがある。藤木殿の推挙は正しかった。賢い子ですな。」

神近が静かにうなずく。

だが尚彦の笑みの奥には、どこか影があった。

「……ただ、あまり目立つのはよくない。人の心は、平等ではない。」

その後、志乃は才司と泰斗の付き人として働くことを命じられた。

——その夜、志乃の胸は、誇りと不安で入り混じっていた。


 夜。

厨房の片隅で志乃は一人、遅い夕食を摂っていた。

器の味噌汁がぬるくなっていく。

丁稚たちは奥で急いで飯をかき込み、すぐに勉強へと向かう。

彼らの姿を見つめながら、志乃は箸を止めた。

(みんな必死に生きている……なのに、私だけが特別扱いされている。)

胸の奥に重い罪悪感が沈んでいく。

はっとして立ち上がった。

神近に呼ばれていたのだ。


 神近の部屋では、灯りが静かに揺れていた。

神近は机に向かい筆を走らせている。

かたわらで仁朗は舟をこいでいた。

「志乃さん、今日もお疲れ様。」

「先生もお疲れ様です。仁ちゃん、湯あみしなくていいの?」

「……いい。」

仁朗は眠りの世界へと沈んでいく。志乃はそっと布団を掛けた。

神近が筆を置いた。

「今日の件、話してくれますか。」

志乃は静かに、まゆの倒れたときの様子を語った。

呼吸、脈、顔色、そして奔豚ヒステリーによる一過性の発作と判断したことを。

神近はしばらく黙っていた。

やがて、低い声で言った。

「意見してもいいですか。」

「……はい。」

「まず、志乃さんが逃げずに人を助けようとしたこと、それ自体は素晴らしい。」

神近の声は穏やかだが、次の瞬間、冷たい刃のような静けさが漂った。

「けれど——診断を決めつけてはいけません。」

志乃の心がひゅっと縮んだ。

「状況から推測したのは悪くありません。けれど“若い女性”“夫婦喧嘩”“突然の倒れ込み”、そこから“奔豚”だと安易に決めてはいませんでしたか?」

「……そう、かもしれません。」

「その思考では、重い病を見逃します。目の前で命が失われるもしれない。」

志乃は、手を膝の上で固く握りしめた。

呼吸が浅くなる。

「そして、もうひとつ。」

神近の目が静かに光った。

「あなたは——病人から離れた。」

その言葉が、心臓を刺した。

(そうだ……私は“もう大丈夫”だと思い込んだ。自分の判断を、正しいと信じた。)

頭の中で雷が落ちた。

「志乃さん。病は生き物です。刻一刻と変わる。疑っても病人がもう大丈夫だと、自分の目で見て確信するまでは、患者の傍を離れてはいけない。」

「……はい。」

「慢心とは、(おご)りだけではない。自分の身の丈を見誤ることも、慢心なんです。」

志乃は何も言えなかった。

のどの奥で言葉が音にならないまま震えている。

神近はふっと息をついた。

「あなたが遠慮していたことは分かっています。身分の差、立場、そうしたものに縛られて。ですが、命を前にしたとき、それらは意味を持ちません。」

そのとき、仁朗がむくりと体を起こした。

眠そうな声で、けれどどこか優しく言った。

「俺だったら“奔豚、何それ?”って感じで、すぐ神様呼びに行くけどね。」

「仁ちゃん……」

「志乃は、よう頑張ってるよ。料理もうまくなったし。兄さんにも食べさせたいな、志乃の手料理。」

その一言で、張り詰めていたものがぷつりと切れた。

志乃の視界がにじむ。

唇を噛んでも、涙は止まらなかった。

神近は黙って志乃の肩に手を置いた。

その手の平の温もりが、志乃の心の奥まで染みていく。

——私は、まだ学びの途中だ。

恥を知り、反省できるなら、それでいい。

ろうそくの炎がゆらめき、志乃の頬に光の筋を描いた。

その涙は、静かなゆるしの証のように光っていた。


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