省
香ばしい醤油の香りが風にのって漂ってくる。
春田神宮の参道は、昼下がりの光を浴びてきらめいていた。
神近と仁朗は、久々に二人で並んで歩いていた。
「毎日座って勉強なんて、気が狂いますよ!神様、何とかして下さい!」
団子を頬張りながら、仁朗が天を仰ぐ。
神近はくすりと笑った。
「仁朗さんには退屈だろうね。でも、基礎が大事だから。」
「とにかく、切ったり縫ったりしたいですぅ。」
「そんなこと大声で言わない。」
仁朗は肩を落としながらも、通りを行く娘たちを目で追う。
「都会は花盛りですね。咲いてる、咲いてる。」
神近は苦笑した。
夕方、大康堂の門をくぐると、番頭の才司が駆け寄ってきた。
「神近先生、旦那様がお呼びです。」
神近と仁朗が座敷に通されると、志乃が茶と菓子を運んできた。
「先生、仁ちゃん、お帰りなさいませ。」
「なさいませ? ……気持ち悪。」
仁朗の小声に、志乃は肘でつついて反撃する。
「口にみたらし、ついてるよ。」
「えっ。」
「子どもじゃないんだから。」
志乃が手ぬぐいを差し出すと、神近と才司が顔を見合わせて笑った。
「先生の弟子たちは、かわいらしいですね。」
「ええ、本当に。……子を持つとこういう温かな気持ちになるんでしょうか。」
「先生とそんな年の差はないですよ!」
「神様はまだまだ若い!」
志乃と仁朗の抗議に、笑いが起きた。
やがて店主・尚彦が現れると、部屋の空気が一瞬で改まった。
彼の背筋の伸びた姿に、和総一の大店を背負う者の重みがあった。
「神近先生、今日はお忙しい中ありがとうございます。」
「いえ、こちらこそ。何から何までお世話になり、頭が上がりません。」
「どうぞ家と思ってお過ごしください。……先生を敬愛する薬師から、先生が困らないようになにとぞ、と言われていますので。」
神近は苦笑を浮かべた。藤木のことだ。
「今日、うちの嫁が倒れたのですが、志乃が的確に動いてくれました。」
志乃の背筋がびくりと伸びた。
「その後いらした京極泰介先生が、志乃の見立てに興味を持たれましてな。」
「泰介先生……善悦先生のご子息ですか。」
「はい。そして先程、善悦先生から使いが来まして。志乃さんと神近先生を、屋敷に招きたいとのことです。」
志乃は頭の中が真っ白になった。
そんな大層なことをした覚えはない。
——ただ、目の前の人を助けたいと思っただけ。
神近は一呼吸おいて言った。
「まずは私だけ伺います。後ほど改めて日を決めましょう。」
「承知しました。そして、志乃。」
呼ばれた志乃は、両手をついて頭を下げる。
「今日はありがとう。」
「ご主人様、私は何も……」
「倒れた妻の手を、勢之助に握らせたそうだな。」
「……出過ぎた真似でした。申し訳ありません。」
尚彦は静かに志乃の顔を上げさせた。
「いや、あの夫婦に関しては、わしも思うところがある。藤木殿の推挙は正しかった。賢い子ですな。」
神近が静かにうなずく。
だが尚彦の笑みの奥には、どこか影があった。
「……ただ、あまり目立つのはよくない。人の心は、平等ではない。」
その後、志乃は才司と泰斗の付き人として働くことを命じられた。
——その夜、志乃の胸は、誇りと不安で入り混じっていた。
夜。
厨房の片隅で志乃は一人、遅い夕食を摂っていた。
器の味噌汁がぬるくなっていく。
丁稚たちは奥で急いで飯をかき込み、すぐに勉強へと向かう。
彼らの姿を見つめながら、志乃は箸を止めた。
(みんな必死に生きている……なのに、私だけが特別扱いされている。)
胸の奥に重い罪悪感が沈んでいく。
はっとして立ち上がった。
神近に呼ばれていたのだ。
神近の部屋では、灯りが静かに揺れていた。
神近は机に向かい筆を走らせている。
かたわらで仁朗は舟をこいでいた。
「志乃さん、今日もお疲れ様。」
「先生もお疲れ様です。仁ちゃん、湯あみしなくていいの?」
「……いい。」
仁朗は眠りの世界へと沈んでいく。志乃はそっと布団を掛けた。
神近が筆を置いた。
「今日の件、話してくれますか。」
志乃は静かに、まゆの倒れたときの様子を語った。
呼吸、脈、顔色、そして奔豚による一過性の発作と判断したことを。
神近はしばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「意見してもいいですか。」
「……はい。」
「まず、志乃さんが逃げずに人を助けようとしたこと、それ自体は素晴らしい。」
神近の声は穏やかだが、次の瞬間、冷たい刃のような静けさが漂った。
「けれど——診断を決めつけてはいけません。」
志乃の心がひゅっと縮んだ。
「状況から推測したのは悪くありません。けれど“若い女性”“夫婦喧嘩”“突然の倒れ込み”、そこから“奔豚”だと安易に決めてはいませんでしたか?」
「……そう、かもしれません。」
「その思考では、重い病を見逃します。目の前で命が失われるもしれない。」
志乃は、手を膝の上で固く握りしめた。
呼吸が浅くなる。
「そして、もうひとつ。」
神近の目が静かに光った。
「あなたは——病人から離れた。」
その言葉が、心臓を刺した。
(そうだ……私は“もう大丈夫”だと思い込んだ。自分の判断を、正しいと信じた。)
頭の中で雷が落ちた。
「志乃さん。病は生き物です。刻一刻と変わる。疑っても病人がもう大丈夫だと、自分の目で見て確信するまでは、患者の傍を離れてはいけない。」
「……はい。」
「慢心とは、驕りだけではない。自分の身の丈を見誤ることも、慢心なんです。」
志乃は何も言えなかった。
のどの奥で言葉が音にならないまま震えている。
神近はふっと息をついた。
「あなたが遠慮していたことは分かっています。身分の差、立場、そうしたものに縛られて。ですが、命を前にしたとき、それらは意味を持ちません。」
そのとき、仁朗がむくりと体を起こした。
眠そうな声で、けれどどこか優しく言った。
「俺だったら“奔豚、何それ?”って感じで、すぐ神様呼びに行くけどね。」
「仁ちゃん……」
「志乃は、よう頑張ってるよ。料理もうまくなったし。兄さんにも食べさせたいな、志乃の手料理。」
その一言で、張り詰めていたものがぷつりと切れた。
志乃の視界がにじむ。
唇を噛んでも、涙は止まらなかった。
神近は黙って志乃の肩に手を置いた。
その手の平の温もりが、志乃の心の奥まで染みていく。
——私は、まだ学びの途中だ。
恥を知り、反省できるなら、それでいい。
ろうそくの炎がゆらめき、志乃の頬に光の筋を描いた。
その涙は、静かなゆるしの証のように光っていた。




