奔
春の風に、桜の花びらが舞っていた。
行き交う人々の声が、陽光の下で重なり合う。
野菜売りの威勢のいい呼び声、馬の蹄が道を軽快に打つ音、笑い声、物売りの笛――。
和総の大通りは、生きているかのようにざわめいていた。
その通りに面してそびえる大康堂は、和総でも指折りの薬種問屋である。
志乃は今、その大康堂に住み込みで働いていた。
足楢を離れてから、もう一月。
初めは心細く、夜に布団の中で涙をこらえた日もあった。
けれど、慣れぬ仕事と新しい環境の忙しさが、寂しさを追い越していった。
朝昼夕の食事の支度、洗濯。店主一家や従業員の頼まれごとをこなし、夜は神近のもとで学問に励む。
神近と仁朗は、大康堂の敷地内に借りた小屋で暮らしている。
二人の食事や洗濯も、志乃を含めた女性陣が手分けして世話をしていた。
この環境を整えた藤木には、志乃も神近も深く頭が下がる。
最近になって志乃は知った――神近と仁朗の生活費は、藤木の背後にいる方から大康堂へ支払われているのだという。
それほどまでに、神近という医師は望まれている。志乃はそれを誇らしくも、少し遠いもののように感じた。
志乃の仕事には休みの日が設けられていた。
住み込みにしては珍しい。
きっと藤木と店主の温情だろう。
だが、その休みも結局は勉強で終わる。仁朗が医頼館で写してきた講義の記録、難解な書物――。志乃は文字とにらめっこしながら、日々を積み重ねていった。
神近は一方で、往診や診察に奔走している。まだ山鹿元医先生には会えていないが、そろそろ仮の診療所を始めるつもりだという。
朝食の片付けが済んだ後、志乃は千香と洗濯場にいた。
冷たい水も、春の陽気でわずかに和らいできている。だが、桶の中に手を入れ続けていると、指先の感覚はやはり鈍くなった。
「今日は多いね。」
千香が額の汗を拭った。
彼女は母の「なお」と共に働く、この店の古株だ。志乃と同い年だが、仕事ぶりは頼もしく、彼女がいなければ志乃はとっくにくじけていたに違いない。
「ほんとにね。……みんな働き者だなぁ。」
志乃が答えると、横では丁稚の少年たちが洗い終えた衣を次々と干していく。まだ十代前半の小さな背中が、陽にきらめく。
その姿に志乃も気持ちを新たにして、また桶へと手を伸ばした。
洗濯が終われば、すぐに昼食の準備。
休む間など、ほとんどない。だから、洗い場までの道すがらが、二人の数少ないおしゃべりの時間だった。
「ねぇ、志乃。仁朗さんって、どんな女の子が好きなんだろ。」
千香がいたずらっぽく笑う。
志乃は思わず眉を寄せた。
――またか。
女の子から仁朗の名が出ると、次に続く話が予測できてしまう。
明るく、人懐っこい。そんな彼は、どうしても放っておけない男のようだ。
節操がないようにも思うが、それでいて趣味は悪くない。
とにかく、志乃の周りの可愛い女性にことごとく毒牙を伸ばすのはやめて欲しい。
「明るい子が好きなんじゃないかな。年齢は関係ないと思うよ。」
一つ年上であることを気にする千香に、志乃は苦笑しながら返した。
洗濯場から戻ると、妙に静かだった。
人の気配がない。
千香と目を合わせ、まず厨房をのぞくが、誰もいない。
そのとき――
「志乃、来てくれ!」
息を切らして走ってきたのは手代の頭・奏斗だった。
志乃の腕をつかむと、説明もなく駆け出した。
「えっ……?」
千香も驚いて後を追う。
店主の家の階段を駆け上がった。
二階の部屋で、志乃の目に飛び込んできたのは、畳に倒れこんだ一人の女性。
店主の長男・勢之助の妻、まゆである。
部屋には緊迫した空気が漂っていた。
手代たちが取り囲み、勢之助は少し離れた場所で青ざめた顔をして立っている。
その傍らでは、姑が幼い娘・きくを抱きしめていた。
奏斗が息をのみながらささやく。
「旦那様と言い争っている最中に、急に意識を失ったらしい。神近先生は往診中でいない。志乃、どうにかならないか。」
志乃は一瞬、迷った。
下女同然の身で前に出ることは、無礼にも思える。だが――
倒れている人がいる。
今は立場よりも命が先だ。
志乃は小さく息を整えた。
「奥様が倒れられたのを見ていた方はいらっしゃいますか。」
志乃が言うと、奏斗が声を張って皆に問いかける。
「私が!」
一人の手代が前に出て説明した。
「息が荒くなって、そのままゆっくりと倒れこまれました。それから声をかけても反応がありません。」
志乃はまゆのもとに膝をついた。
手首に触れると、脈は速くも力強い。
胸は規則的に上下し、息もある。熱はない。
まぶたがかすかに震えていた。
――意識が完全に無いわけではない。
「失礼します。」
志乃はそっとまゆの右腕を持ち上げ、本人の顔の上にかざした。
手を離すと、まゆの腕は自身の顔に当たることなく、ゆっくりと畳へ落ちた。
志乃は奏斗を見て静かに言う。
「部屋にお運びして、布団でしばらく休んでいただければ。よければ、ご主人とお子様に手を握っていただきたいです。」
「……それでいいのか?」
「おそらく。ただ、お医者様が来られたら必ず診ていただいてください。私はあくまで見習いです。」
奏斗がすぐに指示を飛ばし、皆でまゆを部屋へ運ぶ。志乃は深く頭を下げ、見送った。
その後、志乃は奏斗に連れられ、店の方へ向かった。まゆに対して薬を作るためだ。
「店主がお前の使う薬を聞きたいそうだ。」
奏斗は少し得意げに言った。
志乃が店に入ると、番頭の才司が笑顔で待ち構えていた。
「旦那様は今いらっしゃらない。代わりに聞こう。して、どんな薬を使うつもりか。」
挑むような眼差し。
「小麦を使わせていただきたく存じます。……あとは、甘草と大棗も。」
「なるほど。」
才司はあごを撫でるようにしてうなずいた。
「だが、ちょうど京極先生がいらして、まゆ様を診てくださっている。旦那様もそちらへ。今の薬を持っていくか?」
志乃は深く頭を下げた。
「お医者様がいらっしゃるのでしたら、どうか私の見立てはお忘れください。」
「遠慮することはない。見習いとはいえ――」
「いえ。もし私の判断が誤っていれば、貴重な薬を無駄にしてしまいます。」
その静かな言葉に、才司はわずかに目を細めた。
「……わかった。では持ち場に戻りなさい。」
奏斗に促され、志乃は店を出た。
外の風が肌に触れる。
――ああ、また波が立つ。
穏やかな日々は、まだ遠いらしい。
志乃は胸の奥に小さな痛みを抱えながら、再び大康堂の屋敷へと駆けていった。
★ヒステリー★




