謎
志乃は迷っていた。
和総へ旅立つ日が、もう明日に迫っているというのに、荷造りが終わらない。
何を持って行き、何を置いていくか――それが決められないのだ。
佳之、幸、小なつ……みんなが餞別をくれた。その一つ一つに心がこもっており、手放すことなどできそうにない。けれど、持てる荷は限られている。
背負い籠ひとつと、風呂敷二つ。それが志乃に許された全てだった。
着物、手ぬぐい、茶碗、箸――暮らしに欠かせぬものを包むうち、籠はすぐに満たされた。筆と紙も外せない。新しい場所での学びの糧となるからだ。
着飾るものや化粧道具など、志乃は迷いなく置いていくつもりだった。
だが、かおるに「都会に行くのだから、必ず持って行きなさい」と渡された紅の貝殻だけは、どうしても迷う。置いていけばきっと咎められる。
仕方なく、志乃は紅を籠の隅に押し込んだ。
――そして、もう一つ。
腕に抱えた「生薬図譜」。
この書は、志乃にとって希望であり、象徴のような存在だった。
けれど、それほど大切なものを旅路で失ったら……。
逡巡の末、志乃は静かに籠の中へ収めた。胸の奥で、何かを決意するように。
「まだ準備できてないの?」
ふすまの向こうから声がした。志乃が振り向くと、なつが半分顔を覗かせている。
「こんなに優柔不断だったっけ? お母さんが選んであげようか」
志乃は笑って、なつの背を軽く押し、外へ追い出した。
「これ、また増えたわよ。」
そう言って渡された小包の中には、志乃の好物の落雁が入っていた。
「伊作さんから。」
なつが言い残して去る。志乃は落雁を巾着にしまい、船の中で食べようと心に決めた。
――それにしても、荷は増えるばかりだ。
夜になって、志乃は診療所へ向かった。
神近の手伝いをしていると、足楢の長・治成がやってきた。
「この間の件だがな、盗まれたものはやはり無かったのかい?」
「はい、そのようです。」
神近が答えると、治成はゆっくりうなずいた。
「実はな……前の長の帳面を見ていたら、十五年前にも似たようなことがあったと書かれていたんだ。」
志乃は顔を上げた。
「荒らされたのに、何も盗まれていない――まるで今回と同じだ。」
治成は少し声を落とした。
「それが起きたのは、志乃の家と百合金商店。しかも同じ日に、だ。」
志乃は息を呑んだ。
十五年前――自分がまだ一、二歳のころ。
心の奥に埋もれていた遠い記憶を探るように、志乃は目を伏せた。
「犯人は見つかったのですか?」
神近の問いに、治成は静かに首を振った。
「記録には、手がかりなしとある。」
胸がざわめいた。
志乃は、確かめずにはいられないという思いに駆られた。
まるで、自分の足元に埋もれた何かが、音を立てて動き出したようだった。
診療所を早めに出た志乃は、百合金商店へ向かった。
夕暮れの光の中、母屋の奥から、さよの明るい声が聞こえてくる。
「志乃ちゃん、もうすぐ出発でしょう? 準備はできた?」
「うーん、もう少し。」
「その言い方はまだまだね。」
さよが笑う。鍋からは香ばしい匂いが漂い、台所にはぬくもりがあった。
「さよさん、少しお聞きしたいことがあるんです。」
志乃がそう言ったころ、居間に通された。
やがて、話の中で明かされた十五年前の出来事――。
年の瀬、餅つきの最中に志乃の家と百合金商店が荒らされた。
家には人がおらず、唯一残っていたのは体調を崩した源蔵。
さよが少し家を離れ、餅つきの場の広場に行ったすきに、騒動は起きた。
幸い源蔵に怪我はなかったが、その後、何かに怯えるように心を閉ざした。
そして彼は――「志乃の父のせいだ」とだけ、言ったという。
なぜ、父のせいだと?
どんな関わりがあったのか?
その理由を確かめる術は、今や彼の沈黙の奥にしかない。
源蔵はこの家にいない。妻との新居だ。押しかけるのは憚られる。
志乃は胸の内で息をついた。
真実を知りたい――けれど、知るのが怖い。
それでも、今夜、母になら聞けるかもしれない。
そう思って家へ帰ると、母の姿はなかった。
代わりに台所に立っていた祖母から、「なつは頭が痛くて休んでいる」と知らされる。
またあの強い発作。母は年に数回、強い頭痛で二、三日寝込むのだ。
志乃は黙ってうなずき、母の枕元に、神近と調合した薬湯を置いた。
苦い呉茱萸の香りが夜気に混じる。今の母にはよく効くはずだ。
母はうっすらと目を開け、礼を告げた。
今夜はもう、聞く事はできない。きっといつか、母の心が穏やかな日に。
部屋に戻ると、志乃は再び荷造りを始めた。
もう迷いはなかった。――持てるだけ、すべて持って行く。
その勢いで籠を結び、布団にもぐる。
瞼の裏に浮かぶのは、神近と出会ってからの日々、足楢の人々の笑顔。
そして、まだ見ぬ和総の空を想像する。
不安と期待が、静かに胸を満たしていく。
自ら選んだ道。
もう後戻りはしない。
新たな一歩が、いま、始まろうとしていた。




