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さんさ 志乃の医薬譚  作者: 朝久野智秋
足楢編

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21/34

 志乃は迷っていた。

和総かずさへ旅立つ日が、もう明日に迫っているというのに、荷造りが終わらない。

何を持って行き、何を置いていくか――それが決められないのだ。

佳之、さち、小なつ……みんなが餞別をくれた。その一つ一つに心がこもっており、手放すことなどできそうにない。けれど、持てる荷は限られている。

背負い籠ひとつと、風呂敷二つ。それが志乃に許された全てだった。

着物、手ぬぐい、茶碗、箸――暮らしに欠かせぬものを包むうち、籠はすぐに満たされた。筆と紙も外せない。新しい場所での学びの糧となるからだ。

着飾るものや化粧道具など、志乃は迷いなく置いていくつもりだった。

だが、かおるに「都会に行くのだから、必ず持って行きなさい」と渡された紅の貝殻だけは、どうしても迷う。置いていけばきっと咎められる。

仕方なく、志乃は紅を籠の隅に押し込んだ。

――そして、もう一つ。

腕に抱えた「生薬図譜」。

この書は、志乃にとって希望であり、象徴のような存在だった。

けれど、それほど大切なものを旅路で失ったら……。

逡巡の末、志乃は静かに籠の中へ収めた。胸の奥で、何かを決意するように。


「まだ準備できてないの?」

ふすまの向こうから声がした。志乃が振り向くと、なつが半分顔を覗かせている。

「こんなに優柔不断だったっけ? お母さんが選んであげようか」

志乃は笑って、なつの背を軽く押し、外へ追い出した。

「これ、また増えたわよ。」

そう言って渡された小包の中には、志乃の好物の落雁らくがんが入っていた。

「伊作さんから。」

なつが言い残して去る。志乃は落雁を巾着にしまい、船の中で食べようと心に決めた。

――それにしても、荷は増えるばかりだ。


 夜になって、志乃は診療所へ向かった。

神近の手伝いをしていると、足楢の長・治成はるなりがやってきた。

「この間の件だがな、盗まれたものはやはり無かったのかい?」

「はい、そのようです。」

神近が答えると、治成はゆっくりうなずいた。

「実はな……前の長の帳面を見ていたら、十五年前にも似たようなことがあったと書かれていたんだ。」

志乃は顔を上げた。

「荒らされたのに、何も盗まれていない――まるで今回と同じだ。」

治成は少し声を落とした。

「それが起きたのは、志乃の家と百合金商店。しかも同じ日に、だ。」

志乃は息を呑んだ。

十五年前――自分がまだ一、二歳のころ。

心の奥に埋もれていた遠い記憶を探るように、志乃は目を伏せた。

「犯人は見つかったのですか?」

神近の問いに、治成は静かに首を振った。

「記録には、手がかりなしとある。」

胸がざわめいた。

志乃は、確かめずにはいられないという思いに駆られた。

まるで、自分の足元に埋もれた何かが、音を立てて動き出したようだった。

 

 診療所を早めに出た志乃は、百合金商店へ向かった。

夕暮れの光の中、母屋の奥から、さよの明るい声が聞こえてくる。

「志乃ちゃん、もうすぐ出発でしょう? 準備はできた?」

「うーん、もう少し。」

「その言い方はまだまだね。」

さよが笑う。鍋からは香ばしい匂いが漂い、台所にはぬくもりがあった。

「さよさん、少しお聞きしたいことがあるんです。」

志乃がそう言ったころ、居間に通された。

やがて、話の中で明かされた十五年前の出来事――。

 

 年の瀬、餅つきの最中に志乃の家と百合金商店が荒らされた。

家には人がおらず、唯一残っていたのは体調を崩した源蔵。

さよが少し家を離れ、餅つきの場の広場に行ったすきに、騒動は起きた。

幸い源蔵に怪我はなかったが、その後、何かに怯えるように心を閉ざした。

そして彼は――「志乃の父のせいだ」とだけ、言ったという。


 なぜ、父のせいだと?

どんな関わりがあったのか?

その理由を確かめる術は、今や彼の沈黙の奥にしかない。

源蔵はこの家にいない。妻との新居だ。押しかけるのは憚られる。

志乃は胸の内で息をついた。

真実を知りたい――けれど、知るのが怖い。

それでも、今夜、母になら聞けるかもしれない。


 そう思って家へ帰ると、母の姿はなかった。

代わりに台所に立っていた祖母から、「なつは頭が痛くて休んでいる」と知らされる。

またあの強い発作。母は年に数回、強い頭痛で二、三日寝込むのだ。

志乃は黙ってうなずき、母の枕元に、神近と調合した薬湯を置いた。

苦い呉茱萸ごしゅゆの香りが夜気に混じる。今の母にはよく効くはずだ。

母はうっすらと目を開け、礼を告げた。

今夜はもう、聞く事はできない。きっといつか、母の心が穏やかな日に。

 

部屋に戻ると、志乃は再び荷造りを始めた。

もう迷いはなかった。――持てるだけ、すべて持って行く。

その勢いで籠を結び、布団にもぐる。

瞼の裏に浮かぶのは、神近と出会ってからの日々、足楢の人々の笑顔。

そして、まだ見ぬ和総の空を想像する。

不安と期待が、静かに胸を満たしていく。

自ら選んだ道。

もう後戻りはしない。

新たな一歩が、いま、始まろうとしていた。



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