荒
「神様、誰に恨まれてるんですか……」
仁朗の第一声は、半ば冗談のようでいて、どこかおびえていた。
往診を終えて戻り、診療所の扉を開いた瞬間、二人は息をのんだ。
中のものはことごとくひっくり返され、書物は棚から落ち、机の上の器具は粉々に散っている。
風も通わぬ静かな午後の空気の中に、暴力の痕跡だけが生々しく残っていた。
しばらく立ち尽くしたのち、神近が静かに前へ進む。
「誰も……いませんね。」
声が落ち着いている。だが、指先がわずかに震えていた。
床を見渡すと、百味箪笥の引き出しはほとんど開かれていない。
生薬は無事、金銭も残っている。
にもかかわらず、書棚が徹底的に荒らされていた。
「最近、夜道で視線を感じることがありました。」
神近の低い声に、仁朗が顔を上げた。
「えっ、護衛なしで出かけてたんですか?」
「……少し、油断しましたね。」
材木屋の作業音が響く昼間でも、これだけ荒らされれば気づくはずだ。
だが、何も見なかったという隣人の言葉が、かえって不気味さを増す。
——誰かが周到に時間を選んでいた。
その時、扉を叩く音。仁朗の体がびくりと跳ねた。
神近が慎重に戸を開けると、立っていたのは志乃だった。
「え……」
言葉を失い、蒼白になって中を見つめる。
神近は軽く口元をゆるめた。
「ちょうどいいところに。整理整頓の得意な志乃さんが来てくれました。地獄に仏ですね。」
その冗談が、かえって胸に刺さった。
志乃は深呼吸して言葉を絞り出す。
「……盗人ですか?」
「盗人か、嫌がらせか……今、調べているところです。」
「どうして、こんな時でもそんなに冷静なんですか」
仁朗の声が、怒りとも不安ともつかぬ響きを帯びた。
神近は静かにあごに手を当てた。
「冷静じゃありません。ただ、慌てても何も戻りませんからね。」
志乃は思った。——それが、医者の強さなのかもしれない。
「仁朗さん、あなたは父上に報告を。志乃さんと私はここを片付けます」
「はい。」
仁朗が駆け出し、二人だけが残った。
散乱した書物を拾い上げる志乃の手が止まる。
——百味箪笥は無事。薬も金も残っている。
ならば、狙いは何だったのか。
神近がその視線に気づいたように言った。
「志乃さんが一人の時でなくてよかった。命より大切なものはありません。」
確かに、時々一人で留守番をすることもある。志乃は想像して少し体を震わせた。
いつもの神近なら、そんな言い方はしない。
涼しげな目元と上品な口元からは想像できないが、さすがに神近も動揺しているのだろう。
やがて、外から駆け寄る足音。
仁朗の父が現れた。
「先生、大丈夫ですか。」
「ええ。何かなくなっていないか確認しているところです。」
神近は淡々と答え、薬の引き出しを確認して志乃に目をやった。
「私は今夜届ける薬を作ります。山元様の具合がよくない。」
山元——中畑でも古くからの商家の元主。
かつての剛健さは影もなく、いまや衰弱の極みにあった。
神近が台に向かうと、志乃も自然と隣に立った。
放射状の模様をもつ円形の生薬、そして黒い粒状の生薬。
それらをさじですくう。
「先生、それは……?」
「木通。アケビの茎です。」
「では、こちらは?」
「細辛。ウスバサイシンの根。手足の冷えと痛みをしずめる薬です。」
神近の指先は迷いなく動き、香気がふっと立ち上る。
志乃は生薬図譜の頁を思い出した。
そういえばあの本は——自宅の棚にあったはずだ。
無意識に胸をなで下ろした。
やがて薬が整い、仁朗と材木屋の男たちが戻ってきた。
不審な影はどこにもなかったという。
神近と志乃は薬を持ち、山元の家へ向かう。
空は鉛色に沈み、冷たい風が頬を刺した。
山の端から雪が落ちてくるような寒さだった。
布団に横たわる山元は、もう骨と皮ばかりになっていた。
志乃がそっと手に触れると、氷のように冷たい。
布団の中でも、熱はどこにも宿っていなかった。
神近がその手を優しく包み、声をかける。
「温まる薬をお持ちしました。お腹の痛みも楽になりますよ。」
さじで薬を口に含ませると、山元の喉がわずかに動いた。
「……ありがとう。」
そのかすかな声に、志乃の胸が熱くなった。
死に向かう……そんなときに他者に礼を言うことができる。
——その静けさの強さに、心が震えた。
神近の横顔が、灯の下で淡く光る。
医者とは、治す者ではなく、寄り添う者なのだ。
死の暗がりの中で、ただ一点の光をともす人——。
志乃は両手で山元の手をを包んだ。
まだ冷たさは変わらない。それでも、少しでも温もりを渡したいと願った。
そのとき、山元がかすかに微笑んだ。
志乃はその微笑を見つめながら、決意を新たにした。
——この手で、人を救えるようになりたい。
たとえ、どんな困難が待っていようとも。
☆当帰四逆加呉茱萸生姜湯☆




