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さんさ 志乃の医薬譚  作者: 朝久野智秋
足楢編

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20/35

「神様、誰に恨まれてるんですか……」

仁朗の第一声は、半ば冗談のようでいて、どこかおびえていた。


 往診を終えて戻り、診療所の扉を開いた瞬間、二人は息をのんだ。

中のものはことごとくひっくり返され、書物は棚から落ち、机の上の器具は粉々に散っている。

風も通わぬ静かな午後の空気の中に、暴力の痕跡だけが生々しく残っていた。

しばらく立ち尽くしたのち、神近が静かに前へ進む。

「誰も……いませんね。」

声が落ち着いている。だが、指先がわずかに震えていた。

床を見渡すと、百味箪笥ひゃくみだんすの引き出しはほとんど開かれていない。

生薬は無事、金銭も残っている。

にもかかわらず、書棚が徹底的に荒らされていた。

「最近、夜道で視線を感じることがありました。」

神近の低い声に、仁朗が顔を上げた。

「えっ、護衛なしで出かけてたんですか?」

「……少し、油断しましたね。」

材木屋の作業音が響く昼間でも、これだけ荒らされれば気づくはずだ。

だが、何も見なかったという隣人の言葉が、かえって不気味さを増す。

——誰かが周到に時間を選んでいた。

 

 その時、扉を叩く音。仁朗の体がびくりと跳ねた。

神近が慎重に戸を開けると、立っていたのは志乃だった。

「え……」

言葉を失い、蒼白になって中を見つめる。

神近は軽く口元をゆるめた。

「ちょうどいいところに。整理整頓の得意な志乃さんが来てくれました。地獄に仏ですね。」

その冗談が、かえって胸に刺さった。

志乃は深呼吸して言葉を絞り出す。

「……盗人ですか?」

「盗人か、嫌がらせか……今、調べているところです。」

「どうして、こんな時でもそんなに冷静なんですか」

仁朗の声が、怒りとも不安ともつかぬ響きを帯びた。

神近は静かにあごに手を当てた。

「冷静じゃありません。ただ、慌てても何も戻りませんからね。」

志乃は思った。——それが、医者の強さなのかもしれない。

「仁朗さん、あなたは父上に報告を。志乃さんと私はここを片付けます」

「はい。」

仁朗が駆け出し、二人だけが残った。

 

 散乱した書物を拾い上げる志乃の手が止まる。

——百味箪笥は無事。薬も金も残っている。

ならば、狙いは何だったのか。

神近がその視線に気づいたように言った。

「志乃さんが一人の時でなくてよかった。命より大切なものはありません。」

確かに、時々一人で留守番をすることもある。志乃は想像して少し体を震わせた。

いつもの神近なら、そんな言い方はしない。

涼しげな目元と上品な口元からは想像できないが、さすがに神近も動揺しているのだろう。

やがて、外から駆け寄る足音。

仁朗の父が現れた。

「先生、大丈夫ですか。」

「ええ。何かなくなっていないか確認しているところです。」

神近は淡々と答え、薬の引き出しを確認して志乃に目をやった。

「私は今夜届ける薬を作ります。山元様の具合がよくない。」

山元——中畑でも古くからの商家の元主。

かつての剛健ごうけんさは影もなく、いまや衰弱の極みにあった。

神近が台に向かうと、志乃も自然と隣に立った。

放射状の模様をもつ円形の生薬、そして黒い粒状の生薬。

それらをさじですくう。

「先生、それは……?」

木通もくつう。アケビの茎です。」

「では、こちらは?」

細辛さいしん。ウスバサイシンの根。手足の冷えと痛みをしずめる薬です。」

神近の指先は迷いなく動き、香気がふっと立ち上る。

志乃は生薬図譜しょうやくずふの頁を思い出した。

そういえばあの本は——自宅の棚にあったはずだ。

無意識に胸をなで下ろした。

やがて薬が整い、仁朗と材木屋の男たちが戻ってきた。

不審な影はどこにもなかったという。


 神近と志乃は薬を持ち、山元の家へ向かう。

空は鉛色に沈み、冷たい風が頬を刺した。

山の端から雪が落ちてくるような寒さだった。

布団に横たわる山元は、もう骨と皮ばかりになっていた。

志乃がそっと手に触れると、氷のように冷たい。

布団の中でも、熱はどこにも宿っていなかった。

神近がその手を優しく包み、声をかける。

「温まる薬をお持ちしました。お腹の痛みも楽になりますよ。」

さじで薬を口に含ませると、山元の喉がわずかに動いた。

「……ありがとう。」

そのかすかな声に、志乃の胸が熱くなった。

死に向かう……そんなときに他者に礼を言うことができる。

——その静けさの強さに、心が震えた。

神近の横顔が、灯の下で淡く光る。

医者とは、治す者ではなく、寄り添う者なのだ。

死の暗がりの中で、ただ一点の光をともす人——。

志乃は両手で山元の手をを包んだ。

まだ冷たさは変わらない。それでも、少しでも温もりを渡したいと願った。

そのとき、山元がかすかに微笑んだ。

志乃はその微笑を見つめながら、決意を新たにした。

——この手で、人を救えるようになりたい。

たとえ、どんな困難が待っていようとも。



☆当帰四逆加呉茱萸生姜湯☆

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